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意味不明小説(ショートショート)コミュの『イーサン王の悪政から考える』

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イーサン・シンガー王(2787−3512)は、人間解放論を唱えたことで有名です。
イーサン王は、「ある存在が苦痛を感受できるのであれば、私たちがその苦痛を考慮しないことは、倫理的、道徳的に正当化できない」としました。
つまり、「苦しむ」という能力を持っている人間に対し、私たちは彼らが苦しまないような配慮をしなければならないし、それが道徳的に当然であると、イーサン王は言ったのです。

たとえば、私たちにも「苦しむ」という能力はあります。そして私たちは、私たち自身が苦しむことを良しとはしないでしょう。
差別を例にとって考えましょう。私たちは、体の色が独特な者や、ある特定の性別を差別することは良くないことだと知っています。それは何故かといえば、差別されている者が「苦しむ」し、可哀想だし、理不尽なことだからです。
では、食糧とされ、私たちに搾取されている人間も、種差別を受けて苦しんでいるのではないでしょうか。
私たちは、自分たちの中で起こる差別は良くないことだと思えるのに、人間たちを差別し、食糧として扱えてしまうのはなぜでしょう。そこに矛盾はないのでしょうか。
私たちと人間、どちらも同じように、苦しむことができるのに。

私たちは普段、人間の命を食糧として食べています。(しかしその食料となる人間がどのように命を奪われ、食卓に並んでいるのか、その実態が積極的におおやけにされる機会は、あまり多いとは言えません。何処産の人間であるかはブランドとして知っているのに、それがどこでどの様に切り身になっているのか、それを知らずに食べている者のどんなに多いことでしょう)

たとえば、私たちの仲間が何処かで殺され、食糧にされていたとして、しかもどの様に殺されているのかわからないなんてことがあったら、なんて身の毛のよだつ話だろうと思うことでしょう。
「残酷だ」と思うはずです。でもそれくらいのことなら、人間だって同じように思い(痛覚や生存本能に依拠して)、苦しむことができるのです。

私たちが食糧となるのは残酷で、人間たちが食糧となることがそうでないと言える明確な理由はどこにあるのでしょうか。私たちと人間と、どこが違うのでしょうか。

「違わない、私たちは残酷なことをしている」と言うのなら、何故それを止めることができないのでしょうか。もう手放せないほどの功利を得てしまっているからでしょうか。

しかし、功利を求める権利は、人間にもあるはずなのです。現に、私たちが人間に取って代わり、この世の覇権を手にするより前の時代において、人間は自由に利益を求め、活動していました。

それを自分たちの利益のために奪った私たちは道徳的と言えるのでしょうか。

先ほど私たちと人間と、どこが違うのかと疑問を残しましたが、私たちが人間を搾取することの正当性を主張する者は、往々にして私たちと人間との「違い」を訴えます。
私たちと人間とを区別します。私たちは価値があり、尊厳を持つ存在だと唱えます。

たとえば、知能においてです。
たとえば、人間には解けないような、より複雑な数学の問題を解けるのは世界で私たちだけです。そこに価値を見出そうとするのです。
しかし、私たちの中にも、数学を解く能力のない者がいます。これは扱うのが難しいことですが、脳性麻痺障がいを持つ者などがそうです。差別的な扱いをしたいのでは勿論ありません。
言いたいのは、数学を解くほどに脳が発達しなかった者は、それでは価値がないのか、ということです。そんなわけはありません。まったくの平等な存在です。

そうであるならば、「知能」は私たちが特有の価値を持っている根拠としては、成り立ちません。赤ん坊だって解けないのです。解けない段階である赤ん坊、はたまた痴呆した者の価値が私たちとは異なるなんてことがありえるのでしょうか。
知能を私たち特有の価値として捉えるのなら、知能が何らかの理由で低い者は、その価値を持ち合わせていないことになります。そうであるならば、人間が受けている人体実験や食糧になるためのト殺、そこに私たちの誰かを起用してもいいことになってしまうのではないでしょうか。

知能の他に、言語、自意識、理性、感受性(私たちの方がより複雑で大きい)などを引き合いに出す者もあったが、同様の理由で、根拠としては成り立たないはずです。私たちと人間は違わないのです。ならば、人間を搾取することは、やめるべき――。



このように、イーサン王は、この問題を考え続けることをやめませんでした。
人間の命や苦しみに目を向け、私たちの利己的な生活を批判し、彼らの権利尊重を主張したのです。

一見、平等な権利を大切にしようという意見は尊大かつ難題で、立ち向かったイーサン王は立派なように思えます。
しかし、現在においてイーサン王の人間解放論は、「私たちと人間」という、ごく小さな単位間での問題しか重視されておらず、生態系全体に及ぼす影響を考慮できていないとされ、客観ではなく主観の域を出ていないという見解から、完全に否定されています。

私たちが人間を搾取することを止めることで生態系に及ぼす影響などを考慮できていないとされたのです。
私たちが人間を搾取しなければ、人間たちは、別の動物たちをこれまでのように乱獲し、生態系を脅かすこととなる。生態系が不安定になれば、それは結果として私たちだけではなく、人間を含む動物など、生命共同体全てにとって功利的でない、すなわち、全ての存在に「苦しみ」を招くことになるとされ、イーサン王の道徳観や倫理観に沿った動物解放論は、環境倫理学からの検討が為されていない、ただの感情論だと言われたのです。

余談ですが、イーサン王は、人間解放の思想をむやみに政治に持ち込んだことで、至上最大の食糧危機、経済危機を引き起こした暴君としても、知られています。

話は時代を遡り、イーサン王の祖父であるリヤン・シンガー王(2014−2802)のことについて触れたいと思います。
リヤン王が世界を統一するまでの間、抵抗する人間は私たちのことを「悪魔」と称していました。リヤン王は、さしずめ、「魔王」でしょうか。
人間は自分たちの古典文化の中にある、悪の象徴の名をあてがって、悪魔、魔王と呼んで私たちを恐れていたのです。「魔王が世界を滅ぼそうとしている」と。

リヤン王は、私たちの文明の創始者であり、革命家でもあります。現代のような潤滑な食糧流通が行われているのも、リヤン王が一代にしてそのシステムを築き上げた偉大な存在です。


そのことに関して、ひとつ記しておきたい話があります。

養人場という施設のことです。そこでは、人間の単位で0,4平方メートル、電車で言えば満員電車ほどのスペースが、人間ひとりに対して与えられ、そして飼育されています。

そこでは人間は様々なストレスや病気にさらされています。そのような、人間にとって過酷な状況では、全体の6,4%が死亡してしまいます。100人いれば、6人は出荷できない状態となるのです。

しかし、もしスペースが0,4平方メートルから20%拡張(0,48平方メートル)されて、電車内で屈伸や着座ができる程度のスペースが人間に与えられれば、死亡率は0%に抑えることができると言われています。
ですが、一人あたり0,08平方メートル分のスペース増やすということは、収容できる人間が減るということです。そのようにして全員無事に出荷するより、6,4%の人間を殺してでも、ぎゅうぎゅうに人間を詰めて、死んだ分は省き、生き残りを出荷した方が、結果的に出荷量は多く、儲けも多くなるのです。
だから、人間はたとえ幾人かが死のうと、狭いスペースのまま飼育されているのです。

まるで道徳的ではない光景と言えるでしょう。たしかに、人間からすれば「悪魔」のような行いと言えるかもしれません。
しかし、これは実際に人間がニワトリという動物を飼育していた、とある「養鶏場」を参考にリヤン王が生み出したシステムなのです。
それならば、人間もある存在からしたら「悪魔」と言えるのではないでしょうか。

私たちは、動物を当然のように搾取していた人間を、同じように、もはや習うように搾取しているだけです。もし我々の行いが間違っているのだとしたら、そうであるのならば、人間の行いはどうだったのでしょう。人間とはいったい、なんだったのでしょうか。

私はだから、言いたいのです。
人間は何も間違っていないと。ただ間違いかどうかもわからないまま、終わっただけなのだと。

コメント(3)

面白かったです。深く考えてしまいました。
>>[1]
読んでくださってありがとうございます!

僕も深く考えたつもりで書いたんですが、結局難しくって結論が出なかったので、こういう結末にしちゃいました。

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