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【東北限定】あなたの町の郷土史コミュの後三年の役【義経北方伝説】

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皆さん、こんにちは。
管理人のけいちゃんです。
このトピックのテーマは後三年の役【義経北方伝説】」です。
あなたが知っているあるいは調べた「後三年の役【義経北方伝説】」 に関わる歴史上の人物、事件、政、宗教、伝統、芸能、美術、生活などについて、写真や図案を交えながら、自由に記述してください。

コメント(1)

「義経北方伝説の釜石の『中村判官堂』」

 岩手県釜石市の橋野町の菩提寺の林宗寺の近くに、『中村判官堂』があります。
 先日、橋野方面に郷土史を取材した際に、立ち寄りました。
 これは、義経にゆかりのあるお堂です。
 岩手から青森、北海道の『義経北方伝説』が伝えられています。
 平泉で切腹したとされている義経は、実は、岩手から青森、北海道と逃げ生きのびたという伝説です。
 そして、義経は、この地、遠野から釜石、大槌を通り、各所にその痕跡を残しているのです。
 義経が遠野に入ったのは、赤羽根峠からだと言われています。
 そして、上郷の風呂長吉さん方に3日間滞在して、五右衛門風呂に入ったとされています。
 その風呂さんの代々の墓石や屋敷の瓦には、家紋として菊のご紋が彫ってあります。
 風呂さんという名前は、義経にちなんだ名とされています。
 義経はこの上郷の地=板沢字中居で、愛馬を亡くしております。
 愛馬は、病死したとされており、お倉前様と呼ばれる神社=『駒形神社』に祭られています。
 堂内には、無数の絵馬があり、“馬頭観音”とか“駒形大明神”と言われています。
 その後の義経一行の痕跡は、綾織町山口に、長さ7mを越す巨石が2つ並んだ“続石”を弁慶が持ち上げたものと伝えられています。
 義経一行は、その後、仙人峠から六角牛山を越え、笛吹き峠に向かい、釜石の橋野に向かいます。
 そして、八幡家に一泊し、義経は、鉄扇と描いたお札を残します。
 このお札は、残念ながら明治26年の火事で焼失しました。
 八幡家は、その後、義経を神ち祀り、『判官神社』を建てました。
 堂内には、衣冠束帯姿の義経の石像があり、同家の分家の八幡さんが別当をしており、“判官虎”と呼ばれています。
 義経一行は、その後、鵜住居に下り、片岸町の室ノ浜に行きます。
 この片岸町の室ノ浜の山崎久右衛門家の社家で背面の杉林の山の八合目付近に、義経を祀った『法冠神社』を建てました。
 しかし、社殿は、明治20年に焼失して、今では、小さな石の祠だけがあります。
 その後、義経一行は、大槌に入り、宮古から八戸、北海道とたどっていきました。
 各所には、遠野や釜石のように、義経伝説が残っています。
 これは、鎌倉時代という今から800年も前の伝説です。
 いつの世も、時の権力というものは酷いものです。
 義経を迫害したのは、腹違いとはいえ、兄の頼朝でした。
 人の世の酷さを垣間見ながら、『中村判官堂』を後にしながら、そこに私自身を重ねるのでした。

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