ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

目覚めのコーラが死ぬほど好き。コミュのペプシの歴史。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
あなたもペプシ博士ですねー(^ω^)


 ペプシコーラは1898年にアメリカ・ノースカロライナ州の薬剤師キャレブ・ブラッドハムにより考案された。当初は消化不良の治療薬として作られ、"Brad's Drink"(ブラッドの飲料)と呼ばれ、彼の薬局を訪れるお客に好評を博した。ブラッドハムはこの飲料をコーラナッツのコーラと消化酵素のペプシンから「ペプシコーラ」と名付けた。
 1902年にブラッドハムはペプシコーラ・カンパニーを設立し、本格的な販売を開始した。1908年には全米200のボトラーと契約を結ぶことができたが、第一次世界大戦が終わると、生産コストの上昇のため、ブラッドハムはペプシコーラの商標を売却せざるを得なかった。その後15年位はオーナーが度々変わる、不遇な時代をペプシは過ごした。 その後、1930年代の大恐慌の時代にソフトドリンクは6オンスを5セントで売るのが普通であったが、ペプシは12オンスを5セントで販売したり、当時では珍しかったラジオCMを大々的に行った結果、売上を伸ばすことができた。
 1948年にペプシコーラはニューヨークに本社を移した。社長のアルフレッド・スティールは妻で大女優のジョアン・クロフォードと精力的な宣伝活動を行い、ペプシコーラは5セントの安コーラというイメージを払拭し、明るくさわやかなドリンクへペプシコーラのイメージを変えることができた。
 1954年には海外部門を設立し、海外市場に進出した。1959年には当時のアメリカ副大統領ニクソンがソビエトの首相フルシチョフにペプシコーラのサンプルを送り、味見をさせてしまうことに成功した。ペプシコーラはその年に開催された世界博覧会のヒット商品となり、1973年にはソビエト国内で生産される初めてのアメリカの消費者商品となった。
 1963年にはベビーブームの時代に産まれた若者たちを"PEPSI Generation"と名付け、キヤンペーンを展開し、未来に向かっていく若者をペプシの象徴とした。1975年にはブランド名を隠した味覚調査を行った結果、ペプシコーラがコカ・コーラよりも高いスコアをとることが確認され、消費者にペプシコーラとコカ・コーラを試飲してもらい、どちらが好きか選んでもらう様子をそのままTVCFにする「ペプシ・チャレンジ」キャンペーンを実施し、大きな反響を呼んだ。そして1977年、ペプシはついにスーパーマーケットやコンビニエンスストア等消費者が自分でブランドを選べる市場でコカ・コーラを追い抜くことに成功した。1992年には新キャンペーン"New Challenge"を開始し、透明コーラ「クリスタルペプシ」を発売した。この商品はアメリカにおける透明商品ブームの鏑矢となった。
 ペプシが日本に進出したのは1959年(昭和34年)であるが、契約ボトラーがコカ・コーラに比べ弱体であったため、シェアを伸ばすことができなかった。その後、日本は米国ペプシコ社の直轄地域となっていたが、1998年からはサントリーとライセンス契約、サントリーの自販機網で販売されることとなり、現在に至っている。

コメント(3)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

目覚めのコーラが死ぬほど好き。 更新情報

目覚めのコーラが死ぬほど好き。のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング