81年「Too Fast To Love」でメジャーデビュー、83年 2nd「Shout at the devil」が当時200万枚全米17位、85年 3rd「Theater of pain」が当時300万枚全米6位、自ら牽引役となって全米を席巻するムーブメントになっていたUSにおけるHMのポピュラーチャートにおける盛り上がり。そのいわばLAメタル勢の頂点を極めていた彼らだったが、シーンの常として必然的に数多くのフォロワーを生むことになる。質の悪い似たようなバンドの再生産に次ぐ再生産でシーンは飽和状態。ルックスだけはラットやモトリーもどきで溢れかえり、飽きられ始めてきたのがはやくも85年〜86年頃。
先駆者であり圧倒的な実力をもつ彼らさえ、スタイルを真似られ尽くされれば危機感も覚える。もともとドラッグ漬けの日々に、トラブルが続き、さらには86年10月頃からLAメタルとは一線を画するボンジョヴィの大ブレイク(Slippery When Wetが800万枚)でシーンはブルース色・カントリー色・R&R色をもつものに回帰し始めていた。モトリーとしては次のステージへ歩を進めなければならない状況におかれていたといえるのではないか。
当時のアメリカはレーガン大統領の時代。84年のロサンゼルス五輪、85年はNY株価が最高値を記録しバブル真っ盛り、ソ連はペレストロイカが進みんでいたが、86年になるとチェルノブイリ事故、NY株大暴落、音楽シーン全体ではアパルトヘイト反対運動やライブエイド、We are the worldのヒット、ワールドミュージックの浸透など社会が大きく動き始めていた。