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【東北限定】あなたの町の郷土史コミュの【東北】の神社・仏閣【岩手】

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皆さん、こんにちは。
管理人のけいちゃんです。
このトピックのテーマは【東北】の神社・仏閣【岩手】」です。
あなたが知っているあるいは調べた」について、写真や図案を交えながら、自由に記述してください。

コメント(8)

民話のふるさと遠野の大出に伝わる『早池峰神社・早池峰山妙泉寺』

遠野の附馬牛の大出に早池峰神社があります。
毎年、7月の中旬には、例大祭が開催されます。
例大祭での目玉は、早池峰神楽の奉納です。
昔の日本人にとってお祭りは、ハレ=非常に対するケ=非日常の場として、重要な意味があったと聞いております。
そして、古事記や日本書紀、伝説を伝えてきた1200年間続いてきたとされるのが神楽です。
遠野は、アイヌの時代からの早池峰山の信仰の地でした。
支配が倭人=朝廷に落ちてからも、この地は山岳信仰の地として重要視されてきたようです。
その後、806年にお堂が建てられ、現在の地に早池峰山妙泉寺という天台宗の宮寺になりました。
その後、真言宗のお寺になり、阿曾沼一族の南北朝時代までの400年に歴史を経て、八戸から来た遠野南部一族の支配の歴史を経て、1200年に渡って信仰されてきました。
早池峰神社は、本来神社と寺の機能を共有した「神仏混淆」の寺院です。
ところが、その後、明治政府によって「神仏分離令」が出された際、神社としての道を選択し、その後、「廃仏稀釈」令によって寺院としての痕跡が失われてしまいました。
その後は、早池峰神社として信仰されてきました。
また、この早池峰神社は、これ以外にも主なもので、大迫町と川井村を始めとしていくつかあります。
この早池峰神社は、遠野市の附馬牛町と山の中に入っていった早池峰山の麓の大出という地にあります。
神門、拝殿、本殿と連なる建物は、いずれも屋根が茅葺で、遠野の古民家の様相を反映したつくりです。
まず、神門を入るとそこは長いアプローチ空間になります。
大きな杉の木が立ち並ぶ幻想的空間です。
そして、本宮の前には、拝殿があり、そこを抜けると本殿があり、山頂の奥宮と真北を上として一直線につながり、延長上に早池峰山の頂がそびえ、北斗七星が輝いているのです。
神楽は、本殿の下に位置している拝殿で行われます。
拝殿は、東西2つに分けられていて、中心が通路になっていて、そこは普段は、神門と本殿をつなぐ通路です。
しかし、神楽が奉納される時は、渡り廊下となり、西側が楽屋で北側が客席として、渡り廊下で神楽が奉納されるのです。
この神楽は、楽器が太鼓、笛、手平鐘の3つ、それに踊りと歌が加わった構成となっています。
まず、お囃子が始まると、西側の楽屋の幕から踊り手が飛び出るところから神楽は始まります。
お囃子は、2拍子、4拍子、5拍子、6拍子、7拍子と演題によってリズムが多彩です。
とくに、7拍子の神楽というのは大出独特の様相ようです。
踊り手は、鳥兜という被りものや面を被り、袴をまとって踊ります。
踊る空間構成は、前や後ろという概念ではなく、東西南北という概念で起承転結の物語りとして演じます。
この神楽の演奏や踊りの基本には、演題によっていくつかのパターンの組み合わせの構成になっているようです。
この神楽の演奏や踊りには即興性は、まったくなく、演技を正確に伝えるものでした。
「天台宗山門派の開祖、慈覚大師円仁が安置したという『遠野七観音』」

 約1,300年前、斉衛年間(854〜856)早池峰妙泉寺とほぼ同じくして、天台宗山門派の開祖、慈覚大師円仁が当地を訪れ、一本の桂の木から七体の観音像を自ら彫刻し七箇所に安置したという創建伝承が残されています。
一番 山谷観音(大慈山長福寺)
二番 松崎観音(麦沢山松崎寺)
三番 平倉観音(谷行山細山寺)
四番 鞍迫観音(鞍迫山福滝寺)
五番 宮守観音(月見山平沢寺)
六番 山崎観音(大月山栃内寺)
七番 笹谷観音(附馬牛山長洞寺)
 その七観音のひとつが、遠野市松崎町松崎にある松崎観音です。
 松崎観音は、寛政13年、松田理右衛門の由緒書きによれば、阿曽沼時代、時の領主より寺領一石をいただき、その信仰の一端を担っていたとも伝えられています。
 創草は大同2年(807)とも、嘉祥4年(851)とも伝えられ慈覚大師が刻んだ七体の観音のうちの一体を安置したと伝えられています。
 御堂は何度か火災に見舞われ、現堂宇は江戸期享保年間の再建で本尊十一面観音は元禄年間の野火で焼失、現存の尊像は古代以来の立木仏を彷彿させる十一面観音像であるが、背面に慶長11年(1606)の銘文があります。
さて、奈良時代に遣唐使として長安に行った最澄が、その後創立した天台宗は、日本全国に天台宗の教えの普及活動を展開しました。
 都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった慈覚大師円仁がいました。
 慈覚大師円仁によって、開祖(または中興)とされる寺が数多くあります。
 福島県伊達郡の霊山寺、松島の瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺、立石寺のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いています。
 慈覚大師は、天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出ました。
 この際、遠野をおとずれ、遠野七観音を安置したと言われているのです。
 遠野七観音は、仏教的内容と共に山岳信仰の要素が習合したいわば神仏混合であり早池峰山妙泉寺との縁も考えられます。
 天台宗の寺として機能し、さらに当時の人々を懐柔するひとつの政策とも受け取られ、鎌倉時代、遠野領主となった阿曽沼氏、その代官宇夫方氏等、遠野各地に配され配下の領主達にもその信仰は利用、保護、援助をうけてそれなりに隆盛はあったものと推測されます。
 しかし、その後、鎌倉末期以後は新たな仏教宗派の布教が広まるにつれ、領主達の援助等は徐々に衰退し、戦国期になるとそのほとんどが荒廃したのではないでしょうか。
 各地の七観音もほとんど荒廃し、江戸時代になって民衆の信仰として復活という過程と思われます。
「釜石のお寺『天台宗寺門派 大天山 観音寺』」

釜石には、天台宗寺門派 大天山 観音寺というお寺があります。そこには、同じ敷地に天台宗寺門派 広厳山 医王寺があります。天台宗寺門派 大天山 観音寺は、大正5年に今の地に移転し、中妻町板ヶ沢の地は、現・釜石製鉄所楽山荘となっております。
 さて、この天台宗寺門派とは、滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有する三井寺(みいでら)は正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)を本山とします。天台宗は、貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入り、この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
 この天台宗寺門派 大天山 観音寺には、全国的に名を知られた3人の住職が居られました。 “敬天律師和尚”と “仙岳堂鳳山和尚”と “板沢武雄和尚”です。 
 “敬天律師和尚”は、江戸時代後期の復古天台四侍者のひとりであり、釜石に帰郷後は、廃絶になっていた天台宗寺門派 広厳山 医王寺を再建し、医王寺敷地内で生き往生した和尚でした。敬天は、幼くして親と死別し祖母に育てられました。敬天は、14歳のとき、天台宗寺門派の総本山・園城寺(三井寺)に上がり、28年間に間も難行苦行をし、師匠は、天台宗“中興の素”だった“敬光”でした。当時、天台宗は、教義をめぐって“安楽騒動”という大論争をしていました。敬天は、復古天台四侍者と言われた、日本仏教史に名をのこした人でした。しかし、師敬光が園城寺を後にたし際に、釜石に帰郷しました。帰郷した敬天は、天台宗寺門派 広厳山 医王寺を再建します。その敬天は、近江八景になぞらえて、江戸後期の釜石の美景を“釜石八景”を選びました。敬天は、常に不浄観を念じていましたが、37日間入管して文化14年(1818年)に生き往生した和尚でした。
 天台宗寺門派 大天山 観音寺の第14世の仙岳堂鳳山(せんがくどうほうざん)は、奥州でも有名な書家でした。仙岳堂鳳山は、京都の聖護院などで、勉学・修行をして、書を極めました。奥州の書の大過の鳳山は、南部藩のお寺・観音寺の住職ですが、お隣の伊達藩からもひいきにされていました。伊達家の姫が病気になり、その祈願として塩釜神社に大幟を奉納する際、大幟に筆を下ろす大過が見つからず、鳳山に依頼したことがありました。その大幟を奉納後。姫の病気が治ったことから、伊達家は、お礼として庭師を釜石に派遣したのでした。庭師は、観音寺があった中妻町板ヶ沢の地に庭を造作したのでした。その後、この観音寺は、大正5年に落山荘として製鉄所所有となりました。今でも釜石の旧家では、鳳山の書が数多く残っていると言います。
 “かわりゆく我ふる里のふるごとを 伝えおかねばや後の世のため” 薬師公園の石に刻まれたこの短歌は、観音寺18世住職であった板沢武雄和尚のものです。板沢武雄は、明治28年1月5日に、釜石町中妻・板の沢の観音寺で生まれました。釜石尋常高等小学校を2年から4年に進級するくらい優秀でした。その後、県立遠野中学校に入学し、人類学者の伊能嘉矩に学びます。そして、仙台の第二高等学校を経て、大正5年に、東京帝国大学文科大学史学科に進学します。卒業後、宮内省図書館に勤務後、学習院の講師になり、この間、東京帝国大学大学院にも学び、学習院の教授なります。蘭学史に関する研究重ね、日本歴史学会会員としても活躍しました。その後、東京帝国大学文学部や日本大学文学部の講師や教授をします。また、板沢武雄は、昭和天皇の「日本史」の先生だったといいます。昭和20年に日本は敗戦します。しかし、GHQの政策の中で、板沢武雄は、教職追放され、郷土釜石に帰ってきます。この時期、釜石には、レットパージで故郷に帰ってきたきたジャーナリストが居ました。後に、共産党釜石市長となった、鈴木東民です。その板沢武雄は、観音寺18世住職になりました。釜石では、観音寺の復興他に、郷土史研究に力を入れ、『観音寺土曜会』を主宰し、若者を中心に日本史講座を開催し、『釜石郷土文化資料』を刊行し、『釜石市誌・史料編』を第3巻まで刊行します。その後、昭和26年に教職追放が解かれ、法政大学文学部教授に就任し、日本歴史地理学会会長となります。板沢武雄は、昭和37年7月15日に、東京・杉並区の自宅で生涯を閉じます。
 天台宗寺門派 大天山 観音寺は、今では檀家も少ない小さなお寺でが、釜石の歴史にとって忘れられない軌跡を残したお寺です。
「釜石のお寺『曹洞宗 釜石山 正福寺』」

岩手県釜石市の国道283号線を海から松倉まで西の方向へ入ると曹洞宗 釜石山 正福寺があります。
曹洞宗 釜石山 正福寺は、旧甲子村の宿場のあった甲子町にある曹洞宗の寺院です。
大本山は、福井県の吉祥院永平寺です。
お寺の本尊は、釈迦牟尼如来。
本家寺は、遠野青笹の喜清院で天正8年(1580年)に野田家4代目の佐々木豊前氏が草庵を開き開基者になり、鳳山魔彩大和尚が開山師となって開山しました。
遠野青笹の喜清院の本家寺は、河童寺で有名な遠野土淵の常楽寺で、遠野の曹洞宗のお寺は、ここからの分家のお寺が多いようです。
遠野土淵の常楽寺の本家寺は、大東町の亀峰山 長泉寺で、永保2年(1075年)の開基のお寺で、後に回教して曹洞宗のお寺になりました。
そして、この大東町の亀峰山 長泉寺の本家寺が、大本山の福井県吉祥院永平寺です。
開基者の佐々木豊前氏は、慶長2年(1597年)に亡くなるのですが、その後30年間は、無住職が続いたようです。
野田家は、釜石の旧家として有名な家柄で、最初佐々木を名のっておりましたが、のちに、野田を名のるのです。
野田家6代の野田又四郎氏は、元和元年(1653年)の大阪落城の岐路で、大東町の仙台長水寺より庵号を頂、草庵を正福庵と名のり、遠野青笹の喜清院の本家寺として、鳳山魔彩大和尚が開山師となって、天正8年(1580年)釜石山 正福寺となりました。
ところが、7世の賢竜和尚の代の時の承徳4年(1714年)に宿場集落の甲子町は、火災で全焼、正福寺も書類の一切を焼失してしまいます。
野田家12代の野田又重郎が再建しますが、再三火事で過去帳を焼失、明治43年(1910年)に現在の地に建立して、近年、幼稚園や六角堂などの増築や補修をして今に至ります。
第25代和尚は、須藤公文和尚です。
「遠野で阿曾沼時代から伝わる『諏訪神社』」

ある日の遠野を訪れました。
暖冬とは言え、遠野は今日も寒い一日でした。
しかし、そんな寒い遠野には、一人二人と観光客が絶えないようです。
今日は、遠野の神社の中でも、諏訪神社を紹介します。
御祭神 建御名方命 下照姫命
宮司  多田 頼申
例祭日 旧9月15日
鎮座地 遠野市松崎町光興寺2−7
承久3年(1192)遠野郷主阿曽沼親綱、阿曽沼氏は下野国阿曽沼郡に居り、文治5年(1189)源頼朝が奥州に藤原氏を討ちし時戦功あり、閉伊郡遠野郷を賜る。
建保年間(1213〜1219)次子親綱をして遠野に移りし、軍務にて信濃の国湖畔へ帰国の後、諏訪大神のご分霊を今の大字光興寺現在地に勧請する。境内に楓樹多く諏訪大社より移し植えたもの。当地諏訪神社の原拠となるべきもの。
「釜石の神社『尾崎大明神 尾崎神社』」

釜石には、尾崎大明神 尾崎神社の里宮があります。
隣村の平田町のさらに枝村に尾崎白浜に本宮があり、そこからさらに半島の突端にの青出しに奥の院があります。
尾崎大明神 尾崎神社は、創立年代は不明。
御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)、閉伊頼基公、錦津見龍神。
御紋は、笹龍胆(ささりんどう)。
日本武尊(やまとたけるのみこと)によって尾崎白浜に本宮と奥の院が立てられたとされています。
承久2年(1220年)には、宮古を収めていた閉伊頼基公によって、天台門宗 古藤山本宮寺として「神仏混淆」された宮寺とされた。
元禄12年(1699年)には、釜石村の遥拝所(ようはいじょ)が立てられ、一年に一度、一泊二日で尾崎白浜の本宮から御霊をお借りしてくる引船の行事が行われてきました。
創建にあたっては、釜石の豪商の佐野家がお金を出しております。
それ以来、盛岡の南部の歴代の殿様が参拝に訪れています。
南部藩からは、12石の石高を賜ってきました。
1799年には、釜石の豪商の佐野家がお金を出して京都に都城して、朝廷から「正一位の御神階」を賜り、その額は、今でも拝殿に飾られています。
1863年には、釜石の豪商の小軽米家によって埋め立て工事が行われ、拝殿を大きくします。
ところが、明治維新後、「神仏混淆令」の試行され、「廃仏稀釈令」によって、本宮寺は廃止して、神社となります。
その後、火災や三陸大津波などで遥拝所(ようはいじょ)を消失します。
1928年には、遥拝所(ようはいじょ)は、里宮の昇格し、遥拝所(ようはいじょ)も神社として求められます。
1933年には、三陸大津波で拝殿を消失しますが、里宮を高幡山に再建します。
1952年に、釜石里宮を錦町に遷宮して、今の地に落ち着きます。
今の宮司は、800年前に宮司をしていた佐々木家のまつえの市役所を退職してなった40歳の青年です。
今では釜石の神社として信仰されている尾崎大明神 尾崎神社は、あくまでも旧平田村の神社です。
年に一回だけ引船で御霊をお借りしてくるという儀式が特徴の神社です。
尾崎大明神 尾崎神社では、宮司をお話を聞き、お神酒まで頂きました。
「釜石・橋野の『盲神』と『神の石船隠里』」

釜石から鵜住居へ向かい、そのから笛吹き峠をを目指していく途中に、橋野という集落があります。
そこに伝えられている『遠野物語』が残っています。
『盲神』と『神の石船隠里』という言い伝えです。

『盲神』とは、「遠野物語拾作27」と言われている物語です。
昔目の見えない夫婦が小さな子供をつれて早栃まできたとき、子供が橋から落ちて死んでしまった。
これを知った夫婦は、生きている甲斐がないと橋から身を投げてしまった。
村の人たちは哀れに思って祠をたててまつり、祠を盲神といった。
今でも、祠の辺りの沢水は、目に悪い人にご利益があるとされています。

『神の石船隠里』とは、「遠野物語拾作27」と言われている物語です。
昔橋野川を、神が石に乗って下ってきた。そして早栃まできて、ここが気に入ったといって川岸の丘の岩穴に入れられた。
そこを、土地の人は、隠里といって、祠を建ててまつった。
石船は、2つ、今でも残っている。
「釜石・唐丹 天照御祖神社」

天照御祖神社の創立は、807年(大同年中頃)と伝えれています。
蝦夷平定の際、朝廷の中央官僚であった坂上田村麻呂が首領佂伐鎭護の貯めに祀り、常龍山代権現と称した。
その後、神仏混淆時代は、天台宗の宮寺として常龍山皇学寺大学院と称した。
明治時代になると明治5年の神仏分離令の際、お寺は本郷に移り、唐丹村の村社となりました。
しかし、この光学寺というお寺は、明治29年の大津波で流されてしまい、今は存在したいお寺です。
祭神は、天照大御神を祭り、宮司は、長らく河東家が永々勤めております。
主なる配祀の神々は、相殿、鎮魂殿、禊祓殿があり、主なる末社は、金刀比羅神社、亀井明神社があり、主なる縁故社は、大杉神社、八坂神社があります。
3年に一度、式年大祭を催し、藩政時代に仙台藩(伊達藩)唐丹村本郷番所の藩士が教えた大名行列が華麗に催されてきました。
年祭典としては、歳旦祭、紀元祭、祈年祭、例大祭、夏越の大祓、霜月祭、新嘗祭、年越の大祓、月次祭が奉納されています。
神社には、当地で亡くなった源頼朝の家来の亀井六郎を祭り、源頼朝の家来の亀井六郎が携帯していたという奇石、釜石で2番目に古いとされる石碑、和歌の扁額などが伝えられています。
神社と一緒に、神楽をはじめとした郷土芸能が伝承されてきました。
神楽は、常龍山御神社、熊野権現、大神楽、伊勢神楽があり、虎舞として、小白浜虎舞、大石虎舞があり、手踊りとして、小白浜手踊り、本郷手踊り、花露辺手踊りがあり、太鼓では、荒神太鼓があります。
昔は、山の中に築かれたおごそかな神社でしたが、今はトンネルができたり、木を伐採してしまって、昔の面影がなくなったと言います。

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