ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

連続テレビ小説「あまちゃん」コミュの3,11 東日本大震災について

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
東日本大震災については、こちらのトピにお書きくださいm(_ _)m
ドラマに関係することは、感想トピに。

コメント(7)

震災当日、みなさんはどこで何をしていましたか?

 私は埼玉県の鴻巣、というところにいました。

仕事を終え、帰る前にコーヒーでも飲んでいくか〜と、駅前のドトールに入って席についたところで地震。

なかなか揺れがおさまらず、もしカップのコーヒーがこぼれるようになったら、避難すべきか?と考えていたところ、コーヒーより周囲の花瓶が倒れ初め、ついに店員がすべてのお客さんを外に誘導し、外に出たところで最大の揺れが!

揺れがおさまり、全く口にしてないコーヒー飲もうと店に戻ろうとしましたが、停電のため店は休業になりました。電車も動く気配なく、ずっと駅前で待機。

 5時になって、駅員さんが「避難命令が出てます」と告げに来て、帰宅できない人は近くの小学校に移動です。ここで! 女性の方は、途中のコンビニで、飲み物など買いこんでました。私はあとで買いにいけばいいい、と考えていたのですが、とんだ間違いでした。

 避難して、いざ出かけようとしても、停電してるので、外は本当の暗闇で、どっちに歩いていいのかわからなくなってしまったからです。

 教訓- 飲み物、食べ物はすぐ確保。町は停電すると、何も行動できない。

避難所では、断水もしてて、喉の渇きにも耐えなければなりませんでした。給水車が来たのは午後8時、食糧(ビスケット)が配給されたのは10時くらいかな。

一泊するのは覚悟しましたが、配給された毛布がさっぱり暖かくなくて、かなり参りました。


 翌朝、駅に向かいましたが、電車が動いたのは昼近くだったでしょうか。乗車しても、徐行運転ですから、自宅の千葉についたのは午後も3時くらいだったかな。武蔵野線がほぼ正常に戻っていて、助かりました。

 自宅の被害はコップひとつが割れただけで、奇跡的に軽微でした。近所でも、場所によっては液状化現象の被害を受けた家は多かったです。
私は、東京の浜松町の駅のホームにいました。
電車を降りて、ホームに立った瞬間に、地震が。
しばらく、揺れは収まらず。
私は、大阪から遊びに来ていた遠縁の子と一緒でした。
その子が、ポケモンセンターに行きたいと言うので、浜松町に。
ポケモンセンターに行きましたが。
お店には、しばらくの間、入れませんでした。
店内の安全が確認できないうちは、入れられないということでした。
しばらくして、ようやくお店に入れました。
その子が買い物をして、ジュースを飲んで、さて帰ろうと駅に行ったら。
なんと、今日いっばいは運行しませんとアナウンスしていました。
やむなく、バスで帰ろうとしましたが、1時間経ってめ、バスは来ません。
タクシー乗り場も、長蛇の列でした。
それから、品川駅まで、とにかく歩きました。
途中、トイレでコンビニに寄ったら、大勢の人が、飲み物や食べ物を買っていました。
私たちは、なんでこんなに? と思い、なにも買いませんでした。
途中で、お腹が空いたので、なか卯で、親子丼を食べました。
浜松町から、品川までは、長い距離でした。
歩き続けて、疲れました。
品川駅に辿り着いた時は、もう限界でした。
やはり、バス乗り場、タクシー乗り場共に、ものすごい人でした。
でも、家の方面に向かうバスにどうにか乗れました。
ただ、バスに乗れたものの、全然前に進みません。
ウチの近所のバス停に着いたのは、午前4時半でした。
ぐったりして、布団にバタンキューでした。
帰宅難民になってしまったのでした。
朝になって、テレビのニュースで、東北がひどいことになっていることを知りました。
私の安否を心配するメールや、電話が、遅れて送信されてきました。
いま、思い出しても、ぞっとします。
震災後も、しばらくは、トイレットペーパーやティッシュ、またお米などが不足する日々が続きました。
福島の原発事故など、恐ろしい事態になりました。
日本中が、地震や原発事故に怯えることになりました。
この日のことは、いろいろ考えさせられました。
初めてコメントします。

私は神奈川県の自宅に、1歳半になる息子といました。

地震の直前に停電になり、つけていたテレビが突然消えて、携帯の警報も鳴りませんでした。

揺れを感じるより早く、地響きのような音が聞こえました。あの音は今も耳に残っています。

地震がきてすぐに、息子を抱えてテーブルの下にもぐりこみました。揺れが収まっても、怖くてしばらく動けませんでした。

テレビはつかないし、携帯もつながらないし、ラジオでも欲しい情報は得られず、何が起きているのか、全く分かりませんでした。震源地は関東地方だと思い込んでいました。

夜の22:00過ぎに電気が戻り、テレビをつけて、初めて何が起きているのかを知りました。

電車が停まっていたため、主人はその夜は会社に泊まり込み、帰宅は翌朝でした。


その後は計画停電が実施されたため、その日の停電の予定時間や、近所のスーパーやドラッグストアの営業時間をチェックしつつ、それに合わせて行動する生活がしばらく続きました。

お店の中は節電のため薄暗く、商品も品薄で棚はガラガラでした。
買い占めを控えるようにという貼紙が貼られているのに、手当たり次第に品物を買い込む人も時々いて、何だか情けない気持ちになることもありました。
でも、そういう人を見ると、私も何か買わなくちゃいけないのかな?と焦る気持ちにもなるんですよね…。そういう葛藤と戦うのもしんどかったです。

その日、わたしは新潟の三条で、いつも通り仕事をしていました。
強い揺れで、しばらく座ったまま様子をみていましたが、いつまでも揺れているので外に出ました。
他の建物で働いていた人達も外へ出ていました。

揺れがおさまってからネットとテレビで情報収集をしましたが、しばらくは混乱していて、詳しいことはわからなかったと思います。
家に戻ると、テレビでは津波の映像が流れていました。

…という感じだったと思うのですが、当日もそれほど大きな混乱がなかったせいか、長く揺れていたことと何度も流されていた津波の映像以外、ほとんど記憶に残っていません。

会社も自宅も特に被害はなく、スーパーやホームセンターでは物によって品薄になっている物もありましたが、特別生活に支障が出る事はありませんでした。
月曜日からは当たり前の様に仕事が始まり、以前と変わらない日が続いていきました。
何も特別なことはできませんでしたが、とにかく今はわたしにできる事を精一杯やる!
そう思って毎日を過ごしていました。


震災直後、まだ被災地の状況がはっきりせず、「今行っても迷惑だから行かない方がいい」という人もいた中、13日に関西を出発し、途中所々で支援物資(毛布、紙おむつ、粉ミルク、生理用品、乾電池など)を積んで、15日には石巻へ入った知り合いがいます。
震災直後で道路状況は全くわからない状態でしたが、それでもネットの情報で、太平洋側のルートは使えないらしいということで、急遽新潟経由ということになり、わたしも少し支援物資集めのお手伝いをさせてもらいました。

その後、新潟の友人が何人も被災地支援に行ったので、わたしも募金や支援物資集めのお手伝いをさせてもらいましたが、時間的なものと言葉にできない不安や恐れがあって、一度も現地へは行きませんでした。

現実とは思えない映像が毎日テレビで流される日々でしたが、目に見える被害はほとんどなく、その後の停電もなく、田舎なので食べる物に困ることもなく、震災以前とほとんど変わらない生活を続けていられたことは、本当に幸せだったと思います。
ただ今になって、テレビではなく、自分の目で被災地を見ておくべきだったのかもしれないと思います。
ドラマの舞台、久慈は確かに人的被害は少なかったですが、隣の野田村やロケでも使われた田野畑村は町も流され、亡くなったり行方不明になった方はいました。
もちろん、同じ岩手でも県南や宮城、福島に比べれば少ないとは思いますが…。
(実際、岩手県の45号線を南下すればするほど復興は遅れている気がします。)

みなさん、久慈にいらっしゃることがあれば、ぜひ三鉄に乗って野田の海岸や田野畑の駅前の町も見ていってくださいね。
(田老もすごいですが、まだ直通では開通してないので…。)


サカナクンが海女カフェの再建に関わったくだりが出てきますが、実際に「もぐらんぴあ」という小さな水族館とサカナクンは、震災前から交流があり、震災後の移転再開にはサカナクンの協力なしではこんなに早くは進まなかったかもです。
北鉄の早い時期の復興列車とともに、実際にあったことを取り入れてくれてるんだな…と思いました。

ドラマもあと一週間、なんだか淋しい〜あせあせ(飛び散る汗)
あちこちで震災のことを書いておきながら,あの時の自分のことを書かないのは,ちょっとずるい気がするので,書きます。
進んで読んで欲しいと思っているのではないので,読みやすくする努力は敢えてしません。知りたい方だけ読めばよいと思って書いています。
石巻地区で教員をしています。その時も学校で仕事をしておりました。前々日の地震もあり,「また?」くらいの気持ちでしたが,大きな長い揺れにマル秘文書を金庫に入れて,慌てて廊下に出ました。立っていられないほどの揺れでしたので,私は何もない壁に必死にしがみつきながら,天井を眺めていました。「この天井が落ちてきたら,もうどうしようもないな」と思ったのを覚えています。
学校にはまだ生徒が残っていて,校庭に避難させ,グラグラと揺れが止まらない中,点呼を取りました。
「津波が来る」という情報がどこからか入り,準備しかけていたテントの設置をやめ,残っていた生徒のほとんどと避難してきた一般の方々には3階に避難してもらいました。この間も大小の地震はずっと続いていました。
ラジオの「石巻に4.何mの津波警報が出ています」に
浜出身の教頭が「4.何m?湾内に入ったら2倍だ。これは10m超える。ここまで来るかもしれない。3階でなければダメだ。」と言ったのを覚えています。
学校は沿岸部とはいえ,海からは4キロは中に入った田園地帯。海すら見えない場所です。内陸部出身の私には津波がここまで来るなんて到底思えなかったし,10mの津波というものがどういうものかも想像もつきませんでした。
津波が来るまでの間,どんどん一般の方が避難してきて,その対応に追われ,いつの間にか津波が到達して学校から出られなくなっていたことにも気が付きませんでした。当然,電気も水道もダメでしたので,トイレも使えなくなりました。我々のおやつや売店の飲み物を避難民
者に提供しましたが,既に避難者は200人を超えており,焼け石に水の状態でしたが。
「もう出入りできない」と聞いて,これ以上避難者は増えないのだとホッとしたのを覚えています。
結局,津波は校内を取り囲んだものの,中までは入ってきませんでしたので,私たちの被害は軽くて済みました。
一晩中続く大小の揺れと闇に響く不気味な防災無線の音,ラジオから漏れ聞こえる「強い揺れが来ます」という地震情報に眠れぬ夜を過ごしました。
明るくなって水が引くと,今度は避難者を探してたくさんの人が来校し,またその対応に追われました。石巻の橋は全部落ちたとか,たくさんの人が目の前で津波にさらわれたとか,とんでもない話ばかりが耳に入ってきました。
私が自宅に帰宅し,両親の無事を確認できたのは,3日目の夜のことです。
1日休み,5日目に避難所となった学校にまた戻った私が聞いたのは,一足早く帰宅した生徒たちの訃報と体育館が遺体安置所になるという話でした。
避難者は最大で400人,遺体安置所は800体を超えたと聞いています。
亡くなった生徒は9名でしたが,最後に身元が判明したのが私のクラスの生徒で,5月20日にDNA鑑定の結果,判明しました。遺体は正視できないほど悲惨な状態でした。クラスのムードメーカーで良いことも悪いこと(いたずら)もいつも中心にいましたが,とても気持ちの優しい子で,体の不自由なおばあさんを心配して帰宅して家ごと津波にさらわれたと聞いています。
その子の父親は今でも石巻の仮設で,5つの位牌とともに一人で生活なさっています。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

連続テレビ小説「あまちゃん」 更新情報

連続テレビ小説「あまちゃん」のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング