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司馬遼太郎に突っ込みを入れるコミュの司馬遼太郎ロリコン説

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 池波正太郎先生の作品には必ずホモが登場します。池波さんがホモかノンケかだかはしりませんがホモに並々なる関心を持っていらっしゃったのでしょう。
 同様に司馬遼先生の作品にはロリコン・もしくはロリコン的描写が多々登場します。そこんとこを実証してみようというトピックです。

コメント(7)

 まずは『項羽と劉邦』。虞美人と項羽の出会いがまだ虞美人が初潮前なんて設定他に聞いたことないですよ。エロイ。エロ過ぎる。
 お。この風向きなら書ける。「新史太閤記」で秀吉が山名家の姫に目を付けるシーン。いきなり裾から手を差し入れてあんなとこやそんなとこをさわったあげくに「姫はまだ大人の体ではないようじゃな」(記憶あいまいですがほぼこんな意味)って、いくら秀吉とはいえなんとエロエロな。

 しかし、この調子でどんどん出てきたらいったいどうしましょうね。
「関ヶ原」の初芽なんかも、そうですかね。
なにしろ本人が「この美少女について語りたかったからである」とか書いてますし(笑)
初芽の「初めて」のシーンとか。萌えたなぁ。<何
「太閤記」でしたかねえ。もし手をつけて初潮前なら恥であることこの上なし、てのは。
本は忘れたんですがどこぞの殿様が別に悪政を強いてるわけでないのに初潮前後の娘を夜伽に召上げるのですこぶる評判が悪い、てのがありました。でこの娘の描写がすこぶる萌えるもの(小さな鈴をつけてて歩くとりろりろりろりろ……となり続けるとか)で「おっさん好きでかいてるな」と確信した次第。
街道をゆくの「奈良散歩」の巻に興福寺阿修羅像の拝観記が載ってるんですが、その拝観記が、

「興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に、無垢の困惑ともいうべき神秘的表情がうかべられている」
「阿修羅は、相変わらず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心もとなさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも、聖なるものを感じてしまった心のとまどいをあらわしている云々」

そして同行者に語っていわく、

「すぐれた少女なら、少女期に、瞬間ながら一度はこういう表情をするのではないでしょうか。それを見た記憶を−たとえ錯覚であっても−自分のなかで聖化していくと−少女崇拝の感情を濾過していくと−こうなると思います」


気分はわかりますがね、いったいこの文化勲章作家は阿修羅像拝んでなにを考えているのだか……。(笑)
街道をゆく第二弾、25巻の福建省篇。
「ショー族の男性歌手が唱いはじめた。隆いのどぼとけが動き、絹糸のような声が、もれて出た。変声期以前の少年の声ともいえるし、それよりも細く、童っぽい。すくなくとも西洋ふうの男性誇示の声ではない。」
「『 私は少年ですよ』と、この発声法で、相手の少女に訴えかけるかのようである。」
「十三、四歳の少年こそ少女にとってもっとも魅力的だった文化が、ショー族にかつて存在していたのだろうか。変声期が済んで、大人のドラ声になってしまえば、少女にとってはオッサンであり、性的魅力を喪失するのかもしれない。」
「私は、いまの小学生にもある児童の恋を思いだした。児童の恋こそ純度の高いものだとすれば−また少年・少女の顔や体つきがもっとも美しいとすれば−そういう美の基準が、ショー族に牢固としてあるのだろうか。」
「日本も、土俗的原形としては少年美崇拝の国だったといえなくはない。ヤマトタケルや桃太郎、一寸法師など神話や童話の雄々しいヒーローは、少年美を象徴していた。すくなくともシェークスピア劇にみるような成熟した男性がヒーローになることはない。」
うんぬんかんぬん。

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