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洋楽名盤・新譜 レビューコミュのサム・クック 「ライブ・アット・ザ・ハーレム・スクエア」1963年US

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Sam Cooke 「Live at the Harlem Square Club, 1963」1985年US
サム・クック「ライブ・アット・ザ・ハーレム・スクエア」
  
1. Feel It
2. Chain Gang
3. Cupid
4. Medley: It's All Right/For Sentimental Reasons
5. Twistin' the Night Away
6. Somebody Have Mercy
7. Bring It on Home to Me
8. Nothing Can Change This Love
9. Having a Party
 
 
とにかくR&Bを聴かない人でも、このアルバムのパンチには、まちがいなくやられるはずです。
かくいう私が、ロックしか聴いていなかった時代にコレを聴いて衝撃を受け、以来R&Bやブラックミュージックなどにも手を伸ばすようになるきっかけにもなりました。
 
 
なにが、そんなにインパクトがあるんでしょう。
グイグイつかまれて、一気に引き込まれていきます。
 
  
レイ・チャールズと列んでR&Bの父である偉大なサム・クック。
オーティス・レディングが、アレサ・フランクリンが、マーヴィン・ゲイが、サム・クックをアイドルとして後に続きました。
  
黒人アーティストの、という枠を超えて、ライブアルバムとしての熱狂、グルーヴ、タイトさ、切れ、あらゆる面で、このレベルのアルバムは、多分数えるくらいしかないでしょう。
 
 
また黒人アーティスト、ゴスペル出身のアーティストのライブ、観客も黒人、という状態の60年代前半のハーレム。サム・クックという人の活動背景、特性も、かれの音楽性、本作の異様な熱狂の背景にある、といえるでしょう。
 
 
なぜサム・クックが偉大なのか、黒人として生まれ、33歳で射殺死するまで、そのあまりにも苛烈な人生で、何を思い、歌ったのか、そのあまりにも熱い想いが爆発しているかのようなライブアルバムが本作です。
 
 
  
サム・クックは1931年アメリカ南部はミシシッピーはクラークスデイルで生まました。
クラークスデイルは、シカゴからミシシッピー下ったいわゆるブルースのメッカであり、ロバート・ジョンソン、サンハウスやマディ・ウォータースを生んだ地でもあります。

父親が牧師だった関係で聖歌隊、移住先のシカゴでゴスペルグループで頭角をあらわしました。若くして人気ゴスペル・グループのボーカルに抜擢された彼は、徐々にポップス界R&B界への進出も始めました。
 
黒人のための聖なる世界だったゴスペル界のアイドルとなっていた彼は、同時に俗世の歌であるブルーズのメッカに生まれた人でもありました。
 
奴隷だった黒人の心のよるべだった聖歌、ゴスペル。
そのアイドルとなった者が、主には白人マーケットも含むポップス界に進出することは、大変なリスクであり、冒険だったはずです。 
なぜ彼はポップス界に進出したのでしょうか。
 
 
またこの時代は、アメリカにおける黒人に対する人種差別がひどく、南部では白人による黒人リンチ殺人が頻発していたような時代です。
南部で一番はやっているスポーツは黒人リンチだ、と言われたほどです。
 
それでも親の世代と比べて、少しずつ生活が向上し、若い世代の人口が増加してきた黒人達に、こんな差別はおかしい、社会を変えよう、という機運が、30年代から少しずつ少しずつ高まり、そして1960年、有名なグリーンズボロの”シットイン”白人専用コーヒーショップでの黒人学生4人の座り込み、から始まった反人種差別運動、公民権運動が燃え上がり始めた時代です。
  
ほんの40年とちょっと前の話です。
  
そんな時代に、彼は甘いマスクとなめらかでソフトな歌声で、ポップス界のメインストリームへ打って出ました。1957年、エルビスのジェイルハウスロックを、彼のYou send me が追い落とし、成功街道が始まりました。黒人アーティストが出ることはほとんどありえないニューヨークの高級クラブ、コパカバーナでのショーまで実現させました。
 
かれの偉大さの一つは、それまで搾取されるだけだった黒人エンターテイナーと異なり、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと自らの音楽出版社を設立し、はじめて黒人として著作権を管理したビジネスマンとしての姿です。
 
  
「歴史はあんまり知らない、
 生物学のことも、
 科学の本も読んだことないし、
 フランス語もよくわからない。
 
 でも、ボクが間違いなく知っているのは、
 ボクが君を愛しているということ。
 
 そして、もし君もボクを愛してくれていたなら、
 なんて世界がすばらしいか、ってこと」
 
 これは、彼の代表曲の一つ「What a Wonderful World」の抜粋だが、これだけを見ると屈託のないラブソングのように思えるでしょう。
 
しかし、かれの恐ろしさは、ここからです。
 
なぜ、あえて”歴史のことはあまり知らない”なのか。
なぜフランス語なのか。なぜ歴史・生物・科学・フランス語なのか。
すべてが、人種差別を意識している、と考えるのは、それほどうがった見方ではないでしょう。
歴史は、黒人の奴隷としての歴史だし、生物も化学も肉体的な違いに繋がるし、フランスといえばアメリカに比べてはるかに人種差別がなく、当時から黒人のアーティストの権利が認められている多人種国家としての代表として、引用されている、とみることもできるでしょう。
 
それをあえて、”知らない”、と言ってしまう歌詞の中の主人公の姿。
ルイ・アームストロングを彷彿とさせる逆説的な道化でありつつ、アメージング・グレースに代表されるような黒人霊歌で用いられた”ダブル・ミーミング”、屈託ない歌詞の裏に隠された二重の意味、だとみることもできるでしょう。
 
音楽界を生きていく中で、彼はしかし、意味を隠さなければならない、妥協しなければならないたくさんの場面を幾つも乗り越えなければならなかったことは事実でしょう。そんな時こそ、より強く強く、人種差別に対する思いを、悔しさを噛みしめたことでしょう。
 
 
圧倒的な歌唱力とルックスをもって、白人エンターテイナー界のフトコロに飛び込み、馬鹿で滑稽な黒人としての屈託のないラブソングを次々と送り込み、すっかりゴスペルに裏打ちされた黒人R&Bの魅力を、すべてのアメリカ国民から世界中の音楽ファンにアピールし、ハートをつかんでしまったサム・クック。
 
よく言われることは、白人向けに歌うソフィスティケイトされた歌唱と、ワイルドで激しい黒人向けのバリバリの絶叫的歌唱の2つの側面を彼が持っていた、使い分けていたということ。かれの代表作としてコパでのライブ盤があるが、あちらは観客が白人です。
 
さらには、彼はかの過激な公民権運動家、マルコムXやモハメド・アリと深い親交があったという事実。彼らとのつきあいの中で、何をおもったでしょうか。
 
 
危険を賭して、やはり非難を浴びながらも、彼がポップス界に飛びこんで、成し遂げたかった野望は、なんだったろう。
 
黒人アーティストの権利とビジネスの道を確立し、白人中心のエンターテイメント界に真っ正面から入り込んで、内側からブラックR&Bの実力と魅力で、人種の壁を突き破り音楽界を席巻した男。人種を超えた彼の人気、それこそが、彼なりの戦いの、尊い成果なのではないでしょうか。 
  
本作は、黒人だけを前にした1963年のハーレムでのライブです。
かれの熱い想い、志が、歌声に込められている。
仲間を前に、怒濤のような掛け合いが、繰り広げられる。
 
 
1964年、彼は始めてそのメッセージを表に出した「Change is gonna come」を発表しました。
その年の12月に33歳で謎の射殺死を遂げます。
マルコムXもその2ヶ月後に、射殺死した。
 
本作は1985年まで発表されませんでした。 
 
つい40年ちょっと前の話です。
  
ジャンルを、人種を、そして時間を超えた衝撃の名作、全音楽ファン必聴です。

コメント(3)

さすが、素晴らしいレビューですね指でOK
ロッド・スチュワートもリスペクトしていて彼の曲を多くカヴァーしています。
先日、紹介していた『ネヴァーダル〜』でTWISTIN'〜を取り上げていますが、
自信過剰気味のロッドですらサム・クックには負けを認めている感じがしますね。
参考までにオリジナルとこちらを聴きくらべてみるといいと思います。
より臨場感が伝わってきますよるんるん
上記コメントに補足です。
ちなみにこのアルバムのジャケットの裏にはロッドがコメントが書いてあります。
R太郎さん、どういうことが書いてあるのか教えてくださいね。
おっと、"Never A Dull Moment"のジャケットが手元にないので、わかんないですが、ロッド・スチュワートはもろフォロワーですね。 最近では英国のSealの4枚目の冒頭がなんか似てる、と思いました。こちらも格好いい。

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