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チェダゼミナールコミュの2学期中間テスト対策プリント

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平安時代 794〜1185
【平安初期の政治】
・ 784年1( 桓武天皇 )は2( 長岡 )京に遷都した。
・ 長岡京は3( 山背 )国にある。
・ 785年、造長岡宮使である4( 藤原種継 )が暗殺され、皇太弟早良親王が廃位された。
・ 794年5( 和気清麻呂 )の建議により6( 平安 )京への遷都が行われた。
・ 平安京遷都により山背国は7( 山城 )国に改められた。
・ 桓武天皇は8( 勘解由使 )という令外官を設置して、国司の交代を厳しく取り締まった。
・ 国司が在任中に不正がなかったことを示す証明書を9( 解由状 )という。
・ 792年には、東北・九州を除いて軍団を廃止し、郡司の子弟による10( 健児 )の制を採用した。
・ 桓武天皇が行わせた徳政相論で、11( 蝦夷征討 )にあたる「軍事」と、12( 平安京造営 )にあたる「造作」が中止された。
・ 桓武天皇の次には、子の13( 平城天皇 )が即位した。
・ 810年に藤原14( 薬子 )と兄の藤原15( 仲成 )がおこした政変を16( 平城太政天皇の変 )という。この政変は薬子が平城天皇の重祚を図ったものだが失敗に終わった。
・ 薬子の変の際、天皇側の機密保持のために設けられた役所を17( 蔵人所 )といい、長官である蔵人頭には18( 藤原冬嗣 )が任命された。
・ 嵯峨天皇のときに置かれた都の治安・警察を担当した令外官は19( 検非違使 )である。
・ 律令を補足修正した追加法を20( 格 )、基本法の施行細則を21( 式 )という。
・ 桓武天皇のとき、蝦夷平定のため22( 坂上田村麻呂 )が23( 征夷大将軍 )に任命され、蝦夷平定に成功した。
・ 802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に24( 胆沢城 )を築いて、25( 鎮守府 )を移した。
・ 胆沢城が築かれた翌年には、その北方に26( 志波城 )を築造して拠点とした。
・ 蝦夷征討の結果、帰順同化した蝦夷は27( 俘囚 )と呼ばれる。
・ 公営田は、9世紀に28( 大宰府 )に置かれた。
・ 879年に畿内に設けられた直営田を29( 官田 )という。
・ 9C前半の文化を30( 弘仁・貞観文化 )という。
・ 天台宗は31( 最澄 )が、真言宗は32( 空海 )が開いた。
・ 最澄や空海は33( 唐 )<国名>で密教を学んだ。
・ 最澄は比叡山34( 延暦寺 )で天台宗を伝えた。
・ 空海は帰国したあと、高野山の35( 金剛峰寺 )と京都の36( 東寺 )(教王護国寺)の両寺で布教にあたった。
・ 真言宗は37( 加持祈祷 )といった秘密の呪法を通じた救いを強調する密教を基盤としていた。
・ 密教の中心仏を38( 大日如来 )という。
・ 最澄が延暦寺の戒壇設立の正当性を書いた書を39( 顕戒論 )という。
・ 8Cには神社の境内に神宮寺を建て、神前で読経する40( 神仏習合 )の風潮が発達した。
・ 山中での修行を重んじる密教と山岳信仰が結びつき、後世の41( 修験道 )の基礎が築かれた。
・ 42( 室生寺 )は女人高野と呼ばれた。
・ 43( 曼荼羅 )は、密教による仏教の世界観を独特な構図で説いたものである。
・ この時期の仏像は一本の木で造る44( 一木造 )が多く、布のシワを表現した45( 翻波式 )の衣文が流行した。
・ 最初の勅撰漢詩文集は46( 凌雲集 )である。
・ 三筆とは47( 嵯峨天皇 )48( 空海 )49( 橘逸勢 )である。
・ 平安時代になると、有力な貴族は一族の子弟の教育のために、寄宿舎と研究室を兼ねた施設として50( 大学別曹 )を建てた。
・ 空海は庶民教育機関として51( 綜芸種智院 )を建てた。

【藤原氏の他氏排斥】
・ 藤原冬嗣の子は、1( 藤原良房 )である。
・ 842年に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢が失脚した事件を2( 承和の変 )
・ 858年、3( 清和 )天皇が幼少で即位したため4( 藤原良房 )が臣下で初めて摂政となった。
・ 866年の5( 応天門の変 )は、大納言6( 伴善男 )が左大臣源信を失脚させようとして応天門に放火した事件である。
※ 「変」とは非常の悪い事件の意。
・ 藤原良房の養子の7( 藤原基経 )は、臣下で初めて関白の地位についた。
・ 8( 宇多 )天皇が887年に即位すると、藤原基経は名実ともに関白となった。
・ 藤原基経は、9( 阿衡 )事件で橘広相を失脚させた。
・ 菅原道真は10( 宇多 )天皇に登用された。
・ 宇多天皇の譲位後、子の11( 醍醐 )天皇が即位した。
・ 醍醐天皇は12( 菅原道真 )を右大臣に、13( 藤原時平 )を左大臣に置いた。
・ 藤原時平はライバル菅原道真を14( 大宰府 )に左遷した。この事件を15( 昌泰の変 )(901年)という。
・ 醍醐天皇の即位から約70年の治世を16( 延喜・天暦の治 )という。
・ 902年、17( 延喜 )の荘園整理令が出され、最後の班田が行なわれた
・ 天暦の治は、18( 村上 )天皇の治世である。
・ 本朝十二銭の最後の貨幣は19( 乾元大宝 )(けんげんたいほう)、958年に鋳造された。
・ 左大臣の20( 源高明 )が大宰府に左遷され、摂政・関白が常置されるようになった。
・ 969年の21( 安和の変 )で源高明が左遷されるに及び、藤原氏の地位は確立した。

【摂関政治の展開と平安時代の対外関係】
・ 藤原道長は、1( 後一条 )2( 後朱雀 )3( 後冷泉 )(ごれいぜい)の三天皇の外祖父として権力をふるった。
・ 藤原道長の娘4( 彰子 )には紫式部が、藤原道隆の娘5( 定子 )には清少納言が仕えた。彰子も定子も6( 一条 )天皇の后となった。
・ 道長の「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・」の歌が収録されている史料は藤原実資(さねすけ)の著による7( 小右記 )(しょうゆうき)である。
・ 道長は別名8( 御堂関白 )とよばれ、彼の日記を9( 御堂関白記 )という。
※ しかし実際に道長は関白にはなっていないことに注意。
・ 1017年、藤原道長は10( 太政大臣 )になった。
・ 藤原道長の子である11( 藤原頼通 )は宇治に平等院鳳凰堂を作ったことから12( 宇治殿 )と呼ばれる。
・ 宇多天皇のときの894年13( 菅原道真 )の進言により遣唐使は廃止された。
・ 唐が滅びたのは14( 907年 )である。
・ 926年に、中国東北部の15( 渤海 )が滅亡し、遼(契丹)がこの地域を支配した。
・ 1019年に、女真族が博多湾に侵入した出来事を16( 刀伊の入寇 )(といのにゅうこう)という。
・ 刀伊の入寇を撃退したのは、大宰権帥の17( 藤原隆家 )である。
・ 10C前半、朝鮮半島では18( 新羅 )が滅び、19( 高麗 )が建国された。

【国風文化】〜国風文化の展開〜
・ 国風文化は1( 10 )世紀に始まり、別名2( 藤原 )文化ともいわれた。
・ この頃、草書体を簡略にした3( 平 )仮名と、漢字の一部を取って作った4( 片 )仮名が使われ始めた。
・ 三蹟とは5( 小野道風 )6( 藤原佐理 )7( 藤原行成 )のことである。
・ 最初の勅撰和歌集は8( 古今和歌集 )である。9( 905 )年に、10( 醍醐 )天皇の命で編纂された。
※ 『万葉集』は「勅撰」和歌集ではない。
・ 在原業平(ありわらのなりひら)をモデルにして作られた歌物語は11( 伊勢物語 )である。
・ 日本初の仮名書き日記は、紀貫之著の12( 土佐日記 )である。
・ 源氏物語の作者は13( 紫式部 )、14( 枕草子 )の作者は清少納言である。
・ この頃、15( 唐絵 )に代わって、日本の風物を題材とした16( 大和絵 )が描かれた。
・ 一定期間、特定の建物の中で謹慎することを17( 物忌 )(ものいみ)という。
・ 当時の貴族の邸宅は、18( 寝殿造 )といわれる。
・ 平安貴族男子の正式な服装には、19( 束帯 )やそれを簡略化した20( 衣冠 )がある。
・ 平安貴族女子の正式な服装には、俗に十二単と呼ばれる21( 女房装束 )(にょうぼうしょうぞく)を用いた。
・ 成人の儀式として、男子は22( 元服 )、女子は23( 裳着 )(もぎ)の式が行なわれた。

【国風文化(2)】〜浄土教文化の発展〜
・ 摂関政治期に、来世において往生極楽を願う1( 浄土教 )が流行した。
・ 浄土教の仏を2( 阿弥陀仏 )という。
・ 極楽往生を願い、「南無阿弥陀仏」を口に唱えることを3( 念仏 )という。
・ 平安時代の社会不安は、飢饉や戦乱に加え、4( 末法思想 )という仏教思想によっても助長された。
・ 浄土教では、この世は5( 正法 )(しょうぼう)・6( 像法 )(ぞうほう)を経て末法に至ると説いている。
・ 末法元年は、永承7年(=7( 1052 )年)にあたる。
・ 8( 空也 )は市聖と呼ばれた。
・ 『往生要集』は985年に9( 源信 )が著した。
・ 浄土往生を遂げた人々の伝記を集めたものを10( 往生伝 )という。
・ 『日本往生極楽記』の著者は11( 慶滋保胤 )(よししげのやすたね)である。
・ 仏が仮に形を変えてこの世に現れたのが神である、とする説のことを12( 本地垂迹説 )という。
・ 怨霊を慰めるための法会を13( 御霊会 )(ごりょうえ)といい、菅原道真をまつった京都の14( 北野神社 )や、現在八坂神社とよばれている15( 祗園社 )などで行なわれた。
・ 1053年に藤原頼通が宇治に建立した16( 平等院鳳凰堂 )は、17( 阿弥陀 )堂の代表的遺構である。
・ 藤原道長は、1020年,18( 法成寺 )(ほうじょうじ)を建立した。
・ 10世紀後半頃には仏像制作の面でも革新が見られ、19( 寄木造 )と呼ばれる新しい技法が登場した。
・ 『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は20( 定朝 )である。
・ 往生する人を迎えるために仏が来臨する場面を描いたものを一般に21( 来迎図 )という。

【地方政治の変容と荘園制度】
・ 10世紀になると、有力な農民に田地を請け負わせて耕作する制度が出来た。この田地を1( 名(田) )といい、請け負った経営者を2( 田堵 )(たと)という。
・ 田堵は12世紀頃、次第に土地に対する権利を強めて3( 名主 )と呼ばれるようになる。
・ 私財によって朝廷や社寺の造営を請け負って官職に任命されることを4( 成功 )(じょうこう)という。
・ 財物をおさめて同一の官職に再任されることを5( 重任 )(ちょうにん)という。
・ 任命されても赴任せずに都にとどまり、収入のみをうけとる国司のことを6( 遙任 )という。
・ 当時の国司の中には、地方に赴任しないで7( 目代 )を派遣して政治を行なわせるものもいた。
・ 国司が事務をとった役所を8( 国衙 )といい、またその場所を9( 国府 )ともいう。
・ 国衙の実務を行なう地方役人のことを10( 在庁官人 )という。
・ 在庁官人は、律令制度の下で11( 郡司 )だった者が就任することが多かった。
・ 国司は、在地領主や有力農民らを、郡司・12( 郷司 )・13( 保司 )(ほうじ)などに任用した。
・ 平安時代、任国に赴任した国司で地位の最も上のものを14( 受領 )という。
・ 8・9世紀頃の荘園を15( 初期 )荘園、もしくは16( 墾田地系 )荘園という。
・ 初期荘園に対して、11〜12世紀に急増した荘園を17( 寄進地系 )荘園という。
・ 開発領主は、国司の圧迫から逃れるため、中央の権力者を18( 領家 )と仰ぎ、所領を寄進した。
・ 領家の荘園がさらに上級の有力者に寄進されたとき、その領主は19( 本家 )と呼ばれた。
・ 10世紀に入ると、地方の豪族や富裕な農民も墾田を開き、自ら20( 開発領主 )となった。
・ 国司が荘園内の田地を調査するために派遣した使いを21( 検田使 )という。
・ 11世紀には、中央官庁である太政官や22( 民部 )省から公式に不輸を認められた荘園が成立した。
・ 太政官や民部省から公式に不輸を認められた荘園を23( 官省符荘 )(かんしょうふしょう)という。
・ 国司の権限によって不輸を認められた荘園を24( 国免荘 )(こくめんのしょう)という。
・ 荘園化されず、国司によって直接支配された公領のことを25( 国衙領 )という。

【地方政治の混乱と武士の台頭】
・ 10世紀頃に、宮中を警備するための武士として、1( 滝口の武士 )が置かれた。
・ 地方に成長した武士団は、中央貴族の血統を引く武人を2( 棟梁 )として仰いだ。
・ 平将門の乱・藤原純友の乱を総称して3( 承平・天慶の乱 )という。
・ 平将門は自らを4( 新皇 )と称した。
・ 平将門の乱は、5( 平貞盛 )と、下野押領使6( 藤原秀郷 )が鎮圧した。
・ 平将門を主人公とした軍記物を7( 将門記 )という。
・ 平将門の乱と同時期に、西国で反乱を起こしたのは8( 藤原純友 )である。
・ 藤原純友は、元9( 伊予 )の国司で、10( 日振島 )を拠点とした。
・ 藤原純友の乱は、11( 源経基 )・小野好古(おののよしふる)らによって討たれた。
・ 12( 清和 )天皇の孫13( 源経基 )は、清和源氏の租となった。
・ 11世紀前半、14( 源頼信 )は房総半島で起こった15( 平忠常の乱 )を鎮定し、源氏の東国進出の基盤を作った。これによって東国の平氏は衰退した。
・ 陸奥の俘囚の長であった安倍頼時・貞任(さだとう)父子がおこした戦乱を16( 前九年合戦 )という。
・ 1051年から始まった前九年合戦を平定したのは17( 源頼義 )18( 源義家 )父子である。
・ 前九年合戦を題材とした軍記物は19( 陸奥話記 )である。
・ 源義家が、清原氏の内紛に介入し、20( 藤原清衡 )を助けて清原氏一族を滅ぼした争乱のことを21( 後三年合戦 )という。
・ 藤原清衡は、奥州の22( 平泉 )を中心に隆盛を極めた。
・ 藤原清衡とその子23( 基衡 )、孫の24( 秀衡 )が、奥州藤原氏三代の栄華を築いた。四代目の泰衡が源頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏は滅亡した。

【院政の開始】
・ 藤原頼通の娘に皇子が生まれなかったため、藤原氏を外戚としない1( 後三条天皇 )が即位した。
・ 後三条天皇は藤原教通(のりみち)を関白にしたが、実質的には2( 大江匡房 )(おおえのまさふさ)ら有能な官吏を登用した。
・ 1069年の3( 延久 )の荘園整理令は、後三条天皇のときに出された。
・ 延久の荘園整理令では、4( 記録荘園券契所 )が荘園整理の実務を行なった。
・ 延久の荘園整理令以前は、荘園整理の実務は5( 国司 )にまかされていた。
・ 後三条天皇のときに定められた公定の枡を6( 宣旨枡 )(せんじます)という。
・ 7( 白河 )天皇は、8( 1086 )年に堀河天皇に譲位したあとも上皇として政務をとった。このような政治体系を9( 院政 )という。
・ 10( 北面の武士 )は、白河上皇のときに院の御所を警備するために設置された。
・ 院政を行なう役所を11( 院庁 )(いんのちょう)といい、事務処理の役人を12( 院司 )(いんし)という。
・ 上皇自らの命令を13( 院宣 )(いんぜん)、院庁から出される公文書を14( 院庁下文 )(いんのちょうくだしぶみ)という。
・ 院政では、中小貴族や受領出身の者が15( 院の近臣 )となって、権威を振るった。
・ 白河院政の次に院政を行なったのは、堀河天皇の子で、白河上皇の孫である16( 鳥羽 )法皇である。
・ 国の支配権を特定の人に与え、その国からの収益を得させる制度を17( 知行国 )制度という。
・ 院が知行権を持つ国を18( 院分国 )(いんぶんこく)という。
・ 南都とは19( 興福寺 )、北嶺とは20( 延暦寺 )をさす。
・ 興福寺の僧兵は21( 春日神社 )の神木を擁して、延暦寺の僧兵は22( 日吉神社 )の神輿(しんよ)をかついで強訴した。

【平氏政権の成立】
・ 伊勢平氏の1( 平正盛 )が、白河上皇に私領を寄進して以来、平氏が重用されるようになった。
・ 源氏は12世紀初めに2( 源義親 )(みなもとのよしちか)が反乱を起こしたが、3( 平正盛 )に鎮圧された。
・ 4( 平忠盛 )は瀬戸内海の海賊平定などで5( 鳥羽 )上皇の信任を得た。
・ 6( 鳥羽 )法皇が死去すると、藤原氏の氏の長者7( 藤原頼長 )は、崇徳上皇と結んで兵を集めた。8( 保元の乱 )の始まりである。
・ 9( 1156 )年の保元の乱では、10( 崇徳 )上皇と対立した11( 後白河 )天皇が勝利した。
・ 後白河天皇は、平12( 清盛 )や源13( 義朝 )らを動員して保元の乱で上皇側を破った。
・ 保元の乱で敗れた崇徳上皇は14( 讃岐 )国に配流された。
・ 15( 藤原信頼 )は源義朝と結び1159年に16( 平治の乱 )を起こした。
・ 平治の乱は、院の近臣藤原信頼と17( 藤原通憲 )(みちのり)の対立に起因した。
・ 平治の乱の結果、源義朝の子18( 源頼朝 )は、伊豆に流された。
・ 平清盛は、1167年、武士として初めて19( 太政大臣 )に就任した。
・ 平氏政権は積極的に20( 宋 )との貿易を行なった。
・ 平清盛は、21( 兵庫 )県の22( 大輪田泊 )を修築し、宋の商船を招き入れた。
・ 1177年の平氏打倒計画が発覚した事件を23( 鹿ケ谷の陰謀 )という。
・ 1179年、平清盛は後白河法皇を24( 鳥羽 )殿に幽閉した。

【院政期の文化】
・ 摂関家の繁栄ぶりを讃えた歴史書を1( 栄花(華)物語 )という。
・ 藤原氏の栄華の様を批判的な立場から叙述した歴史書を2( 大鏡 )という。
・ 藤原清衡は、平泉に3( 中尊寺金色堂 )を建てた。
・ 院政期に浄土信仰が九州に伝播した例として知られる建築遺構は4( 富貴寺大堂 )(ふきじおおどう)である。
・ 後白河法皇は、庶民の哀歓のにじんだ歌謡に関心をもち、5( 梁塵秘抄 )(りょうじんひしょう)を編集した。
・ 『梁塵秘抄』に多く見られる、平安時代後期に流行した新興歌謡を6( 今様 )という。
・ 応天門の変を題材にした絵巻物は7( 伴大納言絵巻 )である。
・ 京都高山寺(こうざんじ)蔵の8( 鳥獣戯画 )(ちょうじゅうぎが)は、動物を擬人化し世相を風刺した絵巻物である。
・ 平清盛は、9( 白河法皇 )と祗園女御(白河法皇の籠姫)の妹の間に生まれた子であったため、18歳の若さで従四位という武士としては異例のスピード出世をしたといわれている。

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