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日記の資料コミュのこれを知ると背筋が寒くなる。敗戦時や現在の日本も同様なのだ。

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これを知ると背筋が寒くなる。敗戦時や現在の日本も同様に…


単一宗教、単一民族の国家だったビルマが、
どうして多宗教、多民族の国家になったのか?

ビルマは、天然ガス、石油、鉱物資源 が豊富で、インド、中国、東南アジアの中継輸送拠点の要の土地である。

ビルマ国の資源強奪を狙う欧米列強(イギリス)は、単一民族 (ビルマ人) で構成されていたコンバウン朝に因縁をつけた。

3度に及ぶイギリスとの戦争で敗北、

1次1824〜26年、

2次1852年、

3次1885〜86年



ビルマ国は完全にイギリス領インド帝国の1州となってしまった。

イギリスは、ビルマを支配するに当たり、
歴史ある国王のもと臣民が団結して反抗する危険性を除去するべく、
狡猾な策を練った。

ビルマ最後の王ティボーは囚人のごとくインドに追いやられ、

王子は全員処刑、
王女は英軍のインド兵の愛人にさせられ貧困の中で死に、

王女の娘は「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てる生活であった」という。

おとなしいビルマ市民がこの王家の悲劇を語るとき、
本当に怒りで唇を震わせる。

イギリスによる狡猾な分割統治により、
多くのビルマ族は
軍人、警官、官吏の職に就くことを許されず、
小作人として下層階級の地位に押し込められた。

イギリスは、マンダレーの王城を監獄に作り変え、英国領とした。

仏教を信じるビルマ人の国

『ビルマ』

を征服したイギリスは、
すぐに大量のイスラム系インド人とシナ人を入れて商売をやらせた。

印僑には金融を、
華僑には商売をさせた。

さらに信仰心の厚い仏教徒であったモン族、カチン族など周辺の山岳民族を山から降ろしてキリスト教に改宗させ、
彼らに警察と軍隊を構成させた。

単一民族、単一宗教のビルマはこれによって多民族、多宗教国家に改造され、
この国の主だったビルマ人は最下層の農奴に落とされてしまった。

かくしてビルマは、
白人の為に作られた国際法に基づき合法的に英植民地にされ
アッサムのお茶、
エナンジョンの石油、
天然ガス、
ルビー鉱山も
イギリスに奪われた。

しかしビルマは敬虔な仏教徒ビルマ人の国だった。

王家という心棒を抜いてもビルマ人の民族意識は残り抵抗は続いた。

そこでイギリスは、アメリカの侵略史に学び、
リンカーンのインディアン族長殺しと同じことをした。

ビルマ人の知識層や小さな村の指導者まで悉く殺したのである。

アウンサンの祖父もこの時に殺されている。

次に、ビルマのインド化を図った。

インドは人種も言語も多様であり、宗教もイスラムやヒンズー、シーク教徒と多様であった。

イギリスは、それをことごとく対立させることで

「数千人のイギリス人が、4億人のインド人を支配する」

ことに成功した。

インド紙幣に今でも15の言語が書かれているように、
イギリスはインドに統一語を持たせなかった。

日本軍のおかげで共通語を持ったインドネシア人はすぐ団結して、
戦後、再度侵略してきた英蘭連合軍を多くの犠牲を払いながらも追い出した。

4億のインド人が団結できなかったのは、
この統一言語を持つことができなかったからである。

インド人は団結を忘れ、
あれだけ搾取され強姦され虐殺されたにもかかわらず、
今でもイギリスに楯突く気持ちを持たない。

ここからも分かるように、
植民地を支配するには、「多民族・多宗教国家」で内部対立させるのが理想的なのである。

それでビルマにイスラム系インド人60万人を入れ、
華僑も呼び込み支配させた。


【重要】
余談だが、日本に中国人や韓国人を何百万人、何千万人も入れる移民政策も同じことである。



イギリス人は間接支配により、
少数のイギリス人でビルマを支配できただけでなく、

ビルマ人は直接支配している華僑を憎み殺し合うが、

イギリス人に対しては、
心の奥底で憎んではいても、
表面上は尊敬すらされていた。


【重要】
余談だが、日本の在日朝鮮人とアメリカ人も同様ではないか?



かくしてパゴタ(仏塔)しかなかった国にモスクが立ち、
赤寺(唐の寺)と教会がその隣に並んだ。

首都ラングーンの人口の61%がイスラム系インド人とシナ人で、
以下イギリス人やキリスト教化したモンなどが続き、1/3がビルマ人だった。

ビルマ人の対イギリス独立運動は、
第1次世界大戦中に始まり、
世界恐慌後、若い知識層の間に広まった。



1930年、
タヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い下ミャンマーまで広がるも鎮圧。

タキン(主人)等と呼ばれる学生を中心とする団体の民族主義運動が活発化。

イスラム教徒と仏教徒がぶつかり3000人の死者を出す。 イギリスの目論み通りとなった。



1937年、
バー・モウを首班とする最初のビルマ人の政権が成立。

インドから独立、イギリス連邦内の自治領となる。



1942年、
アウン=サンがビルマ独立義勇軍率いて日本軍と共闘しイギリス軍を駆逐。

独立義勇軍には、
アウン=サンやネ・ウィンら伝説の30人志士が参画した。



1943年、
日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国。



1945年、
日本の敗色が濃くなったため、ビルマ国を存続させるべく、
イギリスの
「独立保持」
の甘言に従いアウン=サン率いるビルマ国民軍は、
日本とビルマ国政府に対してクーデターを起こし、
イギリス側に寝返り、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成、
日本の支配に抵抗を開始した。

裏切ったのではなく、弱小国が生き残る為の苦肉の策であった。

連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命。

日本軍に勝利はしたものの、イギリスは独立を許さず、
再び『イギリス領』となった。



1947年、
イギリスはアウン=サンに指導されたAFPFLと交渉しビルマの独立を認める協定を締結。



1947年、
イギリスの策略にはまったウー・ヌーが、
自分を暗殺しようとした仕返しとして、
『 ビルマ国王亡き後の国民的英雄 アウン=サン 』
を暗殺させた。

イギリスに騙されたのである。

アウン=サンに反感を持つイギリス将校の策謀によって、
32歳の青年アウン=サン以下ビルマ救国の志士6名は、
ウー・ヌーの放った暗殺者の凶弾に倒れた。



1948年、
イギリス連邦を離脱し、
ビルマ連邦として独立。

初代首相に、AFPFLを率いるウー・ヌーが就任。

しかし、独立直後からイギリスの支援を受けたカレン族が独立闘争を行うなど、
ビルマは不安定な状態に置かれた。



1949年、
国共内戦に敗れた残虐非道なシナ国民党軍の乞食の様相を呈した残余部隊がシャン州に侵入し、
雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を開始



ヌ―政権は、アメリカのCIAが、
シナ国民党軍の残余部隊に対して、
物資や軍事顧問団を援助し、
またタイへのアヘンの運び出しまで行っているとして、国連で中華民国と米国の策動に抗議。

また一方で、シャン州に国軍部隊を展開し、
1950年代半ばまでに国民党軍を一掃した。

ヌ―首相の「ビルマ本来の国教である仏教」優遇政策は、
イギリスの植民地支配でキリスト教徒が多くなった、
カチン、チン、カレン民族の反発を招くようになる。

英米の策動により、
独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、
国軍のネー・ウィン将軍が政権を掌握するようになり



1958年、
反ファシスト人民自由連盟が分裂、
ネー・ウィン参謀総長を首班とする選挙管理内閣が成立。



1962年、
シャンやカチン族の分離独立運動が激しさを増し、
国内が騒乱状態となった為、ネー・ウィンがクーデターを起こし、
憲法を停止し革命評議会を発足させ全権を掌握、
軍政を開始する。

ネー・ウィンは、ビルマ人によるビルマ再建の為、最貧国になる覚悟を持って荒療治に打って出た。

戦前の日本で見聞した統制経済を見本とし
『ビルマ式社会主義』を標榜。

鎖国をして華僑の儲け口をつぶした。

同時に、銀行預金を制限し一定額以上は没収した。

高利貸しのインド人は驚いてタンス預金に切り替えた。

彼はそこでデノミをやり、
新札を出して旧札は無効とした。

インド人が両替にくると上限を設けてそれ以上を没収、
デノミは毎年のように行われ、
そのたびにインド人の資金は没収された。

経済統制政策を実行することで計画経済の障害となる印僑・華僑の経済活動を徹底的に抑えこみ、

同時にビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党独裁体制を敷くことに成功した。 

完全に干上がった印僑(インド人)と華僑(シナ人)は、
ビルマから出て行った。


「ビルマ人は自ら貧しくなる」という苦痛の多い、

しかし、誰も傷つけない方法で、
植民地の後遺症を取り除いたのである。

1988年、
国民的規模の民主化運動がおこり、
ネー・ウィンが党議長を辞任し独裁体制が崩壊。

ソウ・マウン将軍が国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置。

この英米嫌いの軍事政権は総選挙を公約し、
民政移管までの暫定政権として発足した。

一方、国民民主連盟(NLD)は、
アウンサン・スーチーを書記長にし、
イギリスが裏で糸を引く、民主化運動を活発化させだした。



1989年、
暫定政権は国名をビルマからミャンマーに替え、
首都名もラングーンからヤンゴンに改称。

アウンサン・スーチー書記長を国家破壊法違反として自宅に軟禁し、
政治活動を禁止させる。

だが、殺害はしなかった。


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