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馬鹿を憐れむ詩コミュの命題1

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カップアイスの蓋に付着したアイスクリームと
ケーキを取り囲むセロハンに付着した生クリーム
この二者のいずれのほうが、罪深いといえるか?

コメント(10)

両者の在り方を考えてみるに、どちらとも本営からは取り残された存在であるといって差し支えないように思える。
その点ではなんら異なる事はない。

然しながらどうだろうか。

在り方は同じかも知れないが、その奥底にある魂(スピリット)と言う点に着目して考えれば、凡そ天と地の差程の隔たりが見えてくるではないか。

両者をブラジルに移民した日本人に例えて解説を試みてみよう。

正に本営である日本を離れ、未だ見果てぬ地球の裏側「ブラジル」へと不安と期待で胸を一杯にして船に乗り込んだ移民達。
日本とブラジルでは何もかもが違う。
文化、気候、言語。
その不安たるや容易に推して量れるものではない筈だ。

ブラジルに到着した移民達は、頭で分かっていた積もりでも現実を目の当たりにするや心が折れそうになった事であろう。
何と厳しい事か、と。

目の前に広がる未開の地。
設備が整ったとは決して言えない珈琲農場。

そこでカップアイスとセロファンクリームの違いが明確に現れる。

カップ裏に付着し、溶け行くアイスクリーム。
人はこれを体裁を保てない敗北と見るかもしれない。
然しながらそれは誤りである。
これは「適応」なのだ。
現地ブラジルの文化、気候、言語。
それらに適応する為に己を柔弱にしてみせる。
それでも内に秘めた魂(スピリット)はしなやかで強く、柳の樹を想起させるではないか。
無骨な鉈を握り締め、遠き故郷日本への未練を断ち切り、えいやと一声、未開の地へと体一つで勝負に出る。
何と潔く、崇高な魂である事か。

それに引き換え、セロファンクリームのだらしなさは、何と致命的である事か。
意を決し、ブラジル行きの船に乗り込んだものの、現地の現実を目の当たりにし、すっかり尻込み。
いつまでたっても心は日本に縛り付けられ、手にした鉈を地に落とし、めそめそと泣いてばかりいるのだ。
何もかも変われずに。
其処に魂はあるのか?
私は問いたい。

魂の尊卑を考えた上で、私はセロファンクリームの方が罪深いと決断したい。

然しながら、カップ裏アイスクリームのように崇高な魂で生きていける者は、極少数の人間に限られた事なのだ。
我々多くはセロファンクリームの様に罪深い存在である。
先ずはその事を自覚して生きたいと思う。
菓子というものは、
食べる者が存在して初めて意味を成す。
そして、食べた者に至福のときを与えることこそが
彼らの使命なのだ。

カップ裏のアイスは、
ヘラもしくは、スプーンにより
その大部分を口元に運ぶことができる
これは、
精神的な側面から考えれば
消費者という権力に対し迎合的であり
反権力という崇高な思想から見れば
堕落してるといわざる得ないが
本来の使命である
「食べた者に至福のときを与えること」を
果たしており
現実主義的には断罪することはできない

一方、
セロファンのクリームは、
そのセロファンの性質ゆえに
スプーンでは取りきれず、
食べる者に
「セロファンのクリームを断念する」
「セロファンを直接舐めるという無様な姿を披露する」
のいずれかを選択するように迫っており
消費者という権力に
牙を剥いているともいえる
しかし、本来の使命が
「食べた者に至福のときを与えること」
であるにもかかわらず、
食べる者に選択、
しかもどちらも多少なりとも不利益が伴う選択を強いてしまっている。
これは、社会的にいえば
責任の失効であり
現実主義的には断罪に値する。

結論
精神主義的とは
言い難い現代社会に於いては、
現実主義を持って裁くのが妥当であり
セロファンに残ったクリームの方が
より罪深いと考える。
我々消費者にいらぬ手間をかけさせるという客観的事実からすると、両者にそれほどの差異は無いように見える。
故に、どちらがより罪深いかを断ずるには、その裏にある精神を読み取る必要があろう。


まず蓋についたアイスクリーム群についてだが、実はかくいう事態に陥ってしまったことは彼らにとっても不本意なことであったのではないかと、私は推測する。

彼らがどろどろの状態でカップに注ぎ込まれたとき、彼らはその後自分たちが蓋をされ、閉じ込められるという運命を予想できただろうか。あまつさえ、その蓋に付着し集団から引き離されるなどとは、知る由も無い。

本来アイスクリームのカップの最上段とは、最も早くに人の口に運ばれるべきポジションである。
冷凍庫から出した直後から時間とともに確実に解け逝くアイスにとって、最初に食べられるというのは最高の自己アピールであり、他の部位よりも我々への貢献度は高いと言える。

その最も誇り高い部位にすすんで陣取ったアイスたち。にもかかわらず、一度蓋をしてから剥がすというある意味理不尽ともいえる人間の行いによって、図らずも蓋に付着してしまったアイスたち。
どうして彼らが罪深いなどと言えよう。むしろその誇り高い精神に敬意を表し、かつその不運を憐れんで、鄭重にスプーンですくい、おいしくいただいてあげたくなるではないか。


では、セロハンについたクリームはどうか。

一枚のセロハンについたクリーム群は、二つの種類に分類されると、私は考える。

ひとつめは、ケーキが切り分けられる前から外側にいたクリーム群。つまり、円筒状のケーキの側面の部分である。

ふたつめは、元々はケーキの内部にあったのだが、切り分けられたことで外部に露出したクリーム群。

両者は、ひとたびセロハンに付着すれば外見的相違はないが、その内面的事情は大きく違っている。

前者は、蓋についたアイスと同様、非難することはできない。むしろ尊敬と同情に値する。
鄭重にたいらげるべきである。

しかしながら後者はどうか。
人に美味を与えるという任務を拒否するが如くケーキの奥深くにひそんでいる。
しかも我々がいざケーキを食べようとフォーク等で少し圧力をかけるだけで、ぐにゅっとだらしもなく側面からはみ出てくる。やわらかなスポンジに囲まれ、自堕落の精神に骨の髄まで侵された証である。

ケーキを切り分けることで彼らは外部に露出し、さらにセロハンによって本営から切り離される。皮肉なことだが、卑怯かつ蒙昧なふるまいをしたことの報いであって、同情の余地は無い。いや、むしろ人に食われにくくなったことをひそかに喜んでいるのではないかとも考えられ、無性に腹立たしい。
こんなやつらは、嫌がらせに少しばかり食った後、セロハンごとゴミ箱へ捨ててやるのがよろしい。


結論。
罪深いのはセロハンについたクリームのうち、とくにケーキの切断面のクリームである。
やはりセロファンにクリームになってしまいます。
理由は、どちらが高貴な甘味であるか?ということになります。

ここで誤解されては困るのですが、ケーキこそ高貴な甘味であるということです。

カップアイスとは所詮、容器に液体を流し込んだものであり、奴らは人間から見られることをこれっぽっちも意識しておらず、温度に頼った生き方しかできないのです。

それとは対象に、ケーキはいかに、かわいらしく時には美しく、それでいて愛らしく見せるために勤めており、カップに流し込まれるだけの無能のアイスに引き換え、彼女たちのデコレーションは、研ぎ澄まされたボディーのように、見る者に喜びと興奮を与えてくださり、また季節の果実で色彩豊かに私たちの目を楽しませてくれます。
しかし、それがケーキ自身を追い詰めていったのです。

高貴なケーキがなぜ、無能のアイスよりも罪深いかというと、それはケーキの宿命にあります。

ケーキ、彼女たちは、美しくなるにしたがって、甘味であるのにもかかわらず「かわいい」という付加価値を負わされていくようになりました。ケーキは私たちを喜ばせようと自分を高め、気が付くとケーキといえば「かわいい」という代名詞まで付くほどになってしまったのです。

かわいそうなケーキは、その美しい姿を維持するためにセロファンという道具に頼らざるえなくなってしまいました。
しかし、そのセロファンには恐ろしい後遺症が潜んでいたのです。それは自らの体系を維持するためのセロファンが、いざ人間に食されるとなると、己の身体を蝕み、えぐってきたのです。

悲惨な姿となったケーキは人間たちに罵倒され、セロファンに奪われた身体の一部を汚い物のように扱うかわれてきたのです。
しかしそれは、ケーキ自身が招いた過ち、無能のアイス達はそのような現状があるのも知らずに過ごしているのです。

美しい姿であるが故、一度崩れた肉体はアイスクリームより醜く見えてしますのです。

無くてはならない物ではなかったはずのセロファン。
しかしそれに手を出してしまったのはケーキ自身。
そしてそれを望んだ人間。
もしかしたら本当に罪深いのは人間なのかも知れません。
ケーキが女性名詞って所が素敵だと思います。

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