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織田一族コミュの信長子息【信正・信忠〜長次】

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信長には11人の男子がいた。
庶子として存在に疑問符がつくこともある信正を加えると12人になる。
信長の子息で有名なのは、本能寺の変で共に討死した嫡男信忠
徳川家康と結んで秀吉と戦った次男信雄
柴田勝家と結んで秀吉と戦った三男信孝がメジャーであろうか。
他に秀吉の養子となった四男秀勝(五男説もある)や、
武田家の人質となっていた五男勝長(四男説も有)がおり、
あとは本能寺の変当時元服していなかった、信秀・信高・信吉・信貞・信好・長次らがいる。
また、正式な記録や系図には載っていない庶子(非嫡子)という存在も幾人か見られる。側室の連れ子や義理の子になる人物も数人いるのが、信長の性質をよく現しているといえる面もある。

このトピックスでは、信長の子息について考察していきます。
公式・非公式・嫡子・非嫡出子は問いません。
あまり知られていないマイナーなこと(噂や俗説などでもいいです)があれば是非、書き込んでくださるようお願いします。(雑談所でもいいですが。)

コメント(24)

加賀藩に仕えた津田氏の中に「信長公末子宗十郎二子アリ兄内記弟覚兵衛」という由緒を持つ家があります。信長の末子、宗十郎。その宗十郎の二男、覚兵衛が家祖です。
信長の末子とありますが、長次の通称は知る限りでは宗十郎ではありません。そうなると宗十郎とは誰なのでしょうか?
信長の子息に宗十郎という名前の人物はいませんね。
娘婿あたりか〜と思いましたが、それらしき人物は見当たりません。
加賀藩士となった津田家、織田一族と言えば、織田信次系の中川重政の子孫がありますが、その系列でしょうか・・・。
また、織田一族の柘植の家に、十郎という人物と宗助という人物が当時いた記録がありますが、それが伝承で間違い合わさってしまったという可能性も・・・少ないですが。
いずれにしても、信長の子息にはそのような人物は見られません。どなたかご存知の方、情報求む。
加賀藩には信長の子といわれる生駒直勝もいますね。直勝の子、直義は信雄の娘を妻としていますから、出自が本当だとしたら、信長の孫同士の結婚という訳で。
◆織田信高(小洞・藤十郎・羽柴左衛門佐)
◆織田信吉(酌・武蔵守)

共に母はお鍋の方。

兄弟は豊臣秀吉の下で、信高は近江愛知郡菩提寺村、神崎郡山上村に計二〇六〇石を、信吉は神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに計二〇〇〇石を与えられたが、関ヶ原の戦いにおいて兄弟は西軍に加わり領地を没収された。
その後まもなく信高は死去(1602年12月12日)した。子孫は二〇〇〇石の高家旗本となり幕末まで続いた。
信吉は高野村に蟄居となり後に大坂城下へ移る。1615年4月18日京都にて43歳で死去。法名は省華院雲厳道ト。子孫は京極家へ仕えた。
◆織田信正(1557〜1582年) 古渡城主

幼名:勝、於勝丸
官途通称:帯刀、大隈守、主膳正、従四位下侍従

父:織田信長
母:原田直政の妹・直子

別名:村井重勝
義父:村井貞勝、織田信広
正室:織田信広の娘

信長の庶長子とされるが、その立場は極めて弱く、一門扱いされていたかも疑わしい。一時、村井貞勝の養子とされ、帯刀重勝と名乗っていた。その後、信長の兄・信広の娘を妻に迎え、信広家を継承した。尾張国古渡城主となっており、冷遇されつつも、一定の所領は形成していたようだ。
また、同じ庶子という立場からか、神戸信孝と仲が良かった。そのため、本能寺の変後、秀吉の為に信孝が自害すると連座に処せられ、所領を奪われ出家し、京都見性寺にて94歳まで生きた。
法名は見性寺正誉英巌了盛。

子息に長男・信衡、次男・的寿の二人がいる。

・織田信衡(1574〜1663年)
幼名:勝若丸
通称:三郎四郎、帯刀大夫
豊臣秀次に仕えたが、秀次失脚に連座し所領没収の憂き目にあった。
子息に織田信真(信直)

・織田的寿(1591〜1676年)
幼名:亀千代
名前からして、父・信正の後を受け見性寺に入寺し僧侶となったか。
しかし、織田信正という人も謎ですね
古渡城主というだけで知行がどれくらいかも不明ですし
実際、家臣扱いの庶子とはいえもう少し記録がありそうなものですけどね。
尾張域誌などを緻密に精査していけばそういった記述もあるとは思いますが、そういったものは一次資料として現存している可能性も低く、細かい研究が行われるような分野でもないのが難しいところですね。
頓に、信正はやもすれば存在すら危ぶまれる人物ですし。
もっとも、その他の庶子であった可能性のある乙殿と呼ばれる人物や、生駒直勝などに比べれば一門として資料に存在するものもあるあたりマシかもしれません・・・。
連枝衆というものは、概ねその活動が一門の頭に集約されてしまいがちなので、結果後世に記録が残りにくいものなのでしょう。
>織田信正

生没年は『系図纂要』によると1554〜1647ですね。

>織田的寿

『系図纂要』に見性寺二世とあるので、父の後を継いだのでしょう。

織田信正に関しては「見性寺開基織田信正位牌銘」『系図纂要』「好古類纂」でそれぞれ書いてあることが微妙に違う上、すべて後世の記録なので、どこまで事実を伝えているのか判断が難しいです。
◆織田長次(?〜1600)
幼名:縁(えん)
通称:長兵衛

公式上、信長の末子。
母は不明だが、信高・信吉と同母弟とする説もある。

豊臣秀吉・秀次に仕え、関ヶ原の合戦では信吉とともに
西軍として参戦・大谷吉継隊に所属し、戦死した。
おそらく二十歳前後のことと考えられる。
◆織田勝長(?〜1582) 犬山城主

幼名:坊丸
通称:源三郎
別名:津田信房

一般に信長の五男とされるが、四男の秀勝と逆順である可能性もある。
妻は池田恒興の娘。

8歳の時、美濃岩村城主遠山景任没後、その妻(信長の叔母・おつやの方)から請われ養子となる。

元亀3年(1572年)、武田信玄の武将秋山信友によって攻められて岩村城は陥落し、武田方の居城となる。おつやの方が秋山信友を夫として迎え入れることで和議を結び、信友が岩村城主となり、坊丸は甲斐に送られ、信玄の養子(人質)となった。
甲斐で元服し、源三郎勝長と名乗る。

天正9年(1581年)11月、武田勝頼によって坊丸は送還され、安土城で信長と対面。
織田家復帰後犬山城主となり、源三郎信房を名乗る。
一般には勝長で流布しているが、当時の書状における署名は「信房」で統一されている。
(このあたり、信長の弟・信行の状況と似ている。)
また、津田姓を名乗った形跡もある。

織田家においては、兄・信忠の与力(連枝衆)として活動。
武田攻めに参陣。信濃・上野を攻略し、武田側の武将小幡氏を降伏させるなど活躍を見せる。
信忠の弟という立場で有力一門になりかけていたが、本能寺の変にあい、信忠と共に二条御所にて奮戦し討ち死にした。
法名は林庭宗松。

子息に津田勝三郎(源三郎)勝良と同覚兵衛がいる。

両名は本能寺の変後、尾張で織田信雄に仕えた後、加賀金沢藩前田氏に仕え、勝良は600石を、覚兵衛は400石をそれぞれ知行した。子孫は金沢藩士。
勝長の子供といえば、母親は池田恒興の娘で、本能寺の変のとき2歳で、のち池田家に仕えた村田伝右衛門という人物がいますが、『群書系図部集』などの系図には見当たりません。
妻が池田恒興の娘という伝承から考えれば、池田家に仕えたという点で加賀藩士津田家より信憑性はありそうですが。

あと、津田覚兵衛は信長の孫ですけど、勝長の子供ではありませんよね?
>津田覚兵衛
加賀地史の資料で「信長の孫勝良、同覚兵衛」というくだりがあったのでそうなのかな、と思い書いてみましたが。やはり違うのですかね。
また、別資にて「勝良は勝長の長男」という文があり、「長男」と書くからには「次男」もいるはず・・・ならば次男・覚兵衛か?
と推察した次第です。

そして勝長の子でない場合、誰の子なのかがまた不明ですね。
津田覚兵衛はこのトピックの1番に書いている「信長公末子宗十郎二子アリ兄内記弟覚兵衛」の覚兵衛ですね。
>ぶきっちゅさん
>村田伝右衛門
本能寺の変の時2歳っておかしくないです?
勝長が武田から織田に戻ってきたのは、本能寺の変の7ヶ月前ですよ。
武田にいた時に、池田恒興の娘を側室に据える事が出来たとは思えませんが。
近年の研究によると勝長は天正七年末から翌八年初頭の間に織田家へ送還されているようなので、それだと伝右衛門が天正九年に生まれることも十分可能ですね。
>勝長は天正七年末から翌八年初頭の間に織田家へ送還されているようなので
それは、なんと言う文献史料から明らかになったのでしょうか?
>絢女さん

詳しいことは

・平山優「織田源三郎信房について」『山梨県史だより』第30号 2005年
・丸島和洋「甲佐同盟に関する一考察 ―武田勝頼期を対象として―」『年報 三田中世史研究』第7号 2000年

を御参照下さい。
>ぶきっちゅさん
ありがとうございます、ぜひ読んでみますね。
せっかくなので津田勝良について。

津田勝良(?〜元和二年)

源三郎。妻は織田信次の孫娘か。
慶長七年、前田利長に仕えて知行六百石。
大坂の陣では前田利常の馬廻として参陣し、首級を一つ挙げたという。
元和二年没。
息女は源三郎長政、長次郎、坂野七左衛門妻。
>津田勝良

とある二次資料にて勝良のことを

「勝三郎」

としていたのは誤記なんでしょうか。
その他の資料では大体源三郎で記されていますし。
勝長の妻が池田勝入斎恒興の娘ということで、
「勝」もありえるかなと思い、記してみたのですが。

ただ、ぶきっちゅさんの仰るように嫡男が源三郎を名乗ったということは、勝長から嫡男は源三郎を受け継いだと考えるのが妥当ですね。
勝三郎というのは単なる誤記か、勝長が池田勝三郎恒興の女婿というのを踏まえて記されたものではないでしょうか。
>ぶきっちゅさん

「織田源三郎信房について」と「甲佐同盟に関する一考察 ―武田勝頼期を対象として―」を読ませていただきました。
残念ながら、元になる史料の信憑性に疑問があるようで、天正七年末から翌八年初頭に戻ったと論の中では仮定されてはおられましたが、ちょっと無理があるように感じました。
犬山城主になって最初に発布されたという禁制とも、齟齬を生じるようですし、源三郎という通称を用い始めた時期のことを考えても、疑問が残ります。
また、信房自身の書状が、天正10年のものしか示されていませんし、天正7年から9年についての処遇の確たる証拠はないようですね。
現状、はっきり分かっているのは、天正9年末に犬山城におり、城主になったということくらいのようだと思いました。
◆織田信雄(1558〜1630)

名:茶筅、三介、具豊、信意、信勝、信雄
官:侍従、左中将、大納言、内大臣
法:常真入道、徳源院、実厳

実父:織田信長
実母:生駒家宗の娘
養父:北畠具房
義父:北畠具教

兄:織田信忠
弟:信孝、信房、秀勝、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次

正室:北畠具教娘(雪姫・千代御前)
継室:木造具政娘
側室:津田長利娘、久保三右衛門娘、他

子:秀雄、重雄、高雄、信良、高長、長雄
娘:小姫、八重姫、佐々一義室、生駒直義室、佐々木政勝室など

永禄元年(1558)生誕。織田茶筅。
元亀元年(1570)北畠具房の養嗣子となり具教の娘雪姫(具房妹)を娶る。大河内城主。北畠茶筅丸。
元亀3年(1572)元服。北畠三介具豊と成り後に信意に改める。
天正2年(1574)7月第三次伊勢長島一向一揆攻めに水軍を率い参陣。侍従任官。
天正3年(1575)6月家督相続。北畠当主・伊勢国司となり御本所と称される。田丸城主。左近衛中将任官。
同年8月越前一向一揆平定戦。
天正4年(1576)11月具教他北畠一族の大部分を粛清。
同年12月北畠氏残党討伐。
天正5年(1577)2月紀伊雑賀衆平定戦。
天正6年(1578)10月荒木村重謀反鎮圧戦。
天正7年(1579)独断で伊賀に侵攻するも大敗。叱責される。
天正8年(1580)伊勢田丸城焼失の為、松ヶ島城を築城。松ヶ島城主。
天正9年(1581)伊賀平定。3郡を領す。
天正10年(1582)2月甲斐武田制圧戦。
同年6月2日本能寺の変直後蒲生賢秀の援軍要請に応え近江土山まで軍勢を進めたが光秀敗死の報を受け帰国。この頃織田へ復姓、信雄と名乗る。
同年6月27日清洲会議にて尾張を相続・清洲城主となる。
併せて三法師の後見人として南伊勢伊賀尾張約100万石を領す。
天正11年(1583)3月からの賤ヶ岳合戦でも秀吉と結ぶ。
同年4月24日信孝を岐阜城に包囲。降ろし自刃せしめるがその後家康に接近。
天正12年(1584)3月小牧長久手合戦では家康と連合するも戦線は膠着。
同年11月羽柴軍別働隊が伊賀・伊勢に侵攻するに及び秀吉と講和。伊勢半国と伊賀を割譲。以後秀吉に属す。
天正13年(1585)居城・伊勢長島城が地震で大破した為、尾張清洲城に移る。
越中佐々攻めに従軍。降伏を仲介。
天正15年(1587)九州征伐の後内大臣に昇進。
天正18年(1590)1月、秀吉の養女となっていた長女小姫と秀忠が結婚。
同年小田原征伐韮山城攻め。後移封を拒み除封。この時出家し常真と称す。
下野烏山2万石を捨扶持として与えられ、常陸佐竹氏預りに。
天正19年(1591)秋田、次いで伊勢熊野・伊予と移されるも家康の斡旋で赦免される。
天正20年・文禄元年(1592)文禄の役に際し肥前名護屋で秀吉に再出仕。
相伴衆(御伽衆)に加えられ茶の湯に傾倒。叔父有楽に学ぶ。
慶長年間に嫡子秀雄が越前大野5万石と羽柴姓を拝領し、自身も大和国内で1万8千石を与えられ大坂天満に寓居。肥前名護屋にも在陣した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では畿内情報を家康に送るも、嫡子・秀雄が西軍に属し自身も西軍から銀を受取るなどしたため親子共改易。
秀雄は徳川秀忠から米3千表を支給され江戸に居、信雄は大坂へ身を寄せた。
方広寺鐘銘事件の折、従姉妹である淀殿から片桐且元殺害の上挙兵する相談を受けたが慎重論を唱え、その旨且元に知らせ彼を退去せしめ、自身も脱出した。
元和元年(1615)上野甘楽・多胡・碓氷郡内2万石と大和宇陀郡松山3万石合計5万石を領し、織田宗家として大和国持大名の格式を得る。
上野甘楽に居を構え庭園楽山園を作る一方養蚕等産業の育成にも力を注いだ。
後四男信良に上野小幡藩2万石を与え、晩年は京都北野に寓居し茶と鷹狩に明け暮れた。実質隠居であった。
寛永5年(1628)10月家光の招きにより江戸城での茶会に参加。
寛永7年(1630)4月30日没。享年73歳。
実質的隠居料であった大和宇陀3万1200石は五男高長が継いだが、この相続には上野小幡織田家から異論が出され、幕府の裁決により認められた。

※本能寺の変後の安土城焼失は、信雄の暗愚な印象行為ではなく、実際は略奪に入った土民が行ったものという研究が昨今確実視されている模様。
・信雄子息順序の疑問

織田秀雄
信雄の長男として秀吉の下で大名になった。
生没年は1583〜1610で享年27

織田高雄
信雄の三男で早世。
生没年は不明だが、資料によっては没年を1574年とするものもある。

秀雄の生年と高雄の没年が正しいとすると、実際の兄弟順は異なるということになる。
秀雄は信雄25歳の時の子であるが、高雄はそれ以前にできた庶子ということか。
四男信良が1584年生誕であることから、ありえない話ではないのかもしれない。
そうすると、北畠氏腹が長男・秀雄と次男・重雄(夭折)。木造氏に三男・高雄(庶長子)と四男・信良、久保氏に五男・高長と八男・長雄、津田氏が六男・信為と七男・良雄ということだろうか。
高雄が北畠氏とする資料もあるが、この場合は単に没年が間違っているとなろうか。

織田信雄の系統は、大名として2家も残ったわけだが、長男・秀雄、四男・信良、五男・高長、六男・信為以外の4人に関しては不明な点が多い。単に早世した為であろうか、あるいは・・・?

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