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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの三木城(みき)

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三木城(みき)
淡路島観光を終え、明石大橋を渡り高速を降りて下道で三木城へ向かいます。
ナビに従い、いつの間にか「加古川三田線」を走っていて
「美嚢(みのう)川」沿いを走ると右手の高台の上に三木城の城壁が見えます。
やがて「三木城」の看板が見え、その手前を右折すると
鉄道の高架下をくぐり高台にぶつかり、住宅が多数ある高台沿いを
車で登り切ると「三木市立みき歴史資料館」がありここが二の丸です。

二の丸から本丸へ向かうと美嚢川へ降りる道に出ます。
この道を下ったところに城門があったようです。
本丸に入ると神社があります。
社務所の脇を通り本丸の奥へ進むと別所長治の像に出ます。
その横に天守台跡があり、更に奥へ進むと抜け穴伝説のある
「かんかん井戸」があります。
そこからの眺めはなかなかのものですが、何万もの秀吉軍に総攻撃を受けたら
間違いなく落ちると感じました。
三木城の戦いが長期間になった理由は堅城が理由ではなさそうです。
新城(曲輪?)は本丸より高台にあります。
新城は現在は完全に住宅街になっています。
地元の人が「干殺し」の城といって嫌っている様子は全く感じられませんでした。

写真1(歴史資料館) 写真2(別所長治像) 写真3(かんかん井戸)

コメント(4)

三木城は1492年に別所則治によってつくられたのがはじまりです。
交通の要衝につくられた城でした。
姫路と有馬を結ぶ湯ノ山街道の中間につくられました。
湯ノ山街道は武庫川に出るあたりから有馬街道と名前を変えます。
更に荒木村重の有岡城に続く道があったと思われます。

なぜ別所氏は信長・秀吉を裏切ったのでしょうか。
諸説あるようですが
・秀吉に面目をつぶされた。
・秀吉が別所氏の城をいくつか壊して勢力を奪おうとした。
・毛利が政治的手腕で取り込んだ。
などがあげられています。

歴史資料館には三木城の戦いに関する資料が展示されています。
写真の「三木合戦模型の赤丸」の部分が三木城で他は全て秀吉の付城です。
別所氏が秀吉軍と約2年も戦うことができたのでしょうか。
・別所側が裏切る前に兵糧を十分に蓄える時間があった。
・別所氏の石高は43万石と言われ、2万1千程度の動員力があった。
・三木城の支城が30以上あり、秀吉軍は一つ一つ落としていった。
・秀吉側が毛利に備え兵力を減らしたくないため、兵糧攻めを選択した。
・秀吉側の軍師が2人いなくなった。(病気・死亡と監禁)
などが考えられます。
赤丸のみの状態になったのは終戦近くの状態と思います。
開戦時は三木城を守る支城がたくさんあったようです。
戦後の三木城と城下町は復興されます。
街の復興のため多くの大工が集まります。
その大工が使う大工道具を製造し始めます。
大工道具の材料は出雲の玉鋼が使われたようです。
出雲から山陽道を通過し姫路へ、湯ノ山街道を通過し三木に持ち込まれたようです。
本丸内に三木市立金物資料館があり館長さんが丁寧に説明してくれました。
秀吉本陣跡と竹中半兵衛の墓と別所長治の首塚にはいけませんでした。
次回リベンジといたします。
お墓ファンの方には申し訳ございませんでした。
歴史資料館に竹中半兵衛の墓の写真があったので接写しておきました。

写真1(金物資料館) 写真2(竹中半兵衛の墓)

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