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心の中の樹を抱く、花を愛ずるコミュの早春 苦しみの中から得た希望について、幸せについて、未来について

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早春 苦しみの中から得た希望について、未来について

あなたの人生訓、目指すものをかいてくださいね!

コメント(25)

ここから渡辺和子先生の
ご本の愛することは許されることからの抜粋。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は誰でも十字架と呼ぶものをいただいているものです。
いやな人、いやな仕事、苦しい人間関係、病気、自分の性格等。それから逃げないで、
それが存在することから目をそむけないで、その十字架を取り上げ、担って、主の後に従うこと、自我、プライド、怠け心といった「自分」を捨てて
ひたすら主の後に従う時、いつしか私たちの復活につながっていくのです。

神様は良い方です。十字架を担い通したものにいつかきっと
復活の喜びを味あわせてくれるのですから。

安楽な道を求めるよりも
強い人となることを求めしめたまえ
自分にふさわしい仕事よりも
与えられた仕事を果たすに
必要な力を求めしたまえ

・・・

ここまで。

神様は試練を与えるとき、それに打ち克つ力も添えてくれるところにある、それが神の愛。

クリスチャンでなくてもお解かりになるところがいっぱいあると思う。

人生には不幸とか憎しみとかないに越したことはないけど
あっても「それに打ち克つ力」は添えてくれると
信じたいし、そのうちかつ力は自分で得なければなりませんけど、それを信じたいです。
そのうちかつ力すら与えてくれるなら私の今も「打ち克つ力添えの試練」でしょうね。

・・・でも疲れてはならないって八木重吉さんの詩から

もありました。

 私たちは願います。

「何もかも許せる寛容な心や豊かな心がほしい」

でも実際は「○が許せない自分」も「結局自分が可愛い」自分もいます。


「なんといわれようと確固とした自分がほしい」

でも実際は「悪口を言われたり非難されたら尋常でない自分」もいます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実際そういう優しい人ほど苦しみます。何故神様のようになれないのだろう。

神様はたぶん、あなたは今はまだ、そのままでいいんですよ。と微笑み返してくれるでしょうが、それとともに
「あなたは今から、もっと豊かで清冽な心を持つ、そうなる力もあるかもしれないのですよ」

豊かで清冽な心を望む神様が、そういう「お心」を人間に「いきなり」与えない。これは大事なことではないでしょうか。

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「心貧しいものは幸いである」私は不思議でした。何故心豊かな人より貧しいものなのか?
貧しいもの、心が貧しいだけでなく「自分の心に欲望とか利己心とか渦巻き、なんと貧しい心だろうと嘆いている人たち」では
ないでしょうか。
それを自覚してる人、自分の心の貧しさを一番つらがってる人に「あなたはそういう心を持ってるとわかってるんですね」と
いうことで「幸い」とおっしゃったのではないでしょうか。

 その貧しい自分、貧しい自分の心、どろどろの自分の心を持ってる私たちだと謙遜すること、それでも愛してくださる神、、
そして少しでも自分の理想とするものに、心豊かなものに、許しあえるものに、近づこうと努力すること、それらを神は希望されています。

 48にしてやっと「自分はまだまだの心貧しき、いっぱいまだ惨めな心をもってるものだ」と悟ったあとは
少しでもゆっくりとゆっくりと謙虚になりながら、「自分に課せられた」道、心豊かになる道、許しあえ、愛し合えるものに
なろうと思っています。一生できないかもしれないと思いつつも、それでも。

 かといってすぐに挫折しますしすぐにできないことも解かりますが。ここで歩みを止めずにいきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  でも本当に・・また戻しますが「私にとって、あること」を本当意心から許すことはできるでしょうか。少なくともその人へ
いじわるとか悪口は言わない自分となりました。
 ただ憎しみは渦巻いています。それはどの方にもあるでしょう。

 距離を置くことにしています。そっと・・・その「ゆるしがたいこと」いいかえれば「他人の支配下」に自分をおくことは
すっぱり断ち切りたいから。


人と人との間をうつくしくみよう。
私と人との間をうつくしく見よう。疲れてはならない(八木重吉)

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  まだわたしは「弱い」です。

 こういう私の「わだかまる」「渦巻く心。あることに対しても許せない心、いっぱい醜いことをとめてる
私の心」があるということを認めること、それでも、その小さな花である私すら、いっぱい傷を心にためながらも
「われは咲くなり」醜い土まみれの地面から咲いています、それでも咲いています。弱い、醜さをもった私でも
神様は咲かせてくれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 少しはいろいろな事柄に対し、謙虚になったでしょうか。そして少しは「ほかのかたがた」に対し
暖かな、ほほえみを出せる人間になれるでしょうか。

そして絶え間ない「自分との戦い」もできるでしょうか?

 また許すということに戻ると、いくら頭ではわかっててもわずかにある「わだかまり」、それを消して心から許すということが
私には一生の課題として神様はお与えくださったと感謝しないといけないのかもしれません。

人生って思うようになったり賞賛されることのほうが少ないんですね。大人といわれる年は。

自分に余裕があるときは人に優しくなれますし人を思いやれます。ただ・・逆境。
あんなにがんばっても成果が出ない、逆にぼろぼろになった自分、がんばったのに誠意を尽くしたのに・・
「あんたなんか信用できない」といわれた自分。世界で一番惨めだと思った自分がいます。

せめて「ぎりぎりでもいい」自分を信じてあげることができるひと。

かっこいい成功、かっこいい結果なら
「自分を信じてよかった」になりますが・・

かっこ悪い自分でも続ける。これがいちばん自分を
信じるということもつながるかもしれません。

自分を信じてやってよかったという言葉を聴きます。成功したり,勝ったり、みかえりをうけたとき
「自分を信じてよかった」というのはたやすいのです。
しかし自分を信じてしてみた結果が成果に出ることは人生では少ないことが多いです。信じても結果が
ぼろぼろになっても、成功しなくても、病気になっても、金銭的な見返りがなくても、がんばれなくても
心を傷つけられても、馬鹿にされても、しかられたり、「あなたなんか信じられない」といわれることの
方がおおいかもしれません。

何も自分の思うようにならないときもある。それでも自己を「ぎりぎり」否定しない「勇気」。
それが真に自分を信じるということなのでは?

思うようになること自体、人生では少ないのです。

それでも、唯一神様からあたえられた、贈られたものが希望ですし、勇気をもってぼろぼろの自分を信じるということでしょうか。

人生がうまく流れてるときは自分を信じることはわりにたやすいのです。
人から信じられる人と評価されたとき自分を信じれるといえることはたやすいのです。

問題は流れに逆らってしまったとき。
人に誠意を尽くしても「信じられない人」と非難されたときです。

それでも自分をぎりぎりでもいいから保つものが信じることではないでしょうか。

せめてぎりぎりで自分を信じ、せめてぎりぎりで切れない、
せめてぎりぎりで愛する・・その鍛錬なんでしょう。

そうすることで『相手に対しても」やさしくなれます。

50歳近い私ですが、毎日その繰り返しなんです。

ぎりぎりでも踏ん張る。 いろいろな仕事、立場、ぎりぎりに神経を張り詰めるときもある、泣く前のぎりぎりにつらいこともある。
それでも「ぎりぎり、人前で泣かない」 どんなにつらいことをいえれても「ぎりぎり。言い返さない」 悪口を言いたいけど「ぎりぎり言わない」
その短い一瞬の鍛錬を続けています、感情を大爆発させない、しずかに、しかし強くぎりぎり踏みとどまり、そしてさっといやな感情を後ろに行かせる練習を。
6年前か7年前この家に引っ越してきた時は樹木も小さかった。
水脈に届かずすぐ枯れていくので水遣りが大変でした。


今年少々水をやらなくても枯れなくなっています。水脈に根がたどり着き、やっと自分で
水を吸い取りはじめたからでしょうか。

私は樹が好きです。

こういうまっすぐに天をあおぐ樹になりたいから。

一旦水脈にたどり着けた樹はめったに枯れません。

こういった水脈にたどり着けるまで、かなり時間を要して水を与え続けました。今年からほうっておいても
樹は自分で水を地面の下の水路(水脈)から取り出し行き続けています。

人間に似ています。私もそうなりたいのです。

私も今まだ生きてる、こうして人生の真実を書いた本を読める気持ち。けして自己を隠さず、医療を続けてる自分がいる。

正直にありのままに話すことができる。

やっと一本の樹になれたかもしれないですね。 48年かかり。でもまだひ弱い。

48年間、嘘といっても人生を隠しまわる嘘をつかずに生きてこれたこと。

でも時々風にあおられることもあります。動揺することもあります。でも立っています。
私はいつも風であおられ動揺しています。

でも・・・まっすぐに生きた樹は水脈にたどり着けます。

愛という水を何年も何年も与えたら・・与えられて、自分も自分に与えて。

そしてまっすぐに伸びていくけど葉は広がり、葉陰も作れます。みんなその葉陰で横になれます。
その人たちを優しい目で見ることができます。

ただまっすぐに伸びるまでは「愛という名の」水を与え続けなければならない。でも・・いつかは
ようやく水脈にたどり着けます。それからまた自力で伸びることもできますよ。 と言い聞かせています。

多少の風に耐えれるくっきりとしたものになれますよ。

大きな木を写真として出してるのも私は一本の水脈にたどり着け、そしてまだ伸びて、あるいは木陰をいっぱい作れる
木になりたいから。
いままでの私のエッセイや文を書きました、これからはフリートークで書いてくださいね! こう生きたいという希望について、でも難しく考えず、愚痴も一杯ね!!
自分の悩みを書くのもよし、自分の考えについて書くのもよし、アドバイスもよし。少々トピと
はみ出しててもいいですから・・ね!!
ふしぎだ

あんなに許しがたい人とのことでも

今は不思議に傷がふわりと包まれてきたような気がする。

4年前もうだめだと思ったのに。もう心の中での瀕死と思ったのに・・

私はここにいる。傷を受けながら、それでもたってる。こころの傷は太陽にさらされてもひりひりしなくなってる。

神様、ありがとう。冬から春になった気持ちだった。今日・・
泉がある。家の前に。

その泉、水源地にはたくさん人が来て泥のついた野菜や家の網戸を洗ってる。

それなのに水は汚れていない。そこから出て行く水も川として出ていくが汚れたない。

泉はもしかして、そういう泥のついた野菜が中に入っても
泉を汚すかもしれないけど、拒否しないで水をもっと
出すのかもしれない。

水を汚すはずの土のついた野菜、それなのに野菜を洗う人のために、あえて泉は
水を少しだけ増やしてるのかもしれない。


泉は、自らを綺麗にするなどは「これっぽちも考えていない」

そのまま、大根のために、洗う人のために、土を流すことを手伝うために水を増やし
水流を変えてるのかもしれない。けして「自分のためでなく大根のために。野菜のために」


だから土が流れ、泉が綺麗なままなのかもしれない。

泉の水は愛に似てる。

泉はけしておのれを綺麗にするために水流を増やすなんて思ってないだろう。

泉を汚しにくる野菜や大根や
網戸のために水流を増やすだけだろう。

それで、たまたまその結果、泉に土が残らないから綺麗なのかもしれない。

泉は何も思ってない。洗いに来る人のために水かさを増やすことしか思ってない。泉は自分を綺麗にするなんてぜんぜん思ってない、
夜も普通に流れてるだけ。

人が来て洗うとき、水を増やして洗いやすいようにしようと思ってくれてるだけ。
それで自分が綺麗になってる・・・でもそれすら気がついてない。
ただ人が来て野菜を洗うときにこにこしてるだけ、愛という水かさを増やそうとしてるだけ。


将来あなたはどういう気持ち、心になりたいかというのを御題にしましょうか?

豊かな心、優しい気持ち・・・どういう人になりたいでしょうか・
ありがとうございます。杏さん、まさに樹の名前ですね。
杏は大好きです。

逃げたいのは誰でも同じかもしれないけど、立ち向かうことも疲れかといって
逃げるのも疲れた時、それを自分の運命として受け止めていくという覚悟と
勇気があればすらっと「戦った」気持ちも無くなる、すらっと風に流れる気がするんですね。


よく相手を幸せにしたいといいます。

自分の幸せや人の幸福ってなんでしょうね・?

相手が幸せというのはあくまで「相手という別の人格」ですね。気持ちを幸せに
出来るか判断できるかは立ち入れない別人格です。

ただ最低いえること。

1、見返りを求めないこと、自分が相手を幸せにしたいと思ってしたことでも
相手にとってはおせっかいとか、甘い!とか言われます。でも「それにもかかわらず」する何かがある。評価するかしないか、幸せになるかどうかはその別人格ということ。
2、醒めた目、覚めた目。厳しいけどその好意と行為でもまったく逆に「あなたのおかげでいい迷惑!」
もありうる、それでも「どうしてだろうか」といったん醒めた目でみても
やけにならないこと。
3、本当は人をしあわせにしたとき、その自分が誰かわからないまま幸せにできるのが一番なんでしょうね。幸せにする気がないのに誰かを幸せにしてしまったりします。・・野の花のように。
4、持続すること。
5、最低どういうことであっても「自分がされて嫌なことをしない」

そして最後に疲れない程度ということ。


私の古傷を作った憎むべき人とあわなければなりませんでした。

場所でも微笑みさえうかべてた私でした・・・

口はひと言も聞かず。でも・・・相手が小さく見えた。そちらに笑顔は浮かべず。

不思議です。好きではないけど、この人のために運命が変わったけど
変わらされた運命でも自分で昇華していかなければならない覚悟が
出来た今だからでしょうか。

過去は変えられない。傷も変えられないのですが。
ある意味で残虐で人のこころを考えるということすらしない、
一方的な人たちでした。
あのときこうしてても「変えられない人も運命も」あるんです。

それを受け入れるのすら苦痛であったけど。あのときこうしてても
どうしようもなかったと悟ったとき、これは今からこれから「私」が
どうするかだったろうと思います。


受け入れ、そして受け入れ泣き寝入りするでなく、どうしたらいいか
運命が変わらないならどうしたらいいか・・でしょうか。

人の心と、運命はこれからも変わらないけど自分は変わります。
冬至は寂しい。でも今日から1日1日日が長くなります。
その前の一瞬にただ心をこめるだけの道。人生って。
そうすれば自然と微笑みが出てくる。
前に石ころがあればよけてもいい。缶が捨ててあれば拾う。
人にあったら挨拶する。
今年49歳、ダンナは50歳。娘たちは24と14になる・・・
長女は結婚するかもしれない・・・な。

自分も好きなことをする、ただ人の迷惑になってはいけない。
水泳を毎日続け、休日は着物を着る。
自分を忘れて一瞬うつくしい「なにか」をする。
ふとあなたの横にあなたがいる・・
あなたはあなたのことを考えていない。
でも横のあなたは、あなたのことを見守ってくれる。

でもあなたはそれに気がつかない。
心も気持も動じても当たり前。

目のまえに何も見えない、何もないと嘆きたいとき
不安でたまらないとき・・
動じるのがあたりまえ。
小さな光にでも、小さな物音でも・・

道の前に何もみえない・・動じそうだ。そんな悲しいときは
ただ足元だけを見る。 足元だけを確かめる。気持を一瞬にこめる。あなたの足跡と足元の。感触だけに。

今は夜道だから、暗いから、危ないから・・・と言い聞かせ。
ただ、自分が歩く足もとだけをみて、転ばないように確かめる。
それでも、一歩ずつ歩く。

心は何でも動じてもいい。しかし足元だけは動じないでほしい。
窓の外に木々がある。秋紅葉して冬すべて葉を落とし・・そしてまた緑になる。
ありがとうといわれたいときは誰でもある。
ありがとう、という言葉を期待してても「ありがとう」ということばを
かけられるときは、「有り難い」のだ。
ありがとうといわれないとき、つらくなる。


自分は何かができるところにいたんだ、何かできたのだ、人のために
何かできる立場にいたのだ、その立場、そのできた自分に「ありがとう」と
いってごらんなさい。

あなたの周りにありがとうといってみたらどうでしょうか。

(ずっとこうやって人生を49年生きてきたものより・・

はじめからありがとうといわれることを期待しないまま生きている小さな人間より・・)

気のもちようだ、気がせいて、気にしない・・・などいわれるけど
「気」って自分の中にあるんだろうか?

同じようにどの人にも種類が違っても「風のように」気が入ってくるんじゃ
ないかしら?

その気を心の押入れに溜め込みすぎると「気にしすぎる」。

じゃあ、気にすまいと、自分にいやな風が入ってくるなと思って
窓を閉めすぎると、「気に留めなさ過ぎる」

その気をあまりにも軽く受け流そうとがんばりすぎるとかえってしんどい。

本当は気が入ってきても入らなくても、その気が強くても、澄んでても
にごっていても、その場で「この気はいい気、この気はいやな気」と
がんばって分別しないで、ふわっと入れることができたら・・

そして、とどまる気でも、たとえいやな気がとどまってても「今に出て行くわ」とあせらず、そのままにして、そして、ふわっと流せたらどんなにいいだろう・・
私は人には何もできないけど・・・その滞るいやな気を持ってる人に
ここに風穴があるよとヒントを与えれる暖かな人になりたい。

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