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哲学宗教人間の性質&性格コミュの「人間性」「性格」「性質」「癖」について補足

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*このトピ「に限ってだけ」は管理人だけのコミュニテイの説明の為の
補足トピックとします
なので、リードオンリーでお願いします)(*他のトピはご自由に)
以後、気が付いた事、訂正等を少しづつでも補足して行きます

__________まずはこれ↓____________
太古の昔、
身の回りで生きているものが生きてなくなった事を目の前にした時
(↑厳密には、死と生は、反対語で、相対なので、言葉は同時に生まれたはず)
人間は、それを「死」と「生」を区別(あるいは、フンベツ)したのだと思います
そして、その瞬間から、とても恐怖に襲われた。
 死後はいったいどうなっているのだろう?と、
そこで、宗教が誕生した。僕はそう想像しています。

 そして、釈尊は、その「フンベツ』にまでさかのぼる訳です。
そもそも、死の恐怖とは、そういう「フンベツ」から来たものであると。
勝手に人間がある時創ってしまったモノでしかないのだと。
およそ、人間の「苦」というものの、原因はそこにあるのだと、
それについては、般若心経の全文が、ただそれだけを語っているはずです。
三蔵法師は、天竺(インド)まで死を覚悟して行って
教典を読みあさり
結果「それこそ」が仏教(釈迦の言葉、教え)だと思ったのでしょう。
それこそが釈迦の言葉、教えだと思った言葉を、選別し、抜き出して
まとめたのが、「般若心経」だと思います。

当然、今においても、人間というものの本質(生まれ持った性格、性質は変わらないので、*たとえば、カエルや、花や、ミツバチ、ライオン、ウサギと人とは持って生まれて、それぞれ違う性質、性格)
は同じなので、身の回りで亡くなった人(生きていなくなった人)を見た時
自分にその時をあてはめて、想像すると、死の恐怖が生まれるという自然の事、
ちなみに、人間以外の、ウサギ、ライオン、花、ミツバチ、は、仲間の死に対して
このような想像上の自分の恐怖を感じる事はまず無いというか、脳の構造上想像出来ない、、DNAによって、想像できない、妄想出来ないので、想像によるフンベツから
来る恐怖は無い。一年後に死ぬかもしれない恐怖や、一年後の子供の将来を悲観して自殺する事は彼らには無いが、人にはある ソレこそが、人間ゆえの性質、性格。
「にんげんゆえ」の性質、性格によって、人間のみに起こる苦しみ、恐怖、それらの
不安を解決する為に世界中の宗教は、『あの手」「この手」と工夫(方便)して
宗教を創作したのだと僕は考えます

なので、人ゆえの行動を指して、また個の行動を指して「人間性」という言葉があります,個人の特徴性質、性格を指しても「人間性」という言葉を使います。
人間の性格という意味であったり、その個人の人となり、を指したりする言葉だと思います。
宗教は仏教に限らず、この「人間ゆえ」の性格、性質、癖による「苦」が生じる事
の原因を認識し、その問題に対して
     ↓
「だからどうするか」という、その後に取る『行動」(カルマ)によって
「手(方便)」が異なるだけ。
そこが宗教の違いという事だろうと思う。
また哲学者は、その「人間ゆえ」の性格、性質、癖の認識という所は同じだと思う
なので、釈尊とイエスと、ソクラテスは、この点で矛盾は無く、同じだと
僕は考えるし、また、仏教だけで考えても
真理の道元も、救いの、親鸞も、また違う手で救う空海も、ココに矛盾は無いと思う。

真実を知った後、
事実を認識した後
人間というものがどういう性格であるかを認識した後

「その後どうするか」
それで、その後が違って来る。

それは宗教や哲学などといった枠にとらわれず、
自分たちの日常でも普通に行われている行為、行動(カルマ)だ。

 自分の性格を認識、自覚した上で、どう行動するか、
あるいは、どう行動したか、
または、どう 行動「してしまったか」

が、、それが問題だ。
      _____________________
生きべきか、死ぬべきか、それが問題だ!(ハムレット)
           ↑
シェイクスピアは、こういった人間独特の性質、性格、行動パターンを
題材にした「真理」を小説の中に放り込んでいるので、
読み手が、この琴線に触れてしまうので、ベストセラーになってしまう。
当然の事だ。

(*このトピは管理人だけのコミュ説明補足トピなので
  リードオンリーでお願いします)

コメント(4)

人間は性格、癖から逃げられない

なので、
どうするか
どう行動するか

それが問題だというコミュニテイです
ライオンがライオンであり
ウサギがウサギであるのは、努力ではなく
持って生まれた時から
ライオンはライオンの性質を
ウサギはウサギの性質を持っているからに他ならない
同様に考えると人間も同じくだ。
おおまかな人間特有あるいは、顕著な性質として
(1)比べてしまう性質
(2)空想してしまう性格
(1)と(2)は止められない,止まらない。

同様に、個々もまた同じく
性質としては、個々を持って生まれている
危険がどうしても好きな性質
気が弱い性質
闘争したい性質
優しい性質
等々だ。
これは、人間として生まれ持った性質に
個々の性質が加味され、さらに、
個々の人生の様々な場面で行動が違ってくる
その時の行動が、さらに経験となり、加味される
その『行動」には、その場のたまたまの条件や時間、縁によって
左右される。
 例えば、牛がライオンに追いかけられた時
『逃げる」「諦める」「その他」の行動の中に
ライオンをかみ殺すという選択肢は考え浮かばないのは
牛としての生物の性質と個々の性質、経験が加味されたものである
が、しかし、まれに、ライオンに角で反撃するという事もあるが、
これは個々の性質、性格の違いによるもので、
戦わない牛は戦わない。
基本牛は戦わないが、まれに、個として、戦う事もある牛があったりする。
逆に、ライオンでは、全然違うものである。
個々の「人間性」「性格」「性質」「癖」
について、どれが優れていて、どのような場合が欠陥かとかという
判断(分別)は、人間あるいは一部の人間社会で都合良く
それぞれ勝手に作った判断基準でしかなく
宇宙全体においての絶対的な価値観では全く無い事は当然だ。
人間は人間を傷つけたり殺したら「人間性」「性格」「性質」「癖」において
「とんでもないやつ」あるいは暴力的だ!と判断するのに、
人間は人間以外の動物を焼いたり、食ったり、味付けしても、どうという事は無い。
 魚や肉や野菜の美味しい味付けをした料理が作れる人を尊敬までする。
しかし、その材料が人間だとなれば、恐ろしい話で、とんでもない事であるという価値観だ。
というように、人間が、そこに価値観を付けて良いとか、悪いとか、欠陥だとか
優れているとか、たいそうに分別してしまうような事も
所詮は、たかが、人間の勝手な判断基準に過ぎない事でしかない。

余談だが、
アメージンググレイスという有名な歌の背景は、
黒人を人間では無いという基準で奴隷売買していた奴隷商人が
嵐で船が難破し、たまたまそこから助かった本人が、
自分の行為の間違いに気付き、そんな自分でさえも救ってくださった
神様への感謝と、神様の奇跡にびっくらこいたとか、、、
なんかそんな歌だったと思う(^。^;)

 さらに余談だが
彼は、黒人が同じ人間だと気付いて神に感謝したが、
人間と魚や牛が同じ動物だとは判断していない。
そんな判断をしてしまうと、生きていけなくなるので、
キリスト教では、神から与えられた「人間への食い物」という
判断で良いとなる教えのようで
それはそれで、合理的な方便で素晴らしいと思う。

さらに、さらに余談だが、
仏教においても、
分別として、
人間は生物という分野で同じだと分しているし、
また同時に、人間と他のそれぞれの動物をそれぞれ分別しているが、
それらは、「変化し続けているだけの宇宙」の中においての
一瞬の形をとらえての人間が判断分別した形だというだけに過ぎない
『分別(ふんべつ)」でしかない。
が、しかし、その形でしかない世界は、確かにあるが、
しかし、同時に、確かなものではなく、一瞬の形でしかない上での
たしかに、そう人間が判断する形ではある(^.^;)
その『人間という形の時のもの」と人間という形の時の者(以下人間とだけ表現する)が、
人間の価値観(ふんべつ)で
それぞれを「人間性」「性格」「性質」「癖」において評価してしまうが、
個々の「人間性」「性格」「性質」「癖」
について、どれが優れていて、どのような場合が欠陥かとかという
判断(分別)は、人間あるいは一部の人間社会で都合良く
それぞれ勝手に作った判断基準でしかなく
宇宙全体においての絶対的な価値観では全く無い事は当然だ。
人間は人間を傷つけたり殺したら「人間性」「性格」「性質」「癖」において
「とんでもないやつ」あるいは暴力的だ!と判断するのに、
人間は人間以外の動物を焼いたり、食ったり、味付けしても、そのあたりは、
「その命」という価値観についての分別を考え、食う。
 魚や肉や野菜の美味しい味付けをした料理が作れる人を尊敬までしない
で、淡々と食する
しかし、その材料が人間だとなれば、恐ろしい話で、
とんでもない事であるという考えはあるが、同時に
人間が、そこに価値観を付けて良いとか、悪いとか、欠陥だとか
優れているとか、たいそうに分別してしまうような事も
所詮は、たかが、人間の勝手な判断基準に過ぎない事でしかないと認識し
「全ては変化し続けているだけの宇宙」の一部であり、宇宙そのものであると
認識する。その上ですべての分別は、
一瞬の形をとらえての人間が判断分別した形だというだけに過ぎない
『分別(ふんべつ)」でしかない。と自らの姿さえも止観する。のを悟りとし
その自然そのものの有り様(変化しつづけているだけの姿)を真理と呼ぶ。

しかし、その真理を観し、人間の希望が及ばぬ世界だと明らめられる者は良いとしても、真理を知っても、なを(またはさらに)や絶望、悲しみに苦しむ者には
真理など、何の役にも立たないので、希望の形を方便として見せる。
または、真理を見ないもの、見ようとしても見られなかった者,
または、まったく存在があることすらも思わなかった者等々、
真理の存在が全く何にも役に立たない者に
それぞれ死ぬ迄生きている間に、絶望や、悲しみ、苦しみから、
希望と夢を持てていられるように、
或は、悲しみや苦しみを忘れられるように、
それぞれ、いろいろ工夫された方便を使う
それによっては、魚や肉は、人間が生きる為にやむを得ない事だと
認識しながら食うとか、肉は食ってはいけないとか、
そんな事は関係無いよ、とか、いろいろ別れる。
このあたりは、他の宗教においても、同じ意味で様々なのだろうと
僕は考える
(*なにもかもこのコミュにおける僕の書き込みは
たかが個人的な考えですmixyにおける僕の全ての発言においても
すべての発言はたかが個人的な考え、あるいは,個人的に、聞いた話に同意した考え
に過ぎません例外無く。絶対だと言える事は何も無いです)

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