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原始仏典コミュの律蔵 「ゴータマ伝2」 初転法輪・中道・四諦・五蘊無我

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(続き)


「時に先生は次第に遊行してバーラーナシー国、イシパタナ・ミガダーヤにいたり五比丘のいるところに近づいた。五比丘は遠くより先生が来るのを見た。見て互いに約束して言った。
「あそこから来るのは沙門ゴータマだ。彼は奢侈(しゃし、贅沢)になって精勤を捨て、奢侈に堕ちた。彼に礼をしてはならない。立って迎えてはならない。彼の衣鉢を取ってはならない。ただし座は設けよう。彼がもし欲するなら坐ることを得るだろう」。
 先生が五比丘に近づくにしたがって、五比丘は自分たちの約束を守らず、立って先生を迎え、ある者は世尊の先生を取り、ある者は座を設け、ある者は足を洗う水、足を置く台、足を拭く布を持ってきた。先生は設けの座に坐した。坐して先生は足を洗った。そうではあるが、(五比丘は)先生を呼ぶのに名をもってし、または卿(おんみ)をもってした。
 彼らがこのように呼んだとき、先生は五比丘に告げて言った。
「比丘たちよ、あなたたちは如来を呼ぶのに名をもってし、または君と呼んではならない。
 比丘たちよ、如来は阿羅漢・正覚者である。
 比丘たちよ、よく聞きなさい。私はすでに不死を証得した。私は教えよう。私は法を説こう。教えるところにしたがって行ずれば、久しくなく無上の梵行の究尽を現実に自ら証知し現証し具足して住するだろう。これは善男子の在家を出て出家したところの本懐である」。
 このように説いたとき、五比丘は先生に言った。
「ゴータマよ、あなたはあの行、あの道、あの難行をもってしても、なお、人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得しなかった。今またあなたは奢侈にして精勤を捨て、奢侈に堕ちた。どうして人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得することを得るだろうか」。
 このように言ったとき、先生は五比丘に告げて言った。
「比丘たちよ、如来は奢侈ではない。精勤を捨てたのでもない。奢侈に堕ちたのでもない。
 比丘たちよ、如来は阿羅漢・正覚者である。
 比丘たちよ、よく聞きなさい。私はすでに不死を証得した。私は教えよう。私は法を説こう。教えるところにしたがって行ずれば、久しくなく無上の梵行の究尽を現実に自ら証知し現証し具足して住するだろう。これは善男子の在家を出て出家したところの本懐である」。
 五比丘は重ねて先生に言った。
「ゴータマよ、あなたはあの行、あの道、あの難行をもってしても、なお、人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得しなかった。今またあなたは奢侈にして精勤を捨て、奢侈に堕ちた。どうして人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得することを得るだろうか」。
 このように言ったとき、先生は重ねて五比丘に告げて言った。
「比丘たちよ、如来は奢侈ではない。精勤を捨てたのでもない。奢侈に堕ちたのでもない。
 比丘たちよ、如来は阿羅漢・正覚者である。
 比丘たちよ、よく聞きなさい。私はすでに不死を証得した。私は教えよう。私は法を説こう。教えるところにしたがって行ずれば、久しくなく無上の梵行の究尽を現実に自ら証知し現証し具足して住するだろう。これは善男子の在家を出て出家したところの本懐である」。
 五比丘は三たび先生に言った。
「ゴータマよ、あなたはあの行、あの道、あの難行をもってしても、なお、人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得しなかった。今またあなたは奢侈にして精勤を捨て、奢侈に堕ちた。どうして人間を越えた法、確かに聖なる智見を証得することを得るだろうか」。
 このように言ったとき、先生は重ねて五比丘に告げて言った。
「比丘たちよ、あなたたちは今より先に私がこのように説いたことがあったと知るか」。
「知らない」。
「比丘たちよ、如来は阿羅漢・正覚者である。
 比丘たちよ、よく聞きなさい。私はすでに不死を証得した。私は教えよう。私は法を説こう。教えるところにしたがって行ずれば、久しくなく無上の梵行の究尽を現実に自ら証知し現証し具足して住するだろう。これは善男子の在家を出て出家したところの本懐である」。
 世尊は五比丘を説得するを得た。時に五比丘はもとのように先生に傾聴し、よく聴き、理解しようという心を起こした。

 時に先生は五比丘に告げて言った。
「比丘たちよ、世に二辺(二つのもの)がある。出家者は親近すべきではない。何を二と為すのか。
 (一に)諸欲に愛欲貪著を事とするのは、下劣、卑賤であって凡夫の所行である。賢聖ではない。無義相応(利益なし)である。
 (二に)自ら煩苦を事とするのは苦にして賢聖ではない。無義相応である。
 比丘たちよ、如来はこの二辺を捨てて中道を現等覚した。これは眼を生じ、寂静・超知・正覚・涅槃に資する。
 比丘たちよ、何を如来が正覚したところの、眼を生じ、寂静・超知・正覚・涅槃に資する中道と為すのか。これ八聖道である。即ち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 比丘たちよ、これを如来が正覚したところの、眼を生じ、寂静・超知・正覚・涅槃に資する中道と為す。
 比丘たちよ、苦聖諦(苦しみという聖なる真理)とはこれである。生は苦である、病は苦である、死は苦である、怨憎するものに会うのは苦である、愛するものと別離するのは苦である、求めて得られないのは苦である、略説するに五取蘊は苦である。
 比丘たちよ、苦集聖諦(苦しみの原因という聖なる真理)とはこれである。後の有をもたらし、喜貪倶行(喜びと貪りを伴う行)にして随所に歓喜する渇愛(タンハー)である。即ち欲愛・有愛・無有愛である。
 比丘たちよ、苦滅聖諦(苦しみの消滅という聖なる真理)とはこれである。この渇愛を余りなく離れ滅し、棄捨し、定棄し、解脱して執着がないことである。
 比丘たちよ、苦滅道聖諦(苦しみの消滅にいたる道という聖なる真理)とはこれである。八聖道である。即ち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、苦聖諦とはこれであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦聖諦を遍知(知り尽くす)すべきであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦聖諦をすでに遍知したと、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。

 比丘たちよ、苦集聖諦とはこれであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦集聖諦を断つべきであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦集聖諦をすでに断ったと、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。

 比丘たちよ、苦滅聖諦とはこれであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦滅聖諦を現証すべきであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦滅聖諦をすでに現証したと、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。

 比丘たちよ、苦滅道聖諦とはこれであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦滅道聖諦を修習すべきであると、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。
 比丘たちよ、まさにこの苦滅道聖諦をすでに修習したと、先に未だ聞いたことのない法において私に眼が生じた、智が生じた、慧が生じた、明が生じた、光明が生じた。

 比丘たちよ、私はこの四聖諦をこのように三転十二相に行ずることによって如実智見がいまだすべて清浄とならない間は、比丘たちよ、私は天・魔・梵天の世界、沙門バラモン・人・天の衆生界において無上の正覚を正覚したとは称さなかった。
 比丘たちよ、そうであるが、私はこの四聖諦をこのように三転十二相に行ずることによって如実智見がすでにすべて清浄となったがゆえに、比丘たちよ、私は天・魔・梵天の世界、沙門バラモン・人・天の衆生界において無上の正覚を正覚したと称した。
 また私に智と見とが生じた。私の心解脱は不動である。これは私の最後の生である。さらに後の有(生存)を受けない、と」。
 先生はこのように説いて、五比丘は歓喜して先生の説いたところを信受した。また、この教えを説いていたとき、尊者コーンダンニャに遠塵離垢の法眼が生じた。集法を有するものはすべてこれ、滅法を有す(生じるものは滅することがある)、と。
 先生が法輪を転じたとき、地居天(ぢごてん、地に住む神々、ブンマー・デーヴァー)は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシー国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 地居天の声を聞いて四大王天(チャートゥ[四]マハー[大]ラージカー[王]の神々)は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 四天王天の声を聞いて三十三天(ターヴァティムサー・デーヴァー、三十三を意味する)は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 三十三天の声を聞いてヤーマ天は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 ヤーマ天の声を聞いてトゥシタ天は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 トゥシタ天の声を聞いて化楽天は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 化楽天の声を聞いて他化自在天は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 他化自在天の声を聞いて梵身天(ブラフマカーイカー・デーヴァー)は声を発して言った。
「このように先生は、バーラーナシ国、イシパタナ・ミガダーヤにおいて無上の法輪を転じられた。これ、あるいは沙門、あるいは婆羅門、あるいは天、あるいは魔、あるいは梵天、あるいは世間の何人といえども覆すことができないところである」。
 このようにその刹那、その時刻、その短い間に乃至、梵天までその声は達した。そしてこの一万世界(ダササハッシ[十千]ローカ[世]ダートゥ[界])は動き震え揺るぎ、無量広大の光明が世間に現れ、諸天の神としての威力を越えた。時に先生は賞賛して言った。
「コーンダンニャが悟った。コーンダンニャが悟った」。
 これによって尊者コーンダンニャを名付けてアンニャーコーンダンニャ(悟ったコーンダンニャ)と言う。
 時に尊者コーンダンニャはすでに法を見て、法を得て、法に悟入して、疑惑を越え、猶予(ためらい)を除き、無畏を得て、師の教えを除いて他に依ることなく、先生に言った。
「私は願わくば先生のみもとにおいて出家して具足戒を得ましょう」。
 先生は言った。
「来れ、比丘よ。法はよく説かれた。正しく苦を滅尽するために梵行を行じなさい」。
 これがかの尊者の具足戒であった。
 
 時に先生は法を説いてその他の比丘を教導し教誡した。時に先生が法を説いて教導し教誡したとき、尊者ヴァッパと尊者バッディヤとに遠塵離垢の法眼が生じた。集法を有するものはすべてこれ、滅法を有すと。
 彼らはすでに法を見て、法を得て、法に悟入して、疑惑を越え、猶予を除き、無畏を得て、師の教えを除いて他に依ることなく、先生に言った。
「私たちは願わくば先生のみもとにおいて出家して具足戒を得ましょう」。
 世尊は言った。
「来れ、比丘よ。法はよく説かれた。正しく苦を滅尽するために梵行を行じなさい」。
 これがかの尊者たちの具足戒であった。
 
 時に先生は施物を食しながら、法を説いてその他の比丘を教導し教誡した。三人の比丘が乞食に行き、その得たところによって六人は暮らした。
 時に先生は法を説いてその他の比丘を教導し教誡した。時に先生が法を説いて教導し教誡したとき、尊者マハーナーマと尊者アッサジとに遠塵離垢の法眼が生じた。集法を有するものはすべてこれ、滅法を有すと。
 彼らはすでに法を見て、法を得て、法に悟入して、疑惑を越え、猶予を除き、無畏を得て、師の教えを除いて他に依ることなく、先生に言った。
「私たちは願わくば先生のみもとにおいて出家して具足戒を得ましょう」。
 先生は言った。
「来れ、比丘よ。法はよく説かれた。正しく苦を滅尽するために梵行を行じなさい」。
 これがかの尊者たちの具足戒であった。

 時に先生は五比丘に告げて説いた。
「比丘たちよ、色(ルーパ、物質)は無我である。
 比丘たちよ、もしこの色が我であったならば、この色は病むことはないだろう。色において『私はこの色を用いよう、あの色を用いないようにしよう』ということができるだろう。
 比丘たちよ、しかし色は無我であるがゆえに、色は病み、色において『私はこの色を用いよう、あの色を用いないようにしよう』ということができない。
 受(ヴェーダナー、感受)は無我である。
 比丘たちよ、もしこの受が我であったならば、この受は病むことはないだろう。受において『私はこの受を用いよう、あの受を用いないようにしよう』ということができるだろう。
 比丘たちよ、しかし受は無我であるがゆえに、受は病み、受において『私はこの受を用いよう、あの受を用いないようにしよう』ということができない。
 想(サンニャー、想い)は無我である。
 比丘たちよ、もしこの想が我であったならば、この想は病むことはないだろう。想において『私はこの想を用いよう、あの想を用いないようにしよう』ということができるだろう。
 比丘たちよ、しかし想は無我であるがゆえに、想は病み、想において『私はこの想を用いよう、あの想を用いないようにしよう』ということができない。
 行(サンカーラ、行じること、形成すること)は無我である。
 比丘たちよ、もしこの行が我であったならば、この行は病むことはないだろう。行において『私はこの行を用いよう、あの行を用いないようにしよう』ということができるだろう。
 比丘たちよ、しかし行は無我であるがゆえに、行は病み、行において『私はこの行を用いよう、あの行を用いないようにしよう』ということができない。
 識(ヴィニャーナ、認識作用)は無我である。
 比丘たちよ、もしこの識が我であったならば、この識は病むことはないだろう。識において『私はこの識を用いよう、あの識を用いないようにしよう』ということができるだろう。
 比丘たちよ、しかし識は無我であるがゆえに、識は病み、識において『私はこの識を用いよう、あの識を用いないようにしよう』ということができない。
 比丘たちよ、あなたたちはどう思うか。色は常住(永遠)か、無常か」。
「無常です」。
「無常であるものは苦か、楽か」。
「苦です」。
「無常、苦にして変化の法を有するものを見て『これは私のもの(我所)である。これは私(我)である。これは私の我(我体)である』ということができるだろうか」。
「できません」。

「受は常住か、無常か」。
「無常です」。
「無常であるものは苦か、楽か」。
「苦です」。
「無常、苦にして変化の法を有するものを見て『これは私のものである。これは私である。これは私の本質である』ということができるだろうか」。
「できません」。

「想は常住か、無常か」。
「無常です」。
「無常であるものは苦か、楽か」。
「苦です」。
「無常、苦にして変化の法を有するものを見て『これは私のものである。これは私である。これは私の本質である』ということができるだろうか」。
「できません」。

「行は常住か、無常か」。
「無常です」。
「無常であるものは苦か、楽か」。
「苦です」。
「無常、苦にして変化の法を有するものを見て『これは私のものである。これは私である。これは私の本質である』ということができるだろうか」。
「できません」。

「識は常住か、無常か」。
「無常です」。
「無常であるものは苦か、楽か」。
「苦です」。
「無常、苦にして変化の法を有するものを見て『これは私のものである。これは私である。これは私の本質である』ということができるだろうか」。
「できません」。

「このゆえに比丘たちよ、一切の過去未来現在の色の、あるいは内(自分)、あるいは外(自分以外)、あるいは粗(大きなもの)、あるいは細(小さいもの)、あるいは劣(劣ったもの)、あるいは勝(優れたもの)、あるいは遠(遠いもの)、あるいは近(近いもの)である一切の色は、これは私のものではない、これは私ではない、これは私の本質ではないと、このように正しい智慧(正慧)をもって如実(事実の通り)に観じるべきである。
 一切の過去未来現在の受の内外粗細劣勝遠近である一切の受は、これは私のものではない、これは私ではない、これは私の本質ではないと、このように正しい智慧をもって如実に観じるべきである。
 一切の過去未来現在の想の内外粗細劣勝遠近である一切の想は、これは私のものではない、これは私ではない、これは私の本質ではないと、このように正しい智慧をもって如実に観じるべきである。
 一切の過去未来現在の行の内外粗細劣勝遠近である一切の行は、これは私のものではない、これは私ではない、これは私の本質ではないと、このように正しい智慧をもって如実に観じるべきである。
 一切の過去未来現在の識の内外粗細劣勝遠近である一切の識は、これは私のものではない、これは私ではない、これは私の本質ではないと、このように正しい智慧をもって如実に観じるべきである。
 比丘たちよ、聞くことのある聖なる弟子がこのように観じれば、色を厭患(嫌悪)し、受を厭患し、想を厭患し、行を厭患し、識を厭患する。厭患すれば離貪する。離貪すれば解脱する。解脱すれば『私はすでに解脱した』という智が生じ、『生はすでに尽き、梵行はすでに立ち、為すべきことはすでに為し、さらにまた有を受けない』と知る」。
 先生がこのように説いたとき、五比丘は歓喜して先生の説いたところを信じて受けた。またこの教えを説いていたとき、五比丘は取(執着)なくして諸漏から心解脱した。そのとき、世間に阿羅漢は六人となった」 (続く)



     『南伝大蔵経3 律蔵3』大蔵出版 P16〜26  を現代語訳

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