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本駒ストリート(文京区)コミュの本駒ストリート(バックナンバー)

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平成16年6月に編纂したもの内容は
平成13年10月〜平成15年5月

ここでは平成15年の暮れと平成16年の年始の原稿と資料
平成15年12月〜平成16年1月(目白台・日本女子大周辺、駒込曙町・東洋大学周辺)本郷、駕町あたりにスポットを当てます。

コメント(11)

トピックのトップ画像3つとこの上の画像3つ

1.荻野吟子
2.井上円了
3.宇野千代
4.安井てつ
5.朝永振一郎
6.湯川秀樹

気になる6名。さてどんな方々でしょう。
5、6はわかりますが残りの方がわからないです。
3の方は東京大学の教授になった方かなと思いますが不確かです。
はじめまして。
1→日本の女医、第一号、ですね。育った街の郷土カルタにあったので覚えていてつい書き込みしたくなりました(^-^
荻野吟子はシーボルトの娘に医術を習ったんですよね。
宇野千代はいわずと知れた「生きていく私」でしょ。
安井てつは東京女子大で教えていませんでした?
5、6は両方京大&物理学でよかったでしたっけ??
3の方はわかりません。
知ってるようで記憶ってアイマイなものですね。
1
明治23年(1890年)11月25日。荻野吟子が40歳の時、14歳年下の志方之善(当時26歳)と結婚する。出会いは日本基督教団本郷中央教会。皆が反対する中、二人の結婚式は志方の郷里、熊本の教会で行われたようだ。結婚後夫婦は北海道へ旅立つ。吟子の北海道行きは東京での資金作りが原因か数年後。吟子が54歳の時、夫と死に別れ東京に戻ってくる。後、62歳で他界。護国寺に程近い雑司が谷の墓地に眠っている。

荻野吟子(おぎのぎんこ) −医学書院・看護大辞典より− 『明治政府の定めた医術開業試験に合格した初めての女性医師(嘉永4年1851年〜大正2年1913年)。埼玉県大里郡に生まれる。吟子は通称で本名はぎん。16歳の頃結婚するが、数年で離婚。離婚後、結婚生活中に罹患した性病治療のために順天堂医院に入院し、女性医師の必要性を痛感して医師を志す。皇漢医・井上頼圀に師事。東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を経て、私立医学校好寿院に入学。明治15年1882年に同院を卒業するが、当時女子には医術開業試験の受験資格がなく、受験許可を求めて2年間を費やす。明治18年1885年に試験に合格し、医籍に登録された初めての女性医師となった。同年5月より東京本郷湯島で産婦人科荻野医院を開業し名声を得る。翌年6月キリスト教に入信し同23年1890年牧師の志方之善(しかたこれきよ)と再婚。同27年1894年夫の理想郷建設計画活動に伴い北海道に移住し、瀬棚郡瀬棚村で開業した。夫の死後、同41年1908年に東京に戻り江東区新小梅町で開業したが、大正2年1913年脳溢血のため没した。基督教婦人矯風会風俗部長、大日本夫人衛生会幹事などを歴任。』 執筆・高安伸子氏

平成15年12月
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2
白山駅(都営三田線)から東洋大学まで徒歩5分。白山上からゆるやかなカーブを行くと途中に「ジョナサン」と「藍屋」がある。平成元年(1989年)オープン以来、東洋大学の学生や地元人等で賑わっていた。平成16年1月18日閉店し、この二階建てが取り壊され、マンションになるという話。深夜や早朝、いつでも営業していた。とても使い勝手の良い店だった。開いていたことに感謝。平成15年12月ジョナサンの近所にパスタ店「こむぎこ」姉妹店「IL BRUNO」(イル・ブルーノ)がオープンした。 東洋大学の創設者井上円了(安政5年1858年−大正 8年1919年)は、東京府本郷区龍岡町(現文京区湯島)の麟詳院(春日の局墓地)を仮教場に、哲学専修の場として哲学館(東洋大学の前身)を開館。明治36年(1903年)「専門学校令」による専門学校としての設立を許可され、翌37年4月より「哲学館大学」と改称し、井上円了は初代学長に就任。明治39年(1906年)に哲学館大学はその名称を変更し、現在の「東洋大学」となった。 京北学園は井上円了が明治31年(1898年)、旧小石川原町の鶏声ヶ窪(現在地)に創立。同年旧制京北中学校、同38年(1905年)に京北幼稚園、同41年(1908年)に京北実業学校(現白山高校)を創立。

平成16年1月
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3
<小石川駕籠町>   〜 宇野千代著「生きて行く私」から 〜「さて、私たちが東京へ落ち着いたのは、小石川駕寵町の露路の奥にある、女髪結いの二階であった。悟の進学した東京帝大(東大の前身)は、そこから、眼と鼻のところにあったからである。しかし、その頃は故郷の家からの送金は、全く当てに出来なくなっていた、…最後には、本郷三丁目の角にあった、燕楽軒と言う西洋料理店の給仕女になったりした。…食事代のほかに、きまって卓子の上に、五十銭玉の大きな銀貨をぽんと一つおいて、そそくさと立ち去るのであった。その人が、電車道を距てて燕楽軒の真ん前にあった、あの、中央公論社の名編集長である、瀧田樗陰であろうとは、私は夢にも知らなかった。」

平成15年10月
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4
安井てつ(やすいてつ)    −古河文学館ホームページより−『安井てつ1870(明治3)〜1945(昭和20)。明治3年2月23日、東京府(現東京都)駒込曙町の旧古河藩主土井子爵の邸内で、同藩士安井津守の長女として生まれました。明治23年に東京女子師範学校卒業後、母校で教鞭をとりますが、そのころ、てつは、一葉の元で源氏物語と和歌を学んでいます。きっかけは、一葉と懇意な同僚の勧めからで、週一回、同僚と一葉の妹と、てつの三人が、一葉から源氏物語の講義を聞き、和歌を詠みました。この時、一葉23歳、てつは26歳でした。その後、てつはイギリスに留学。帰国後、大正7年(1918)には、同年創立された東京女子大学の学監となり、同12年、初代学長新渡戸稲造の後を受けて、第二代学長に就任。昭和15年退職、名誉学長の称号を受けました。同18年には、東洋英和女子校校長となり、生涯を進歩的女子教育の向上に捧げました。』  

平成16年1月
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5
朝永振一郎理論物理学者 東京都生まれ(1906〜1979年) 1932年(昭和7)仁科研究室に入り、理研での研究を始めました。1943年量子論と相対論を完全に両立させることを説明した「超多時間理論」を発表しました。1948年には、この発想から出発した「くり込み理論」を発表しました。この理論は、量子電磁気学の発展に大いに貢献し、1964年ノーベル物理学賞を受賞しました。朝永振一郎は、「物理学に進んだのは、1922年(大正11)にアインシュタインが日本を訪れたことがきっかけで、物理学とは、不思議な世界であり、この世界を研究する学問の素晴らしさに魅了されたからだ」と回想しています。

平成16年1月
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6
湯川秀樹理論物理学者 東京都生まれ(1907〜1981年) 1935年(昭和10)、「原子核のなかで、それを構成している陽子と中性子をたがいに結び付けている力を中間子という素粒子の媒介によって生ずるものとして説明する理論、いわゆる中間子理論」を発表しました。この業績により、1949年ノーベル物理学賞を受賞しました。 1940年から仁科研究室研究員として理論物理の研究を進め、1961年から主任研究員として6年間研究室を主宰しました。

平成16年1月
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補足
「独立行政法人理化学研究所」(理研)。日本で唯一の自然科学の総合研究所として、物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研究を進めている。大正6年(1917年)に財団法人理化学研究所として創設、文京区駒込の地で産声をあげた。戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、昭和42年(1967年)研究活動の中心を埼玉県和光市に移した。研究領域の拡大とともに、各地に研究拠点を開設し、和光のほか、つくば、播磨、横浜、神戸に研究所(事業所)を設置している。平成15年(2003年)10月に文部科学省所管の独立行政法人理化学研究所として再発足した。 駒込曙町。現在の本駒込1・2丁目。旧白山通りと本郷通り、そして理化学研究所(現グリーンコート)の駕町と肴町に挟まれた地域。駒込曙町の住人にはノーベル物理学賞の朝永振一郎氏、東京女子大・東洋英和の学長・校長を勤めた安井てつ氏、太宰治の次女津島佑子氏、そして東洋大の初代学長井上円了氏等学者や文化人が多い。
グリーンコートの地
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=225683294&owner_id=78374

三百人劇場に程近い研究所(現大丸ピーコック周辺)で原子力などノーベル賞学者を育んだ地があった。仁科博士の記念館は今にその面影を留める。マクドナルドの脇に同窓会事務局のようなカタチで建物の一部が残っている。その隣の原子力の研究用地はこの数年前に撤去され更地となっている。
更に補足(ちょいと長いけど気になるので)

http://homepage2.nifty.com/tkeizo/book120922-j.html高橋啓三の部屋空襲下共同生活の1年 山崎文男 自然、1979年10月号感想;今の現実として、東京が空襲にあうといことは考えられないが、当時の人々が、ある種の平静さで空襲を受け止めていたことを示すペーパーです。自然 1979年10月号空襲下共同生活の1年(科学者をも見舞った異常な生活.それは空襲による延焼で終止符を打たれたが、磁電管の輝かしい研究の語ら牝ざる裏面でもあうた.)山崎文男やまざきふみお*戦前理研の仁科研究室にあって大小のサイクロトロン建設などに従事。朝永理事長のもとで仁科記念財団の専務理事を務める。朝永さんが,1年あまりにわたる治療の甲斐もなく亡くなられた.顧みれば理研入所以来四十余年のおつきあいで,思い出は尽きない.その中で,大戦末期の約1年間の苦難を共にしたころの思い出を、当時のメモを見ながら記してみる.<疎開やもめの見事な包丁さばき>昭和19年に入ると,戦局は日に日に悪化して,制空権は米軍の手に渡り,東京への空襲は必至との空気が張ってきた.家族疎開が都民の間で真剣に考えられるようになったのは,春も初めのころであった.理研の仁科研究室でも,幼い児を抱えた室員が多かったので,疎開を実行に移すものも出てきた.朝永さんは当時,理研に歩いて5分とかからない駒込曙町に住んでおられ、長女の滋子さんは3歳,長男の惇さんが1歳になるかならぬかのころで,同じ曙町に住んでいた私との間に,疎開の話が問題になったのは当然であったろう.朝永さんの家族は,一応三鷹の奥様の実家へ移られることにきまり,私の家族は鎌倉に移ることになり,そのあと,曙町の私の家で,朝永さんと共同生活を営むこととなった.ことは急速に進み,.朝永さんの机など身の廻りの品は,当時の天長節の休日に,二階の居室に運びこまれた.今ここで特に机と記したのは、これが朝永さんの結婚祝に,仁科・高嶺・西川等の研究室の友人どもが贈った,一辺3尺あまりの正方形のもので,1年後に焼けるるまで,この机の前に坐って書き物をされていた姿が忘れられないからである.朝永さんが移ってこられたのは5月中旬であった.家族が疎開する前に飯の炊き方,目玉焼,味噌汁の作り方などを教えてもらっておいたが,おぼつかない自炊生活も,朝永さんがみえると,炊事はとても私のような付け焼刃の出る幕でなく,見事な包丁さばきで料理を作って下さり,私は飯炊きと皿洗いなどの後始末をするようになった.どこで習われたかつい聞き洩らしたが,レパートリ一も豊富で,調理の方法もよく心得ておられ、魚も程よく焼き上り,同じなすでもごまあえ,煮なす,焼なすと食生活に対するこまやかな心遣いに,ただただ感心させられた.しかし日中家を空にすることは,隣組の方々に対して防空上の責任を感じ,妹の家から手伝いをよこしてもらったりして,その場をつくろった生活を続けた.6月に入ると,中国奥地に基地を持つB-29の北九州への爆撃が始まり,東京でも警戒警報の発令が数多くなった.妻も前から親しくさせていただいていた朝永さんの叔母上よね様が,2週間ほど泊って世話して下さったのもそのころであった.9月に入って,福田信之君が疎開やもめとして仲間に加わったが,彼は神出鬼没で3人揃うことは珍しかった. 朝永さんが島田へ時折行かれるようになったのは,このころからのように記憶する。8月にマリアナ諸島が米軍の手に帰し,ここからのB-29の来襲は必至と恐れていたが、果して11月1日にはその1機が白昼,超高空を後に引く長い飛行機雲の先に光る銀色の点として現われた.空襲警報のサイレンが理研2号館の屋上で鳴り渡り,一度は地下へ退避したが、敵機が見えるとの声で恐いもの見たさにこれを見に外へ出たのであった.こんなことがその後2,3回あったが,これは東京の偵察に過ぎないと、たかをくくるようになった.朝永さんはもうそのころには,隣組の1人として近所の人々とも路で挨拶を交わすようになり、隣組常会には私と2人で出かけ、私がサイクロトロンの仕事の都合で出られないときには,代って出席したこともあった.朝5時からの防空訓練にも,出なくてよいといっても聞かず,一緒に出てバケツリレーの列に加わったりした.こういうところにも朝永さんの人柄を感じた.さて私ども曙町20番地の隣組は、湯沢三千男、石原雅二郎,水溝亨といった法科出が多いのに対し,小路を隔てた北側の24番地は,田丸卓郎,高木貞治,寺田寅彦という理学部教授,それに文学部の友枝高彦教授といった学者の住居があり,揃いも揃ってイニシアルが同じなので、T.T.横丁ともいわれたブロックであった.しかし,もうそのころは田丸,寺田両先生は亡くなられていた.なお仁科芳雄先生は西隣のブロックに住んでおられた.<焼夷弾の仰角を測る>ところで空襲に話を戻すと,11月の下旬にはいると,爆弾,焼夷弾による東京への攻撃は,にわかに本格的になり,昼夜を分たず警報は発令されるようになった.そのころ,以前手伝いにきていた新潟県のいでさんという娘が上京して、私共の世語をしてくれるようになり,一同は大いに感熱した.小雨の降る夜,防空壕の巾で共に寒さに震えたり,朝永さんが島田へ立って行ったあと空襲が始まり、無事を祈ったのはそのころであった.12月に入って空襲はさらに激しさを加え,連日のように爆弾,焼夷弾の雨を降らせた.しかし高射砲や味方の戦闘機によって落ちていくB-29も,幾度となく見られた.月末近く,朝永さんは眼を患い,歯の具合も悪く、床に就いてしまい,義父の関口鯉吉博士夫妻が弁当持参で見舞いにこられ、元気づけていかれた.昭和20年の元旦は,午前O時に警戒警報のサイレンで迎えた.朝永さんは元気になって,屠蘇、雑煮で正月を祝ってから三鷹へ行く.その日の午後.私は湯島天神へ初詣しての帰り,仁科先生が長男の雄一郎君と,お宅の前で羽根つきしておられたのに加わってひと時を過ごしたが、これだけ連日の空襲に痛めつけられていながら,気分的に余裕があったのは不思議に思われる.朝永さんは2日夕方に帰ってこられたが,腋下の淋巴腺がはれたとて38度の発熱.武見先生が診療にこられ、この発熱は歯槽膿漏と診断され,私は早速処方箋をもって本郷薬局へ赴いたが,主薬のスルフォン剤が無い.朝永さんは以前にもよく正月京都へ帰られてから,内臓に異状はないのに微熱がとれなくて上京できなかったことがあったので心配になる.空襲はもう休むことなく続き、東京にこない日は名古星,京阪地区を襲っていたが、ついに1月27日には都心が狙われ、丸の内,銀座方面,近くでは白山下が爆撃された.しかし.今でもはっきり憶えているのは,その翌日夜の1機による空襲である.夜10時サイレン. 朝永さんは2階から防空頭巾を被って降りてきて,共に月明りの庭に出る.B-29の1機がよく通るコースを,照空燈に照らされて飛んでくる.まさに私共の頭上を通るコースである.見ていると弾倉が開いて,白いものがいくつか機体を離れた.朝永さんはその途端に右手を上げてその位置を指した.仰角60度くらいであったようだった.直ちに壕に転げこみ,息を殺して運を天に委せた.やがてごうごうと異様な落下音が頭上を唸り過ぎ,間もなくドシャという音で終った.朝永さんはこの間,仰角,高度,速度,から落下点を推定していたのだろうか.私にはとても恐くてその余裕はなかった.この爆弾,焼夷弾は肴町から根津にかけて落ちたと聞いた.2月4日には,仁科先生の朝日賞受賞のお祝いの会が理研の講堂で催された.朝永さんは,まだ微熱があったが喉に湿布を巻いて出席,先生の挨拶のあとお祝いの言葉を述べられた.内容もさすがに立派で,話し方は寄席に通っただけある,とささやく声も聞えた.<空襲映画のスペクタクルそのもの>2月に入ると,電源の電圧も低下してサイクロトロンの運転も困難になり,原子核実験の連中は今後いかにすべきかが問題になる。島田へいき,真空関係の仕事をする話もでてきた。その予備知識を勉強しておこうと、朝永さんに磁電管の講義を頼み,曙町の家に新間啓三,杉本柳雄,田島英三君らが集って聞いたのは,2月下旬のことであった.日増しに烈しくなる空襲のため,朝永夫人と子供さん2人は,3月9日の夕方一度曙町に集ったあと,福田君に付き添われて,夜汽車で京都へと立って行かれた.その夜12時ごろ,朝永さんは二階から降りてきて,もう火事が起っている,今の爆音は敵のだと教えた.こちらはラジオを信じていたが,二階へ上ると,B-29が照空燈に照らされて低空を飛んでいる.それからの2時間あまり,北西の風がますます募る中での無差別爆撃は,夢かと疑う熾烈な情景の連続だった.朝永さんが,空襲映画のスペクタクルそのもの,といったのが忘れられない.10万を越える死傷者を出した大空襲の一夜である.長い間,私共の食事などの世語をしてくれたいでさんも,これ以上引き留めることはで事ないと故郷へ帰す.私は家族を4月2日に鎌倉から信州の富士見へ移した.1人でも多いほうが頼りになるとて,物理学校学生の小林君が私共の共同生活の一員に加わった.4月13日,ついに最後の日がきた.夜11時ごろ空襲のサイレンが鳴りひびく.敵はいきなり飛びこんできて,まず理研のあたりに落し,大きな火柱がたつ.続いて原町,曙町に落していく.向いの高木貞治先生の家に落ちて,たちまち火に包まれる.家族の方々が手に負えぬと諦めて,「ではお先に」と挨拶されたので,「先生は?」と聞くと,「先ほど避難しました」と.先生の書斎は私の家から3mほどしか離れていない。それが燃えるときには輻射熱で私の家の外壁の板から,マッチほどの火が燃え上る.朝永さんと火叩きに水をつけては消す.寺田先生の家に移った火はたちまち広がって、大きな音をたてて二階の棟は焼けおちた.しかし,あらかじめ定めておいた逃げ道のほうへ火は延びて行くので,もうこれまでと3人は立ち去る.道路はすっかり乾いている.あと100mほどで駒込警察署というあたりで,頭上に焼夷弾の束の破裂する音が響き,朝永さんと2人は無意識に道端の塀に身を寄せて伏せてしまった.小林君はとっきに人家の中にとびこむ.私共2人から1mとない道路上に一発油脂焼夷弾がおちて火を吹き出した.どこから現われたか1人の巡査が「火を消して」とどなる.従順な2人はしばらく消火を手伝う.しかし見ると逃げるつもりの道も煙に包まれてきた.急ぎここを通り抜けて,駒込署の北の,すでに1月の空襲で焼けた神明町の焼跡に迫りつく.やっと生心地を取り戻し,なぜあの時2人は最も大きな「断面積」をとづたのだろうと冗談も出る.遠くからかすかに聞こえてくる解除のサイレンと共にここを立ち去り,理研に行く.49号館の外壁についた火を消すのを手伝ったあと、23号館2階の朝永さんの居室へ入り,2人とも,机の上にごろりとなって深い眠りに落ちた.このような結末で私共の共同生活は終ったのであった米原雲海
明治43年度 日本美術年鑑 記載によれば東京彫工会第六部長.日本美術協会委員.日本彫刻会会員.            東京彫工会、日本美術協会、内国勧業博覧会 その他 外国博覧会等において得たる受賞の種類を総括すれば「金賞牌3回.銀賞牌8回 ロウ銀賞2回銅牌5回.褒状10回.外に文部省美術展覧会において第1回、 第2回共に3等賞第3回は褒状を得現住所  東京市本郷区駒込曙町16 とある当方調査 宮内庁買い上げ 9点. 日本政府買い上げ 3点. イタリア国 1点.
7.田中角栄
http://www.tsukudo.jp/hito-tanaka.html
http://www.kantei.go.jp/jp/koizumidaijin/010426/04tanaka.html(真紀子)
8.鳩山一郎
http://www.tsukudo.jp/hito-hatoyama.html
9.細川護貞
http://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics051004.html
再録
6.湯川秀樹
http://www.city.kyoto.jp/sogo/hisyo/honor_02.html
10.大町桂月
http://kochi-bunkazaidan.or.jp/~bungaku/taisyuubunngaku.htm
11.佐藤春夫
http://www.kumanogenki.com/kumanodb/eventdb.cgi?action=syousai&data_num=124
12.松尾芭蕉
http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/haiku1.html
補足
細川邸 和敬塾
http://www.wakei.org/
〒112-8682 東京都文京区目白台1-21-2
電話03(3941)7446 FAX03(3941)7482

http://maskweb.jp/b_wakei_1_1.html
http://www.wakei.org/honkan/
http://i-debut.org/journal/j_disp.asp?code=7356

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