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教えて、古代文明!!コミュのエジプト文明関連。

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吉村教授の新発見なんかもこちらが良いのかしら。

イェス!ツタン!

コメント(64)

> 芹沢文書さん

うかつにもまったくノーチェックでした。お手数で申し訳ありませんが、ご教示お願いいたします。
芹沢文書さま、いつもありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
3回シリーズの第一回、今回は三大ピラミッドの建造方法についての新説。

まずは内部を王の間まで映すカメラ。大回廊のデカさに圧倒される。天井までは8mあまり。
ここでピラミッド建造にかかる謎の話。
ひとつ、ピラミッドの建造期間。実際にピラミッドを見に行ったヘロドトスの記述によれば20年で建造されたという。石の数は約230万個、1日あたり平均315個づつ積んだ計算(実際には上と下とで速度には差があると思われるが)。そんなことが可能か。
ひとつ、王の間周辺は1個あたり60tもの花崗岩を積んで作られている。サイズ的にも重さ的にも、これを引き上げるのは容易ではない。どうやったのか。
なお周辺で4000人規模の集落跡発見、当時の作業員宿場と思われる。建築作業員は常時4000人規模の体制か。

仮説を提唱したフランス人建築家登場。ピラミッドに魅せられ10年かけて建築学的見地から研究を行なう。
まず定説の検証。
直線傾斜路説:頂上まで直線的な坂を築く説。しかし引き上げ可能な傾斜5°で計算すると全長1.6kmもの長大な坂に。これの建造自体に大きな労力と資材を要求する上、石切り場を通り過ぎてしまい効率悪い。315個/日の効率を考えるとこれはない。
螺旋傾斜路説:ピラミッドに巻き付く足場を建造する説。直線説の問題は解消されるものの狭い通路は不安定で、砂嵐吹く砂漠では事故必至。また稜線が歪められるため外部測量による修正が困難で、綺麗な形に積み上げられない。

氏の提唱する新説:内部トンネル傾斜路説。
これはピラミッドに周期的な横方向の「線」が見えること、角が周期的に欠けていることから発想されたもので、内部に傾斜5°程度のトンネルを設営、これを使って角材を引き上げる。角を開けた空間とし、引き上げた石材をクレーンで90°ターン、次の坂へ引き継ぐ。
これにより螺旋傾斜路説の欠点は完全に解消される。
なおアブ・シンベル神殿遺跡には螺旋状の内部トンネル跡が残されており、当時これを建造可能な技術があったことは明らか。また20年ほど前にフランス調査で重力計を使ったピラミッド各部の密度計測が行なわれており、その報告書には「螺旋状の空間」が検出されたとある。

ただしこの説は周辺石材の積み上げにかかる説であり、王の間の花崗岩はこのトンネルで運べるサイズではないため別に説明が必要となる。

そこで第二説:大回廊エレヴェータ仮説。
大回廊は不必要に大きい。従来は何らかの儀式説が提唱されてきたが、詳細はまったく不明であった。
氏は一定の高さに続く擦過痕、及びその部分の黒ずみに注目。これは回廊を何かが繰り返し通過した跡であり、黒ずみは潤滑剤であろうと考えた。
大回廊は25°近い傾斜があり、石材を運び上げるためのものとは考え難い。これはむしろ、滑り落とすためのものではないか。
つまりこれはエレベータのカウンターウェイトを往復させる通路であり、これを利用して巨大石材を軽々と運び上げたのではないか。
(下まで滑り落ちた錘をどう引き上げるかについて説明はなかったが、恐らく一端トンネルで運び上げた石材の一部を流用したのではないかと思われる。つまり錘を錘として引き上げず、空荷の台車のみを引き上げ)
回廊左右の、一定間隔で穴の空いた溝は橇の落下速度をコントロールするラッチのようなものを木材で作り嵌めたのではないか。
当時入手可能な材料でこのカウンターウェイトを設計するに、レバノン杉材の木枠/橇、ナツメヤシ繊維のロープ、25.4tの石材という構成。物理シミュレーションの結果、落下で破壊されるようなこともなく実用的に繰り返し利用に耐え、従来600人必要と見積もられた人手が158人に軽減された。

なおトンネル説については実際に崩れた角を調査(現在は登坂が禁止されており特別許可を得ての調査。頂上までは行っていないのだが、それでも登るだけで90分もかかっている)、実際に5m四方ほどの平面空間が確認された。また内部にも空洞を発見、ただし3mほどで再び塞がるが、その先にも続くらしき隙間が。トンネルを塞いだ跡か。

以上、非常に興味深い内容でした。

次回は7月中に1回、8月中に1回の放映を予定している模様。これは是非録画保存して頂きたいと思います。間違いなく、それだけの価値があります。
芹沢文書さまありがとうございます。

ピラミッド内部に建設通路とは驚きの説です。次は見逃さないようにしなくては。
近日発売のようですよ。

http://www.amazon.co.jp/大ピラミッドの秘密-エジプト史上最大の建造物はどのように建築されたか-ボブ・ブライアー/dp/4797353929/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1246945481&sr=1-1
ナショナルジオグラフィックから。
23日のニュースです。



☆☆☆☆☆☆☆☆



ギーザの大ピラミッド、着工日特定か
Andrew Bossone in Cairo
for National Geographic News
September 23, 2009


 エジプトにある“ギーザの大ピラミッド”の建設はいつ始まったのだろうか。その正確な日付を特定しようというプロジェクトが最近調査を終え、紀元前2470年8月23日という結果を発表した。

 今回調査を行ったエジプトの考古学チームは、“ソティス”と呼ばれていた恒星(現在は「シリウス」)の出現記録を基に、大ピラミッドの建設着工日を算出したという。
 ソティスは毎年、ナイル川が氾濫する時期になると、明け方の空に突然姿を現したと言われている。調査チームを率いたエジプト最高考古庁前長官のアブデルハリム・ヌール・エルディン氏は次のように話す。
『当時ソティスは、氾濫期の始まりを告げる星だった。大きな建物や墳墓、寺院などの建設工事もそれに合せて着工された』
 ナイル川が氾濫すると肥沃な土砂が運ばれ、流域に豊かな恵みがもたらされる。古代エジプトでは、氾濫期が始まる頃は縁起の良い時期とされていたのである。

 一方、歴代のファラオは、即位と同時に自らの墓の建設を始めたと言われる。エルディン氏らによれば、ギーザの大ピラミッドに埋葬されたと考えられているクフ王がファラオに即位したのは、紀元前2470年だという。
 そこで調査チームは、紀元前2470年にソティスが姿を現した正確な日付を特定するため、現代の暦と古代エジプトの暦、それにソティスの公転周期とを比較した。その結果、ソティスが現れたのは7月17〜19日で、その35日後の8月23日に氾濫期が始まったという結論に達した。

『ソティスの出現時期を基にして、毎年訪れるナイル川の氾濫時期を特定しようというアイデアは理にかなっている。』
 こう話すのは、アメリカ、シカゴのアドラー・プラネタリウムで天文学を研究するマーク・ハンマーグレン氏だ。
『太陽暦を基にすれば、ソティスは毎年ほぼ同時期に出現するため、その時期がわかればナイル川の氾濫期も正確に特定できることになる。』
 ハンマーグレン氏は、エルディン氏らが算出したソティスの出現時期について、その他の研究者らの推定結果から判断しても、ほぼ間違いないと見ている。ただし、古代エジプト人がソティスを観測できるかどうかは、その時の天候にも左右されるため、年によってはソティスが初めて現れた日付が正確でない可能性もあるという。

 ギーザの古美術品管理の最高責任者であるマフマド・アフィフィ氏も、クフ王がファラオに即位した正確な年を特定する研究に関心を寄せている1人だ。
 古代エジプトでは、新しいファラオが即位するたびに、その年を0年とする記年法が用いられていた。そのため、当時の出来事が起こった年月日を西暦に換算することは難しいことが多い。その上、古代エジプト人は政略的動機から史実を改ざんすることが少なくなかったため、記録に残っている歴代ファラオの統治年もあまり信頼できない。

 クフ王の正確な即位年については、現在も研究者の間で活発な議論が交わされている。中にはエルディン氏の調査チームが特定した日付より139年も前だという研究結果もある。
 そんな中アフィフィ氏は、当時の大事業だったギーザの大ピラミッドには、設計に相当の期間が費やされた可能性が高く、建設着工もクフ王が即位した年には間に合わなかったのではないかと見ている。
 アフィフィ氏にとって、ギーザの大ピラミッドは依然、多くの謎に包まれた存在だという。
『クフ王はなぜ、父親の墓があるダハシュールから30キロも離れたギーザ台地を選んで自らの墓を建てたのか。それすらわかっていない。ギーザの大ピラミッドについてはさまざまな学説が提出されているが、それがこのピラミッドの不可思議さを象徴している』と、アフィフィ氏は話している。



☆☆☆☆☆☆☆☆
さて…

超古代文明コミュの〈大ピラミッドの建造者はクフ王ではない説〉トピを受けて
というか、『エジプトが人口の多数をイスラム教信徒が占めており、教典に書かれている内容と矛盾した古代エジプトの歴史を歪曲、捏造しているという説 』なるものを、こちらで受け皿にして検討してみませんか?

提唱者/紹介者は「この説自体が、立証しようが無く…」と言っていますが、立証の前にアナクロな矛盾点が多すぎるというのが最初の感想です。この時代錯誤を解消して初めて立証できるかどうか、との論点に立てるのですが…

もちろん、皆さんはご存知でしょうがエジプト関連の書籍なり伝承は、ギリシャ・ヘレニズム文明でも記載されたり紹介されています。いわゆる世界の七不思議の筆頭として「ギザの大ピラミッド」は上げられております。またヘロドトスの「歴史」にもエジプト史は記載があります。

これらの書籍はラテン社会にはイスラム経由で伝わったかも知れませんが、非イスラムであるキリスト教社会−ビザンツ帝国にも伝わっておりました。もちろんヘブライ人の記録−旧約聖書−にもエジプトは記載があり、BC1000年のころは強大な大国であったことが読み取れます。

またアッカドや古バビロニア・ヒッタイトの文書解読はイスラム圏とは関係の無い国々で行なわれ、それらの国々と交流のあった大国がエジプトにあったことが読み取れBC2000年代まで遡れます。

もちろんヒエログリフやは解読されており矛盾点も無いことから、石碑などに書かれた内容を捏造するには、相当の困難な作業だということは、さて置きましょう…
えっと、ぼく、日本史選択だったから…
日本史選択だったから!

とりあえず、後から追いつきますので進んで下さい…
orz
他コミュで場違い、かつ、アナクロ矛盾な説を紹介し
博識な方たちの領域にうっかり土足で足を踏み入れてしまった者です・・・。

いまのところ質問でしか検証に参加できそうにありませんが、
ここやコミュ全体の情報を拾いながら勉強させていただきます。

イスラム教圏の捏造に関わらず、
古代の記述の相互の共通性と、
現代科学による遺跡の分析との符合点に興味があります。

よろしくお願いしますー。
ええと、イスラム圏(アラビア文化圏)の伝統的理解でピラミッドがどのように考えられていたか、端的にまとめたサイトがあるので引用(オカルト系ですが、内容はそれなりにきちんとしています)
============
更に驚くべきことに、そもそも大ピラミッドを築いたのはヘルメス本人だったという伝承も残されており、それを裏づける資料もある。

例えば、14世紀エジプトの歴史家アル・マクリージーの『群国誌』の一節である。

「最初のヘルメスは、預言者で王で賢人であるということから〈3つの顔を持つ者〉と呼ばれ、これはヘブライ人がエノクと呼ぶ人物で、またの名はイドリスである。彼は星を読んで洪水の到来を預言した。また、ピラミッドを建造させて、宝物や学問的な著作をはじめ、散逸しないように守っていた品々をことごとく隠して、保管をはかった」

なんと、大洪水の前にピラミッドを建造させたのが「最初のヘルメス」であり、この人物はまたエノクとも、イドリスとも呼ばれていたというのだ。この他にも、アラブ人歴史家アル・マキールやイブン・バトゥータも、ヘルメスをエノクと呼んで紹介している。

『旧約聖書』にも登場するエノクは、ノアの洪水以前に生きた超人種族の一員であり、あらゆる秘教の元締めとされている人物だ。生きながら天に昇ったというエピソードを持ち、彼が天使との会話に用いた言語「エノク語」は、至高の力と叡智をもたらす呪文ともなる。また、イドリスはアラブの伝承に登場する「太古の賢人」である。

そして驚くことに、アラブ人にとって、大ピラミッドが大洪水以前の建造物であることは、なかば常識であったといっても過言ではないようなのだ。

9世紀後半、アブ・バルキは、こう述べている。
「大洪水の直前、多くの賢人は天変地異を予言した。彼らは地上の生物や文明の叡智が失われることを憂慮し、エジプトの大地に石造りの塔を建設した」

アブ・バルキとほぼ同時代のアラブ人マウスティーは、著書『黄金の牧場と宝石の山』のなかで、大ピラミッドについて、もっと詳しく述べている。
「大洪水以前のエジプト王サウリドは、巨大なピラミッドを建設した。彼は、大洪水が起こる300年も前、大地がねじ曲がる夢を見たからだ。……ピラミッドには金銀財宝はもとより、数学や天文学をはじめとする科学の知識が詰められた」

ここでいうエジプト王「サウリド」とはイドリスと同一人物で、いうまでもなくヘルメスの別名である。混乱を防ぐため、ここで一応、整理しておこう。「ヘルメス=エノク=イドリス=サウリド」である──。

このほかにも、アラブ人の歴史家ワトワティ、マクリーミ、ソラール、アルディミスギらなど、一様に大ピラミッドを建設したのはエノク(=ヘルメス)であると著書に書き記している。

なかでも、最も有名なのは、歴史家にして旅行家のイブン・バトゥータである。14世紀、彼はアラブ世界のみならず、エジプトからアジア、なんと中国にまでやってきている。イブン・バトゥータが記した『旅行記』には、こうある。
「エノクが大ピラミッドを建設した目的は、大洪水から貴重な宝物と『知識の書』を守るためだった……」
===========
http://hexagon.inri.client.jp/floorA7F/_floorA7F_alchemy.html

文中「サウリド」というのはギリシャ名ケオプス、つまりクフ王のアラビアなまりなわけで結局、アラビアでもクフ王が建造したことは認めていたわけですね。
アラビアの歴史家は専攻文明であるギリシャ・ローマの年代記や天啓の書である旧約聖書を考証して自分たちの歴史を作ろうとしたわけで、ギリシャの神ヘルメスやアダムの子孫エノクの名が出てくること自体はおかしくない。

この文中では「大洪水以前」という言葉を強調することでアラビア人がピラミッド建造を超古代のことと信じていたように見せていますが、実は中世におけるノアの洪水の年代観は今から約4400年前頃ですから、それから300年前というピラミッド建造年代は、クフ王が実在したとされる年代にごく近いものになります。

なお、上には引用しませんでしたが、リンク先で錬金術の古典エメラルド・タブレット実在の証拠として引き合いに出されるライデン・パピルスはどうやら偽作のようです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ipuwer_Papyrus
追記

上記リンク先では高度な知識を含む宝物がピラミッドに納められたという話が書かれていますが、この俗信はピラミッドが巨大な墓であるということが伝わっていたからこそ生まれたものでしょうね(意外とその知識はギリシャ・ローマ経由だったのかも知れませんが)。

現在、観光客がピラミッド内部を見るのに用いられている穴が、紀元820年にカリフ・エル・マムーンが盗掘のために開けたものであることは周知の通り、彼もこの俗信を真に受けた一人だったのでしょう。

というわけで、ピラミッドに関する知識として現在流布しているものにはアラビア人(イスラム)が付け加えたものはなさそうですね(逆にアラビア人の記録で現代では相手にされていないものの方が多い)。
トート神ではなくヘルメスが建てた扱いなんですね。

イスラム教影響下で歴史の歪曲がなされていたとして、自分が思い浮かぶ検証できそうな素材は…

 十世紀以前の海外の記述

 外国人の盗窟品

 古代宗教(ヘルメス神秘主義、グノーシス派か多神教)経由

 秘密結社経由

 海外発掘調査隊の奇説・暴露話

十世紀以前で原本の写本があれば良いのですが、恐らくは賢人や神官による伝聞を記述したものしか残っておらずディテールは不明瞭、ヘルメス神秘主義やグノーシス派はオカルト扱いに、盗窟品は年代解析が出来たとしても考証に耐えうるかが疑問でした。

自分で読み返して思ったんですが、十世紀以前なら翻訳された写本もありえそうですね。
>十世紀以前の海外の記述
>外国人の盗窟品
>古代宗教(ヘルメス神秘主義、グノーシス派か多神教)経由
>秘密結社経由
>海外発掘調査隊の奇説・暴露話


問題は、1822年以降、これらに由来する可能性がある情報はエジプト学の年代考証に用いられなくなった、ということですね。
> 偽史学博士さん

それには妄想の尾ひれが追加できます。

イスラム教影響下に置かれた際に隠蔽があったとすれば、イスラム教権が神官からヒエログリフの読み方を聞き出していたことも仮定でき、1822年の解読を待たずともヒエログリフの読み手は失われずにいた可能性がありえます。

そして、考古庁など公的機関の管理下で発掘されれば、オカルトの文献で見かける出土品の「没収」があることになる…とか。

故に出土品の検証対象は盗窟品だけになってしまいます。
ただ…ナセル以前のエジプトは英国統治下にあり主要な発掘物は本国に運ばれ、そこで研究されたことがあります。20世紀前半にはクフ王の年代は、ほぼ判っていましたがアラブ人やスラブ人は、その時点までの研究史には殆ど登場していません。
とりあえず、37で偽史学博士さんが紹介しているサイトは神秘主義におけるヘルメスの位置づけが分からないとピンと来ないと思うので(厳密にはギリシャ神話のヘルメス神とは分ける必要あり)、ウィキペディアのこの項目を参照してください。
「ヘルメス・トリスメギストス」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9

そしてちょっと基本に帰ってみましょう。夢巡さんは何故、「イスラム教が建設年代を捏造する必要があった、どういう風に捏造した」と考えられるのかをクリアにして頂きたいと思います。仮定に妄想の尾ひれをつけると際限がなくなってしまいますから。

この点は、私はイスラムの側では別にそのような必要はなかったし、クフ王も含めて現在伝わるエジプト史にイスラムを重視する必要がないと思っています。

あちらのコミュに出ているように、考古学史料以外でクフ王建造とされている文献史料はマネトーの「エジプト史」とヘロドトスの「歴史」です。特にエジプト人であり、記録を詳細に調べることの出来たマネトーの「エジプト史」は重要ですが、この書は早く失われていて、現在は後世の歴史家達の引用で骨格を掴んでいる状態です。そして、このマネトーの引用を行っており、重要視されるのはイスラムの史家ではなく、ユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスをはじめ、他にはキリスト教史家、司教たちの引用です。イスラムがエジプトを征服するのはそれから更に数世紀も後の話で、文献史料で言えばイスラムの史家がこれらの歴史家たちの記録を全て改ざんしない限り(不可能ですし必然性がありません。その上、イスラムが古代ギリシャ・ローマの学問をかなり忠実に受け継いでいる現実があります)、イスラムの影響は排除して構わないと思っています。

そしてこの辺りは37とも絡んでくるのですが、イスラム教においてムハンマド(マホメット)以前の時代に関しては、キリスト教・ユダヤ教と基本的に認識は共通しているのです。イスラム教では旧約・新約聖書はムハンマド以前の「天啓の書」としてかなり重要視されていて、ムハンマドは旧約聖書に出てくる預言者たちを受けた、「最後にして最大の預言者」という扱いです。ですから、37の引用にノアの箱舟やエノクに関する話が載っているのです。ですから、ピラミッドの存在が別に旧約聖書に影響を与えない以上、3宗教共にわざわざピラミッドの建設年代・建設者を偽る必要性がないのです。
ナショナルジオグラフィックのニュースです。
石ノ森正太郎のギルガメッシュを思い出しました。
にしても、太い首ですね。
相当強いに違いありません。



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エジプトの墓地遺跡:不死のマスク

National Geographic News
April 21, 2010


 2000年前のグレコローマン様式の石膏マスク。バハレイヤ・オアシスの砂の中から新たに発掘された。

 古代エジプトでは、葬儀用の仮面を着用すれば、死者は冥界から霊界の楽園にたどり着けると考えられており、この信仰はローマ支配下の紀元後300年頃まで変わらなかった。当時、ヨーロッパからの影響が大きくなっていたにもかかわらず、神殿での儀式で神官がエジプト様式の動物のマスクを着用していたことも知られている。

「マスクのミイラはまだみつかっていない。この地域の豊富な地下水が発掘を困難にしている」と、エジプト最高考古庁のカイロおよびギーザの古美術品管理責任者、マフマド・アフィフィ氏は語った。

Photograph courtesy Egyptian Supreme Council of Antiquities

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なんだかスゴいニュースが!
ナショナルジオグラフィックです。
その1。

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ファラオ像発見、クレオパトラの墓か?

 古代エジプトの神殿跡からギリシャ人ファラオの頭部のない重厚な像が発見された。発掘調査の責任者によると、この地がマルクス・アントニウスとクレオパトラの眠る墓所であることを示す証拠が新たに加わったことになるという。

 2人の墓を探すため、港湾都市アレクサンドリアの西約45キロに位置するタップ・オシリス・マグナ神殿の周辺でこれまで5年間に渡って調査が行われている。発見された像は黒花崗岩製で、頭部がない状態で高さが約1.8メートルある。像の台座近くで見つかった同じ材質の石に刻まれた“カルトゥーシュ”(王の名を記した枠)の名から、プトレマイオス4世の像と考えられている。プトレマイオス4世は、プトレマイオス朝時代(紀元前332〜30年)にエジプトを治めたギリシャ人王族の1人だ。

 考古学者キャサリン・マルチネス氏が率いるエジプトとドミニカ共和国の合同発掘チームは、この頭部のない像以外にも、神殿の隅の1つに定礎の儀式の際に埋められた定礎具に書かれたギリシャ語とヒエログリフの碑文を発見した。そこには、紀元前221〜205年に王位にあったプトレマイオス4世が神殿の建造を命じたと記されていた。これまで、この神殿は紀元前282〜246年のプトレマイオス2世の時代に建設されたと考えられていた。

 カイロにあるエジプト考古学博物館のサリマ・イクラム氏は今回の発掘調査には関わっていないが、「この神殿がクレオパトラの墓所との説に立つならば、建設の時期が遅いほどクレオパトラの存命中にこの神殿が利用されていた可能性が高まり、クレオパトラと関係があった確率も高くなる」と説明する。

 発掘チームは今回、花崗岩のファラオ像が発見された神殿の北の入り口の外側で、高さ約2メートルのスフィンクスの台座の列も発見した。他のエジプトの神殿では入り口に向かう通路にスフィンクスを並べるため、発掘チームは、この神殿の正門はこれまで考えられていた東の入り口ではなく、台座が並ぶ北の入り口だと考えている。

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続きのその2です。


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◆栄華を誇ったタップ・オシリス・マグナ神殿
 クレオパトラ7世はプトレマイオス朝最後の女王で、息子のプトレマイオス15世と共同でエジプトを統治した。しかし、クレオパトラとその恋人でローマの将軍マルクス・アントニウスは、紀元前30年にオクタウィアヌスとの戦いに破れて自ら命を絶った。その後間もなく、オクタウィアヌスは初代ローマ皇帝アウグストゥスとなる。

 今回発見されたファラオ像は、エジプトの女神イシスの2体の像と神殿の正門の跡とともに、タップ・オシリス・マグナがプトレマイオス朝の支配者たちと関係があったことを示す最新の証拠であり、不幸な運命を辿った2人の恋人との関係も示しているかもしれない。

 タップ・オシリス・マグナの存在は何百年も前から考古学者の間で知られていた。この神殿で初めて発掘調査が行われたのは1801年で、ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の命令によるものだ。

 最近まで、タップ・オシリスは未完成の神殿だとの説が有力だった。その理由は、碑文が見つかっておらず、内部の構造を示す証拠もほとんどなかったためだ。神殿の外の巨大な墓地と、灯台と思われる塔は発見されていたが、それ以上のことは不明だった。

 しかし、最近の発掘調査によってこの神殿がこれまで考えられていたよりも活発に使われていたことが明らかになり、クレオパトラの時代にはこの神殿が重要な場所であった可能性が高まっている。

 これまでこの神殿の墓地では、少なくとも12体のミイラ、500体の人骨、20基の墓が見つかっている。マルチネス氏によれば、ミイラが神殿に顔を向けて埋葬されていることから、重要な人物の墓がこの神殿にあるかもしれないという。

 また、発掘チームはこの神殿内で、聖なる水場、ミイラの製作に使用されたと思われる部屋、オシリス神とイシス神を祭る礼拝堂を発見した。この偉大な2柱の神はエジプトの神話に登場する夫婦であることから、クレオパトラとアントニウスはこの神話にヒントを得て、自分たちの埋葬場所としてこの神殿を選んだ可能性がある。

 エジプト最高考古庁(SCA)の事務局長で発掘調査を監督するザヒ・ハワス氏は、「クレオパトラはイシスを、マルクス・アントニウスはオシリスを表しているのかもしれない」と推測する。

 発掘チームは2008年にも、クレオパトラの石膏胸像、クレオパトラの顔が刻印された硬貨、ギリシャの女神アフロディテの銅像などの遺物を発見した。

「発掘によって、巨大な複合施設であるこの神殿に何が存在するのかを明らかにしてきた。これにより、この神殿が実はプトレマイオス朝時代のアレクサンドリアで最も神聖な神殿の1つだったことが証明された」とマルチネス氏は主張する。

「この神殿の荘厳さと、当時はとても神聖な場所であったことから見て、ここにクレオパトラの墓があるのではないかと思う」。

◆墓を隠すには「最適の場所」
 ハワス氏は、タップ・オシリス・マグナがアントニウスとクレオパトラの墓の有力な候補地と考えられる理由について、ローマ帝国の支配者に自分たちの墓を発見され冒とくされるのを2人が恐れた可能性を挙げる。

 アントニウスは、オクタウィアヌスが自らの軍事力を誇示するために自分たちの死体をローマ中で晒し者にするのではないかと疑っていた可能性が高い。だとすれば、アントニウスとクレオパトラが、アレクサンドリアの王宮の外にある神聖だが人目に付かない場所に埋葬されることを望んでいたと考えることもできる。

 エジプト最高考古庁は1年ほど前、タップ・オシリス・マグナ内で地中探知レーダーを使用することをマルチネス氏に許可した。その結果、数々のトンネルが発見され、地下室が8つもあることが明らかになった。これらは現在も調査中である。

「ここは彼らの墓を隠すには最適の場所だ」とナショナル ジオグラフィック協会付き探検家でもあるハワス氏は言う。

 またマルチネス氏は、タップ・オシリス・マグナの規模が広大であるため、その内部にある墓が発見されにくいと指摘する。「この複合神殿は5平方キロの広さがある。われわれが新しい技術を駆使して調査しているというのに、そのような技術を持たないローマ時代の人々がどのようにして墓を見つけることができただろうか」。

Photograph by Kenneth Garrett via SCA


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えっと、流れでバスバスいきます。
着々と進むエジプト、すごいなぁ。
全部ナショナルジオグラフィックです。


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エジプトで“失われた”ピラミッドを発掘
Andrew Bossone in Cairo
for National Geographic News
June 5, 2008

 歴史に埋もれていた古代エジプト王のピラミッドが100年以上の時を経て地中から再び発見された。このピラミッドには紀元前25世紀半ばにエジプト第5王朝を8年間統治していたメンカウホル王の墓が納められているとみられる。

 このピラミッドは、存在こそ19世紀半ばにドイツ人考古学者のカール・リヒャルト・レプシウスによって記録されていたが、土台だけの姿であったため「第29ピラミッド」または「主なきピラミッド」と呼ばれていた。

 その後このピラミッドは、王族の墓が数多く存在するカイロ近郊のサッカラという地に埋もれてしまった。「レプシウス以後、このピラミッドの位置は不明となり、人々の間では忘れ去られた存在だった。砂丘は高さ約7.6メートルもあり、ピラミッドを覆う砂を取り除くだけで1年半かかった」とエジプト最高考古庁のザヒ・ハワス事務局長は語る。

 このピラミッドには建造した人物を特定する情報がなく、その土台も大部分が破壊されているため建造時期が不明だった。しかし装飾や碑文がなく、赤花崗岩でできているという点や、埋葬室で見つかった石棺のふたが灰色の片岩を使用している点など古王国時代(紀元前2575〜2150年)の特徴があることが最近の調査で分かった。発見されたピラミッドは、隣に位置する第6王朝(紀元前2345〜2181年)の初代王であるテティ王のピラミッドに類似していることから、第5王朝時代のものではないかと考えられている。

 また、古王国時代から約2000年後のプトレマイオス朝時代に造られた聖なる道の新たな部分が見つかったことも発表された。この発見から、サッカラという土地が長らく重要な場所とされてきたことが分かる。サッカラは古代の首都であったメンフィスの一部に含まれていたと考えられている。考古学者らは、「スフィンクスの道」と呼ばれるこの聖なる道の発見をきっかけとして、このエリアでさらに発見が続くことを期待している。

Photograph by Mohamed Megahed/Supreme Council on Antiquities

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エジプト古王国の墓発見:サッカラ

Andrew Bossone in Cairo
for National Geographic News
July 12, 2010

 エジプトのカイロ近郊にある4200年前の遺跡から、エジプト第6王朝のファラオであるペピ2世の書記官長だったシェンドワの墓と、その息子でやはり書記官だったホンスの墓が発見されたことが、7月7日に発表された。シェンドワの墓は、色鮮やかな絵が描かれた偽扉を備えていた。第6王朝は、エジプトのピラミッドのほとんどが建てられた古王国時代(紀元前2686〜2160年)に属する。

 遺跡の面積は約300平方メートルで、サッカラにある王家の複合埋葬地で発見されたが、奇妙なことにペピ2世の墓からは離れた位置にある。そのため、今回の発掘エリアで「このファラオ(の時代)に属する墓が見つかるとは予想していなかった」と、エジプト最高考古庁でサッカラの複合埋葬地の担当ディレクターを務めるアブドゥル・ハキーム・カラー氏は話している。

Photograph courtesy Egypt Supreme Council of Antiquities

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エジプト古王国の墓発見:偽扉

Andrew Bossone in Cairo
for National Geographic News
July 12, 2010


 新たに発見されたエジプト古王国時代の書記官長シェンドワの墓に備えられていた偽扉。シェンドワの名前と官職位、古代エジプトの標準的な祈りの言葉が刻まれ、供物卓につくシェンドワの姿が描かれている。エジプト最高考古庁が2010年7月7日に発表した。

 偽扉は古代エジプトのすべての王朝の墓から発見されており、死者の世界と現世をつなぐものと考えられていた。「死者の魂はこの偽扉を通って自らの肉体に出入りするわけだ」とエジプト最高考古庁のカラー氏は話す。

Photograph courtesy Egypt Supreme Council of Antiquities

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エジプト古王国の墓発見:埋葬品

Andrew Bossone in Cairo
for National Geographic News
July 12, 2010

 エジプト第6王朝の高官シェンドワの埋葬室の偽扉の真下の地下6階に相当する深さにある通気孔にちらばる石灰岩製の壷(撮影日不明)。これらの壷には、鴨をかたどったものや、鴨の骨が入れられていたものもある。

 シェンドワのサルコファガス(棺=ひつぎ)は湿気と腐食によって形が崩れていたが、埋葬室には高さ30センチのオベリスク(写真奥)など、比較的保存状態のいい埋葬品がいくつか残っている。エジプト最高考古庁事務局長のザヒ・ハワス氏は、「このオベリスクは太陽神ラーの崇拝の象徴である」と述べている。

Photograph courtesy Egypt Supreme Council of Antiquities

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「今週の世界ふしぎ発見!」
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery_1.html

・・・肝心のプントの話がどこにもない。
 エジプト動乱のニュースで、ファラオのミイラ2体破壊、というのが報道されているのが気になります。
 死者の数が増えているので生きている人間の心配をしろ、と言われそうですが、文化財もまた、失うととりかえしがつかず代替もないんですよね。
カイロ博物館は、数千の有志の市民たちでも何とか守ろうとしているようですね。それにも関わらず、ミイラの破壊は大変残念ですけど、イラク博物館のような惨事にはならないと思いたいです。
 別のコミュで取り上げられていた記事なんですが、

http://wpb.shueisha.co.jp/2013/11/23/23228/

>そもそも飲精の歴史は古く、紀元前から行なわれていたと話すのは『歴史を彩った性豪セックス列伝』(アドレナライズ)の著者で歴史研究家の菊池美佳子氏だ。

>「ギリシャ神話のなかにも飲精をほのめかす表現がありますし、世界三大美女のひとりであるクレオパトラも飲精をしていたと考えられています。ピラミッドを造る労働者たちにフェラチオをし、精液を大量に飲んでいたからこその美肌だったのではないかといわれています」

 クレオパトラの時代に「ピラミッドを造る労働者」がいたというのは、すごい新発見だなと(笑)。
>>[61]
この菊池美佳子氏という方は、新王朝時代の王家の谷とかはピラミッドの集合体とでも思ってるんでしょうかねえ・・・。古代エジプトだけで何千年の歴史があることをすっ飛ばしている「歴史研究家」の本に読む価値を全く感じられないんですが。
>>[62]

 こういう人らしいです。

http://rocketnews24.com/author/mikako-kikuchi/
>>[63]
どこが「歴史研究者」なのかと(笑) いや、基本さえ押さえていれば経歴は全くどうでもいいんですが、明らかに間違ったこと書いて「〜といわれています」と一般論みたいに言う人の本は信用しないことにしています(笑)

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