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2014年NHK大河『軍師官兵衛』コミュのQ&A

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軍師官兵衛に関する質問がありましたらお願いたします。その答えについては、ご存知の方の書き込みをお願いいたします。

コメント(9)

Q 軍師官兵衛の子孫はいるのでしょうか。たとえば、黒田家第○代当主のような方です。
A まずは、例題ですので、自分で調べました。

(引用ですいません。)

黒田氏血統は二度絶えた

 播磨黒田氏は、播磨多可郡黒田城に九代まで存続し、治隆の代に滅亡して、その嫡流は絶滅した。他方、治隆に弟・孝隆があり、彼が生き残ったから、この傍系が黒田氏第二期の血統本体である。これはその後どういう命運をたどったか。
 黒田家は、官兵衛の生前、関ヶ原合戦の功により、筑前一国を与えられ五十余万石の大大名になった。以後、黒田家は筑前にあって、明治維新まで同地にあった。
 しかし既述の如く、黒田家先祖の事蹟は忘却され、播磨黒田氏の存在はおろか、姫路周辺の遺跡さえ所在不明というありさまになってしまっていた。ところが、十八世紀後期になって、ようやく官兵衛以前の黒田家遺跡が発見されたのである。
 思えば、これも奇妙な符合である。というのも、当時すでに黒田家は、官兵衛以来の血筋を喪失していたからである。官兵衛の子孫ではない者が、黒田家の当主になるということが連続していたのである。

 それを云えば、黒田官兵衛七代の子孫、黒田継高(1703〜75)までは、分家直方黒田家の男子を福岡の本家に入れるなどして、黒田家氏血統を保っていた。一種の保険としての分家設立が役にたった。ところが、継高の男子二人が相次いで死去してしまった。秋月の分家にも本家へ出すべき男子は居ない。そこで、備前岡山池田家に嫁した継高の娘があり、彼女が生んだ男子たちがいた。これなら、外孫とはいえ、継高の孫には違いないから、官兵衛以来の血統男子ということになる。
 というわけで、備前池田家との間で養子縁組の話がついたが、思いがけない横槍が入った。継高が上府すると、江戸城老中列座の中で、養子縁組を迫られた。幕府の大名統制の有力な方法の一つが、養子縁組への介入である。幕閣提案の養子候補は、当時創設間もない一橋徳川家の男子、つまり徳川 宗尹〔むねただ〕の五男・隼之助であった。この隼之助を、継高の孫娘(重政の娘、当時三歳)と将来結婚させるという筋書きで、黒田家の養子に、ということだった。
 むろん、そうなれば、継高の曾孫に男子ができる可能性があるから、官兵衛以来の血統はリレーできる。しかし、これまで一度も、官兵衛の血筋を引かない男子を黒田家当主にしたことはない。家中で反対論が勃興するのは当然である。しかし、継高はこの幕閣連の意向を拒否できなかった。
 かくして、明和六年、継高は隠居して、一橋家から迎えた養子・隼之助が家督相続。これが黒田治之(1753〜81)である。しかし、治之と結婚させるはずの継高の孫娘が、幼くして死んでしまう。ここで、継高の曾孫という目は消えた。つまり、この時点で、官兵衛以来の血統存続の可能性は失われたのである。
 しかも、その治之もまた夭逝し、嗣子がなかった。かくして、福岡城主黒田家の家督は宙に浮いたかっこうになり、御家断絶の危機に陥った。家老連が治之死去の事実をしばらく匿したというのも、危機回避対策と工作のためであろう。
 あれやこれやの根回しのあげく、黒田家は、讃岐丸亀城主京極家の多度津分家の男子、これを養子に迎えることになった。京極高慶〔たかよし〕の七男高幸で、側室の産んだ子である。高幸は部屋住みで二十八歳になっていた。黒田家では、治之死去後だが、かたちだけ末期養子ということにして、家督相続の承認を得た。佐々木流京極氏とはいえ、多度津分家は一万石の小大名、あたり障りのないところを狙った養子取りである。むろん、こんどは、官兵衛以来の血統云々とは全く無縁の男子である。これが黒田治高(1754〜82)である。
 しかるに、何とも不運なことに、治高は福岡入城後、数ヶ月で死亡してしまう。天明元年の十一月に養嗣子になって翌年八月に死去だから、わずか九ヶ月だけの当主だった。家老たちの苦労はひとかたならず、これも末期養子という形にして、一橋徳川家から養子を入れることになった。つまり一橋治済(はるさだ 1751〜1827)の三男雅之助で、これが黒田家の家督を相続して黒田斉隆(1777〜95)、将軍徳川家斉の実弟である。
 
(字数の関係で続く)

 将軍になった家斉(1773〜1841)は治済の長男豊千代である。前後関係からすれば、治済は長男を徳川本家の後嗣にする前に、三男雅之助に黒田家を継がせていた。治済が黒田家に三男を送り込んだのは、いわばほんの手始めにすぎない。
 一橋治済はなかなかの政治家で、長男を徳川本家の後嗣にし、田沼意次を追放して幕府の実権を掌握し、いわば「大御所」となって従一位まで官位をあげた。二男治国を後嗣世子にしたが、治国が早世したので、六男斉敦に一橋家を嗣がせた。治国の遺児、つまり治済の孫が斉朝で、これが尾張徳川家を継いだ。五男斉匡〔なりまさ〕は御三卿の田安徳川家を嗣ぎ、娘紀姫は肥後の細川斉樹〔なりたつ〕の妻になった。
 というわけで、一部の郷土史家のように、黒田家当主は将軍家の弟だったと嬉しがるわけにもいくまい。黒田家は一橋家に乗っ取られたも同然だからである。
 六歳で黒田家を嗣いだこの斉隆も、享年十九で死去してしまう。どうも黒田家の養子になると長生きできないらしい。斉隆が死ぬと、家老連は男子があったことにして、家督相続を願い出た。これが斉清(1795〜1851)であるが、実は、分家秋月黒田家の男子だという、世子すりかえ説もある。ただし秋月黒田家も、日向高鍋城主・秋月種茂の次男・長舒〔ながのぶ〕を養子に迎えていたから、すでに秋月氏の血統子孫に入れ替っていた。どのみち官兵衛の血筋ではない。

 このように、筑前黒田家は継高以後、他家男子の血統となった。つまり、治之、治高、斉隆と、すでに三代続いて官兵衛以来の血統とは無縁な当主が黒田家を相続していた。斉隆になると、黒田家は名のみ黒田で、その実体は一橋徳川家の血筋に変ったのである。
 このように言うと、黒田家のばあい、男系でのみ断絶したのであって、女系では連続したのではないかと錯覚する粗忽な者があるので、念のため言っておけば、上記のように池田家へ嫁した継高の娘あるいは継高の孫娘に期待がかかったが、そのどちらも実現されなかった。黒田家とは縁もゆかりもない一橋徳川家や讃岐京極家の男子が跡目を継いだのである。
 血統の男系主義は、しばしば誤解されるように女性を排除するものではなく、定義からすると、他系の男子を排除するシステムである。つまり、族外婚(exogamy)であるかぎりにおいて、他族の男性を排除するのである。
 ところが、日本では男系主義の排他性は厳格なものではなく、むしろ逆にきわめてルースなものだったという特徴があった。純血主義とは逆の雑種混交であり、血筋というものはごく形式的なものであった。このあたり、いかにも日本的である。
 つまり、同じ東アジアの儒教文化圏でも、中国とちがって、日本は非血縁の養子縁組がさかんにおこなわれたという地域的特徴があった。血統の連続性には無頓着なのである。大名家は今日の企業と同じく、だれが当主になろうと、ブランドの看板さえ変らなければ存続したことになる。したがって、江戸中期、筑前で、播磨以来の黒田氏の血統が断絶したことに、さほどの意味があるわけではない。
 しかし、播磨黒田氏のその後という観点からは、官兵衛以後の血筋はどこまで存続したのか、それが問題である。結局、官兵衛から数えて七代目の黒田継高の代、継高の息子たちが家督することなく死亡したので、この宝暦の時点で、黒田氏の播磨以来の血筋は絶滅したのである。
 筑前黒田家は、明治維新まで大名家として存続したのだから、黒田官兵衛の血筋が近代まで存続したと錯覚する者がある。それが錯誤であることは申すまでもないことである。
 ようするに、黒田氏血統は二度絶えた。一度目は、十六世紀、官兵衛の兄・治隆の死によって。二度目は、十八世紀、筑前において官兵衛の血統子孫の絶滅によって。この事実は今なお周知のものとなっていないが、播磨黒田氏のその後というテーマからは、このことを改めて確認しておく必要がある。

*【筑前黒田家略系図】

○孝高―長政┬忠之――――┐
      |      |
      ├長興 秋月  |
      |      |
      └高政 東蓮寺 |
 ┌―――――――――――┘
 ├光之―┬綱之 廃嫡
 |   |
 |東蓮寺|初長寛
 └之勝 ├綱政┬吉之
     |  |
     |  └宣政=継高┐
     |直方     ↑ |
     └長清―継高-―┘ |
 ┌――――――――――――┘
 ├重政 宝暦12年死去
 |
 ├長経 宝暦13年死去
…………
 └=治之=治高=斉隆―斉清→
   一橋 京極 一橋
    ↑     ↑
    └-―――┐ └-┐
      ┌隼之助 |
      |    |
      |  ┌雅之助
 一橋徳川家|  |
   ┌宗尹┴治済┼斉敦―斉礼→
   |     |
   |     └家斉
   |       ↓
 吉宗┴家重―家治=家斉―家慶→








福岡御城下絵図 宝暦〜天明











最後の黒田氏血統子孫
黒田継高(1703〜75)






*【播磨黒田氏系譜】
 
○重光―重勝―重康―光勝―重貞┐
 ┌―――――――――――――┘
 └重昭―重範―重隆┬治隆
          |
          └孝隆
   ┌――――――――┘
   ↓
 ○孝高―長政―忠之―光之┐
    ┌――――――――┘
    └綱政―宣政―継高


官兵衛というか、第一話で小寺氏が出てきたんだけど、官兵衛関係の小説はたまたま前にひとつだけ読んでいた事があり、やはり、小寺の殿様に関してはあまりいい感じに書かれていなかったし、鶴太郎さんの殿様もまさにそのままに描かれていたような気がするのですが、足利時代を考えると、やっぱりあそこらへんはもともとは赤松のような気がするのですが、小寺の殿様があんな感じだったのに?(ドラマの演出だけ?)なんで黒田家は史実的に小寺についていたのだろう?先代が優れていたとか・・・??

小寺氏と赤松氏の真相についていろいろ知識がある方がいらしたら教えてください?
>>[5]

この時代の関係は大雑把に別けると、主従(被官)と国衆・豪族の連合体の二通りになると思われます。
武田を例にすると前者は春日虎綱・山県昌景・内藤昌秀、後者は小山田・小笠原といったところでしょうか。

後者の場合、下の者には上位権力者を選ぶ権力があるので誰の傘下に入ろうが自由です。
一時的に強い勢力につくも良し、東西両方に属すというのもアリです。

黒田と小寺の関係は定かではありませんが、私は後者に近かったと考えています。
>>[6]、

いつもお世話になります!

という事は、場合によっては強くて自由になりにくい君主より、御し易く自由になる君主についていたという考えもできるわけですね?
>>[7]

いえいえ、こちらこそ。

基本的には下位権力がどの上位権力を選ぼうが自由です。複数の権力に属することを両属とか半手・半納とかいったりしますね。

近年の研究では「下からの公儀」という歴史用語を用いる場合もあります。
>>[8]、

戦国時代なんですけど、今風に言うと「仁義」に地域差があったようにも思えます。乱れながらもなるべく戦いを避けていた地域とか、乱れながらも比較的秩序が保たれていたところとか、逆に問答無用でやりあっていたところとか・・・?

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