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荒川修作さんコミュの荒川さんの言う共同体

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荒川さんはよく共同体の話をされますが
みなさんはそれをどのような共同体だと思いますか?

講演会では蜂のような共同体
河原に集団で飛んでいる虫のようなもの
等と表現されてますが、
それは流動的で固定しないもの という感じなのでしょうか。
ムツカシクて頭がグチャグチャです。

コメント(18)

はじめまして。
わたしもこれは興味のある話題です。

わたしも核心はきっと、まだ理解していません。
でもわたしなりに考えると
個体(=有機体)としての営みや命よりも
大切な秩序(≒常識)があって、そのことは
我々人間よりも、「共同体」で種(しゅ)を守る蜂や
イワシの群れなどの方が、よっぽど分かっていると
いうことだと思います。

たとえば自分の寿命のスケールで考えるだけで
イッパイイッパイの現代のスタイルでは、
後世にいいものを残せません。きっと種は絶えます。
もうすでにその兆候が現れていることを、多くの人が
うすうす気が付いて、気にはなってるけど
具体的に自分で行動を起こせないでいる多くの人間達
との対比と考えていいんじゃないでしょうか。
荒川さんの思想というのは、こんなふうにまとまった文章では表現しづらい、あるいはできないものなんじゃないかと思います。
言葉にすると、その時点で考えが固定化してしまって、それこそ荒川さんが言っている「有機体」や、「共同体」というものをうまく捉えていないということにつながるからでしょう。

彼の思想を味わうには、やはり彼のように、なにか現実に形になって表したりすることとか、あるいは、たえず、今を行動し続けるということが必要なのではないでしょうか。。。
>othelloさん
 >たとえば自分の寿命のスケールで考えるだけで
 >イッパイイッパイの現代のスタイル
というの、よくわかる気がします。
自分で引いた線、あるいは社会によって引かれた線
そこから内側が「私」だと思い込んでいるのが
現在の私達のあり方だと思います。
そんな「私」はとてつもなく狭い。
そして、荒川さんは建築という環境を用いて
「私」という境界線の外部を目指しているのだと思います。
たぶん外部へ出たその瞬間
=身体がアンバランスになった瞬間
に共同体の契機があるのではと私は思っています。
アンバランスな瞬間には
自己―他者―環境の区別がなく、
一見個人的な経験に見えても
共同性を帯びていると思うからです。
バタイユの内的体験に近いイメージかもしれません。

>うるぱんさん
犬の散歩の時やぼーっとしているときは
蟻の集団 鳥の集団 川原の虫の集団を眺めています。
そこで感じたことは
歴史の中で共同体と呼ばれていたものは
境界線で区切られ、固定されていて、形をもっている。
ですが、生物の共同体は
絶えず動き、形も特定できず流動し、
対象化することができない。
そこでは個々の生物は意識することもないのに
一つのまとまりとして秩序を持っている ということです。
ナンシーは「共同体は経験するものだ」
というニュアンスのことを言っていたと思いますが、
それに近いものかもしれません。
言葉にできる範囲でいいので、
うるぱんさんの考える共同体のありかたを伺いたいです。

>レオン=レオン さん
文章にすることは確かに固定化と表裏一体だと思います。
対象化されたものは抜け殻であるとも言いますし。
今までの芸術作品も、世界の対象化された痕跡だと思います。
そのような美術史の伝統に対し、
荒川さんは我々が世界に触れ合っている間、
世界を対象化する前の段階を
芸術としようとしているんだと思います。
我々は永遠に世界に触れていることはできません。
ですから、
どんなにもがいても対象化することはまぬがれませんし、
あるいは対象化せずに、なんとなくおもしろかった
という感想しか持ちえません。

世界を対象化されたものを繋ぎ合わせたとしても
世界が再構成されるとは思っていません。
対象化をまぬがれ抜け出ていくものが必ずあるはずですし。
そのため、荒川さんの共同体についても
全てを語れるとは思っていません。
彼の考える思想の断片でもいいから言葉にしたいのです。
>うるぱんさん
我々の身体が膨大で複雑なことを
意識せずしていることは分かります。

そして、そのことが複数の個人が集まった社会では

>個々が、真に自分のことをすることが、当然の結果として、
>全体の為でもあるのが共同体であると思います。

というのも理解できます。

ですが、うるぱんさんのおっしゃっていることは
過去の宗教的共同体、血縁的共同体、
さらには現在の社会にもあてはまってしまう気がするのですが、
どうでしょうか?
>うるぱんさん

では、うるぱんさんの考える
荒川さんにおける共同体とは

>個々が、真に自分のことをすることが、当然の結果として、
>全体の為でもあるのが共同体であると思います。

そしてかつその中の営みは

>>全て平等のうちにおこなわれるべしと思っています。

つまり、秩序や階級といったものが存在せず
ということでよろしいのでしょうか?
>うるぱんさん

まず始めに、私がうるぱんさんの意見を伺いたいと思ったのは、
荒川さんが共同体について
「蜂の集団や、河原で飛んでいる虫の集団」等と表現されたことについて、
うるぱんさんが
「あなたが本当に分かりたいと思い、
 心を開いて対象に臨めば、
 対象が教えてくれることと思います。」
とおっしゃったので、
荒川さんの共同体について
生物の集団を観察するなかで何を受け取ったのか、
そしてうるぱんさん自身がどのように考えているのか
大変興味を持ったからです。

一方で、うるぱんさんは
わからないことを
言葉や、自分の既存の思考や資料、思想で
理解することはもったいないともおっしゃいました。

その中で、うるぱんさんの考える共同体を理解するには
うるぱんさんの自身の言葉を聞き、
それを理解していくことが必要だと考えました。
そのため、うるぱんさんからの引用が多くなってしまいました。
その点は申し訳ないと思っております。


荒川さんの共同体についてですが、
うるぱんさんの考える共同体を私なりに理解すると
「共同体というものは、その要素となる人なりなんなりが
 意識することもなく、あるまとまりを持っている。
 そしてなおかつ、そこには権力や階級といいったものは
 存在しない」
ということです。
これはマルクスが考えていた共同体と似ているものだと思います。
マルクスは、
境界線を引いてそこから内側が共同体とは考えておらず、
流動的で形の定まらないものを考えており、
なおかつそこに権力なり力の不均衡が生じてはならない、
というようなことを言っていたはずです。

ですが、
荒川さんはこの議論より更に先に進んでいる気がするのです。
それは、いわゆるマルクスから社会主義にいたる解釈ではなく、
現在では、ナンシーやブランショが考えているものに近い、
もしくは超えているものだと思います。
そこで私は、
>2 で
ナンシーのバタイユ解釈を手がかりに私の共同体の考えを書きました。
ナンシーはバタイユの内的体験は共同性を帯びたものだと
言っています。
私はそれを元に、荒川さんの共同体は
身体がアンバランスになった瞬間が共同性を帯びていると考えます。
>アンバランスな瞬間には
>自己―他者―環境の区別がなく、
>一見個人的な経験に見えても
>共同性を帯びていると思うからです。
と言ったのはそのことです。
ですが、共同性を帯びた状態から
いかにして共同体に進むかの所で足が止まっています。

一方ブランショは「共同体は死にむかって秩序づけられたもの」
とも言っています。
正直、私はこれについては語れる力がありません。
ですが、荒川さんが「死なない」とおっしゃっている以上
何らかの手がかりを引き出すことができるのではと考えております。

そしてそこまでの議論は言葉で突き詰めて考える必要があるのではないでしょうか。
>うるぱんさん

こちらこそよろしく・・・と言いたい所ですが、
2点気にかかることがあります。

一つは
>ここまでちゃんと書いていただける方になら
>ちゃんとお話できると思います
ということです。
私は、誰彼の発言に区別なく真剣に答えているので
そのような発言は、今までの議論が何だったのかと
寂しくなってしまいます。

二つ目は、
私はうるぱんさんの共同体の発言に対して
誠心誠意自分の捉え方を示し、
かつそれに呼応し自分の共同体に対する考えを書きました。
ですが、それに対するコメントを期待したのですが
お聞きすることができませんでした。
うるぱんさん自身が
>9で、コミュニケーションの大切さをおっしゃっていたので
残念だと思いました。

掲示板という公共の場での、
私の個人的な気持ちですので
上の二点へのレスポンスは任意でかまいません。


共同体から「死なないために」の話になってしまいましたが、
これこそ大きな問題だと思うので、
別の機会に新たなトピックで議論しましょう。


また荒川さんの思想・芸術を言葉にするか否かの問題は
荒川さんの受容に対する個人のスタイルがあると思うので
「どちらがよい」の議論は水かけ論になってしまう気がします。
結論が迫られるような時にまた話し合いましょう。
>うるぱんさん
返信ありがとうございます。

1つ目については納得しました。
掲示板という言葉だけのやりとりですから
やむを得ないことです。

2つ目の共同体についてですが、
うるぱんさんの本筋を
身体の持つ大きな可能性を吟味しない限り
共同体は語れない と理解しました。
そのため未だ身体が疎外されている
現在の状況では共同体は語れ無いと。

うるぱんさんのように
身体から共同体を考えることも一つの
アプローチであると思います。
ですが、今までの常識的な知の枠組み・身体のあり方、
荒川さん流に言うと、近代合理主義的な知や近代的身体を
解体しようとしているのは
荒川さんだけが行っていることではありません。
哲学に限らず様々な分野の人々がそれを行ってきましたし
現在も行っています。
過去においては
ランボー、マラルメ、ハイゼンベルク、フーコー、ギブソン
現代では、市川浩、デリダ、グールド等(亡くなった方ばかりですが)
そして荒川さんは、自身もおっしゃっていましたが
これらの人々の影響を受けているし、与えてもいました。
荒川さんの発想は極めて突出していますが
それを理解するためには
荒川さんが影響を受けた人々の研究、思想、哲学から
アプローチする方法もあると思うのです。

それは共同体についても同じだと思います。
ここが私の論点ですが、
荒川さんの共同体を理解するには
うるぱんさんのように
具体的に身体の可能性を観察し考える方法と、
私のように
荒川さんの思想・芸術に影響を与えた人々から考える方法
の二つがあるように思います。

本来ならば、
この二つのアプローチはバランスよく進める必要があるのでしょうが、
どうやら、うるぱんさんと私では両極端のような気がします。
議論が噛み合っていなかったのも、
ここに原因があるように感じます。



>アンバランスな瞬間には
>自己―他者―環境の区別がなく、
>一見個人的な経験に見えても
>共同性を帯びていると思うからです。
ということについてですが、
自己―他者―環境の区別が無くひとつであるのは理解しています。
それは私達が荒川さんとの関わりの中で
それを経験しているからだと思うのです。
ですが、平面と直角で構成された都市に住む普通の人々は
それを常識とは思わず
未だに皮膚の内側にある「自分」というものに捕らわれ
狭い自己の中にいると思います。
そんな状態から、荒川さんの共同体に進むには
自己が環境にまで広がっていることを経験する必要があり
荒川さんの建築はまさにそれが経験できる場であると思います。
そのことを伝えたいための自己―他者―環境の話でした。


共同体の話についてですが、
お互いのアプローチの違いが明確になったと思うので、
次の機会には、議論ではなく
お互いがそれぞれの方法で得た経験・思想なりを
共有できればと思いますが、どうでしょうか?

なんとなく区切りがよいと思うので
今回はこの辺で締めさせていただきたいと思いますが
うるぱんさんはよろしいでしょうか。

これからもよろしくお願いします。
はじめまして!
あたしもそれ考えたことがあります。

まとめすぎかもしれませんが、
死についての概念や、そこや、そこからに対しての条件が根本的には違わない、
というものではないかと思います。
もちろん方法や手段ではなく。
それを変えることができない共通のものとして持っている。

もちろん蜂などの虫などの共同体もそうですが、死やさまざまなことにおいて私たちの社会で成り立っている概念とは違うかもしれませんね。
だからこそ身体の問題になってくるのだと思います(荒川の場合は)
同じような身体を持っているからこそある、暗黙の了解が存在していて、あらゆるところにちりばめられている概念を使うことができ、またそこに概念を着地させることができる。

という部分が何で成り立っているかが重要だと思います。

芸術もまたしかり、ということで、共通感覚(コモン・センス)の問題がかかわっていると思います。
昨年、荒川氏にお会いして直接お聞きしたのですが、そこら辺を話すと、それなら説明しなくても大丈夫だね、とうれしそうでした。

急ぎでうってしまって申し訳ありませんが、なにかあれば直接ご連絡ください。
はじめまして。

僕は彼の作風には批判的です。彼の芸術家としてのしたたかさが垣間見れて気持ち悪い。で、少々言わせてもらいました。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=403440832&owner_id=10496507
 はじめまして、初カキコミさせて頂きます。宜しくお願いします。

 荒川氏を知ったのは、くろじぃさんのコミュでした。
 それから、作品行脚に出ましたが、まだ途中です。
 全部回ったら、小生のコミュにアップします。

 ところで、あんまり難しく思考してしまうと、掬われないモノがボロポロと零れ落ちてゆくような気もいたします。

 くろじぃさんの言葉を拝借。

 「ナンシーはバタイユの内的体験は共同性を帯びたものだと
言っています。
私はそれを元に、荒川さんの共同体は
身体がアンバランスになった瞬間が共同性を帯びていると考えます。
>アンバランスな瞬間には
>自己―他者―環境の区別がなく、
>一見個人的な経験に見えても
>共同性を帯びていると思うからです。
と言ったのはそのことです。
ですが、共同性を帯びた状態から
いかにして共同体に進むかの所で足が止まっています。

一方ブランショは「共同体は死にむかって秩序づけられたもの」
とも言っています。」


 んー。身体がアンバランスな時しか、共同体って顕在化しませんよね。
 バタイユにそれを読むことは可能ですが稚拙でもある。
 アンバランスである状況とは、錯乱している時、生命の危機にさらされている時でもあるわけですから、そこに、死に向かう→救済(利己的なケースもあれば、利他的なそれもある)を必要とする。を見出すことは必然でしょう。
 
 ひみさんが記されていた、コモンセンスはまさしくキーワードですね。小生はイギリスにおける法哲学面からの切り口で、このコモンセンスなるものを追っております。

 

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