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『本道樂』コミュの双街

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コメント(26)

遊女の心中

 静岡市大岩臨済寺の西方、墓地への入り口左手の一角に、鴛鴦塚と記された墓石がある。この塚の由来も今日では知る人は少ないが、これには二丁町の遊女となじみ客との悲恋物語がある。
 明治四年六月四日早朝のこと、臨済寺に修行のため寄食していた己三郎という若者が、村方の名主源蔵方に用事があって出向いた帰り、若い男女が折り重なって倒れているのを発見した。近よって見るとあたりは血だらけで、二人はすでに死んでおり大騒ぎになった。役人が来て調べたところ、男が女を刺し、自分ものどを突いて死んでいた。そして次のような遺書と二円の回向料が添えてあった。
 『乍恐以書御当寺御住主様へ奉申上侯。然る処私共両人の儀は、二丁町小松屋方より欠落者に御座侯へども、全く私共儀この世界にて夫婦に相成侯心中は聊無之侯。何卒御情深き御寺様の御執成にあずかり、行末とも我らなきがら一所に埋められ、たった一ぺんの御回向受けたく、それのみ心を尽しおり候処、段々様子承り侯へば、御当寺の御住主様こそ御情ある御人さまと承り侯間、甚だ申訳なき儀に侯へ共、態々是迄罷り出で申侯。然る上は御住主様の御取計にて、如何ようの御執成に相成侯とも、少しも苦しからず侯。然ればふびんな者と思召し必ず共に御見捨てなく、何卒一所に埋め下され侯はば一入うれしく存候。先は陰ながら御礼緩々申上度如斯に御座侯。
      恐惶謹言    岩本和三郎
 咲き初めて はや散り初むる 桜かな
 散る花や 見ている内も ひと昔   春雄
 尚々申上侯。私方名所相記し申さず候へ共、手前方より書状遺し置侯間、今日の内には様子相分り申す可く候』
 この遺書にある通り、手紙を見て驚いた身内の者が駆けつけたので、その日のうちに身許が判明した。男は江尻入江町南小路の菓子屋忠八方の婿の和三郎という若者で、女は二丁町小松屋七兵衛抱えの薄雲という遊女であった。二人は深い仲であったが、女には莫大な借金があり、男も婿の身であったので、到底この世で添えぬ身をはかなんでの情死であった。
 当時、臨済寺の住職は、今川貞山和尚で有名な学僧であった。和尚は自分にすがり、寺の門前で情死した二人にいたく同情して、遺体に高野山から受けておいた帷子(かたびら)を着せ、施餓鬼経文と観音菩薩の像を頭陀袋に入れて、二人の首にかけ、大桶へ一緒に入れて葬ってやった。そして六月十日に施餓鬼法会を行ない、鴛鴦塚を建てたのである。
 この情死は、当時大変な評判になったが、それはそのころ臨済寺の南方富春院に寄寓していた漢学者で、静岡学問所の一等教授であった中村敬宇が、この情死を憐んで「情死論」なる一文を作り六月十日の施餓鬼法会に、貞山和尚が朗読したりしたことによるのである。
 情死論は次のようなものである。原文は漢文だが読み下して紹介しよう。
 『辛未六月四日暁、墻外人絡繹として絶へず。之を詢(と)へば曰く、臨済寺門前男女二人情死すと。余之を聞き愴を感じ覚えず涙下す。家人往きて観、還りて報じて曰く、男子年二十二、三才なるべく、女子は二十七、八なるべし。衣服皆美好なり。刀衣外に見はれ、流血淋漓たり。女子の帯褶門欄の上に在りと。死時の従客の状を知るに足れり。之に感じて情死論を作る』
 こうした前文があって、本文に入るのであるが、女が帯や着物を門の欄干にかけてあったのは、楼主のものを汚さない心遣いであろう。
 『情死を愚かと謂うか、未だ然らざるなり。六合(りくごう)これ情の世界、父子の親、君臣の義も亦是情の字の別名なり。夫れ情死のこと万止むを得ざるに出づ。何を万止むを得ざると謂うか。男女偶々相愛す。愛すれば則ち穀(い)きて室を同じくし、死して穴を同じくせんことを思う。之を求めて得ざれば則ち相思纒綿の念、瞬息も忘る能はず。普ねく天下の男子を観るに皆此一人の男子に敵せず。普く天下の女子を観るに、皆此一人の女子に敵せず。淡然之を忘れんと欲して転(うたた)恋慕切なり。自らその意を回(かわ)さんと欲して、痴愛滋々(いよいよ)熾(さかん)なり。自から痴愛たるを知ると雖も、自から出離する能わず。此の如きは情の真摯たるものなり。情の真摯かく如く、而して他人に妨礙せられ、儷(そろ)って夫婦となるを得ざれば、則ちその相思一生纒綿として解けず、死して悵惶の鬼とならんよりは、相ともに情死して速に魂魄相依らんとするにしかざるなり。これ万止むを得ざるに非ずして何ぞ。凡そ情深からざる者は一に主たらず、一に主たらざる故万止むを得ざる事のなし。情の深き者は則ち必ず一に主たり。一に主たる故に心を回(かわ)すこと能はず。意変ずること能はず。万止むを得ざるの事ありて死に至るなり。この情死の夫婦の如き宜しくその情を察すべくして、之を悼む可きなり。或は曰はんこれ未だ夫婦たらず、子何ぞ夫婦をもって之を目するかと。余曰く、世に夫婦となりて相親愛せざる者あり、反目する者あり、姦淫する者あり。此の如き輩は百年夫婦となると雖も、未だこの二人の死時の情、真に愛深きに若(し)かざるなり。名づけて夫婦と曰ふ、何ぞ不可ならん』
 貞山和尚はこれを朗読して「春鴦一夢結雌雄 比翼連理永遠旅」の偈を手向けている。
 なお施餓鬼法会修行の翌十一日の夜、同寺の副司智堂和尚の蚊帳の中へ、白地の法衣の男と白装束の女が入って来て「だんだん格別の御世話に預かり有難く、殊に御施餓鬼までとり行って下され、厚く御礼申上げます」と小声でいうので、副司は驚いて施餓鬼の経文一遍を読むと、頭をたれて闇の中に消えて行ったという話が伝わっているが、これはおまけであろう。
 墓は今日では、両替町四丁目の福井という家の墓地の中にはいっているが、一?近い角石で三段の台石に乗っている。正面中央に「鴛鴦塚」その両脇に「明治四辛未年」「六月四日相対死」と刻まれている。一方の側面には「花月春雄信士江尻入江町岩本和三郎」「心月薄雲信女静岡二丁街小松屋内遊女薄雲」と刻まれ、他方には「咲き初めて はや散りかかる 桜かな」「散る花や見ているうちも ひと昔」と辞世の句が刻んである。
 だが側面の、心月薄雲信女の心の字や、散る花や……の散る字は読み取れないほど欠けている。これはこの墓がたってしばらくの間、この墓石を欠いて持っていると、思う人と一緒になれるといわれて、次郎長の墓が博徒たちに欠かれたように若い人たちに盛んに欠かれたためだという。
 和三郎は誰についたか不明だが、春雄といって俳句をやり、当時の文学青年だったわけである。文才のある青年が菓子屋へ養子にやられ、自分の志をのばすこともできず、厭世のはてなじみの女と情死したのであろう。貞山和尚や敬宇を動かしたのも彼の遺書ではなかったかと私は思う。福井家は和三郎の実家で入江町追分から静岡市両替町四丁目に移って、現在もねんごろにこの塚を供養していると聞いた。

『ふるさと百話 第二巻』所収
太陰暦から太陽暦に改暦になったのは、明治6年からです。なのでこの時はまだ太陰暦ですね。

変換してみますと、太陽暦では7月21日(金)でした。初夏の話だったんですね。
いや、明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日(ここから太陽暦)となりましたので、同じ日が2度と来たということはありませんでした。ただ、明治5年12月がたった2日間で終わりになってしまったので、当時の商売ではよくあった掛売り(普通代金は年末支払い)の回収が間に合わず、1年引き伸ばしになって喜んだ人と泣いた人がいたとかなんとか。
むう、はたして弥一が記述した6月4日が太陽暦か太陰暦か?
>はたして弥一が記述した6月4日が太陽暦か太陰暦か?
太陰暦でしょう。同年に書かれた敬宇の「情死論」で「辛未六月四日暁…」と言っている事からみても、間違いないかと。
こういう日付の情報は旧暦と西洋暦(太陽暦)を併記してもらいたいです。
>ラカさん

いまぐらさんが来店し、二丁町文書の話しをしていたところ、愚生が2点落札していたことが判明しました(笑)
はい大丈夫、存じております。昨夏のうちに、貪欲にも小生が買取らせていただきました(苦笑)
あれ?ぐらぼんさんのところに1点まぎれこみませんでしたか?
ええと全部で9点のうち、夕顔さん2点、ぐらぼんさん2点、小生5点を落札しました。それで夕顔さんの2点を買い取りましたので、現在はぐらぼんさんのところに2点、残りは小生が持っている状態です。
するとぐらさんが見たことのない文書が1点混じっているというのは全くの錯覚???
おそらく。報告書の通りで大丈夫ですよ。
分厚いのとは???それは茶一件のだと思います。
増田屋史料でぐらぼんさんの手許にあるのは、冊子1点と一紙もの1点ではありませんか?
あ、了解しました。私が把握しているのと同じのようです。

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