ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

【東北限定】あなたの町の郷土史コミュの平泉奥州藤原四代【3代藤原秀衡】 北方の王者と平泉隆盛

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
皆さん、こんにちは。
管理人のけいちゃんです。
このトピックのテーマは、「平泉奥州藤原四代【3代藤原秀衡】 北方の王者と平泉隆盛
」です。
あなたが知っているあるいは調べた「平泉奥州藤原四代【3代藤原秀衡】 北方の王者と平泉隆盛
」に関わる歴史上の人物、事件、政、宗教、伝統、芸能、美術、生活などについて、写真や図案を交えながら、自由に記述してください。

コメント(1)

【三代秀衡(ひでひら)と源義経(みなもとのよしつね)】
 基衡の死後、三代目を継いだのは秀衡です。秀衡は、基衡が造り始めた毛越寺を完成させ、さらに無量光院を建立しました。無量光院は、京都の宇治平等院鳳凰堂を模した寺院で、規模は鳳凰堂よりひと回り大きいものです。さらに市街地の建設にも力を入れ、広い範囲の整備を行ないました。こうして巨大寺院や屋敷が建ち並ぶ「都市平泉」が完成していったのです。
  一方京都では、平家と源頼朝の関係が緊迫していました。その中で秀衡は、平家により鎮守府将軍、さらには陸奥守の地位を与えられます。この任官は、奥州で絶大な力を持っていた藤原氏を、平家側に取り込むことが目的でした。その結果、秀衡は歴代藤原氏の中で、政治的にも最大の権力を手中にしたのです。しかし秀衡は、戦に荷担することはありませんでした。これらのことからも奥州藤原氏が、政治的にも経済的にも独立した立場を確立していたことがわかります。
  その後、頼朝は平家追討の兵を挙げ、さらに秀衡のもとにいた頼朝の弟義経もこれに駆け付けます。義経の活躍は大きく、ついに平家を滅ぼしました。しかし頼朝は、義経を評価せず、二人の溝は深まっていき、結果、義経は追われる身となり、再び秀衡のもとに身を寄せました。そんな義経を秀衡は暖かく迎えたのです。
  頼朝は、再三にわたり義経を引き渡すよう働きかけますが、秀衡はこれを完全に無視しました。しかし間もなく秀衡は病死してしまいます。最期の言葉は、「義経を大将とし、兄弟そろって頼朝と戦いなさい」でした。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

【東北限定】あなたの町の郷土史 更新情報

【東北限定】あなたの町の郷土史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング