ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

城下町コミュの伊勢松ヶ島

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 伊勢国一志(イチシ)郡松ヶ島の地は古代・中世には保曽久美(ホソクビ)と呼ばれ参宮街道に沿い、三渡(ミワタリ)川の河口を控えた海陸交通の要衝の地であった。
 永禄10(1567)年頃、伊勢国司・権中納言北畠具教(トモノリ)が、織田信長の侵攻に備えて平城の細首城を築き、日置大膳亮に守らせたが、永禄12(1569)年、信長軍の猛攻を受けた日置大膳亮は細首城を焼いて大河内(オカワチ)城に退いた。
 天正8(1580)年に至り、信長の次男で北畠氏の家督を継いでいた信雄(ノブカツ)の居城だった度会(ワタライ)郡田丸城が焼失したため、信雄は細首城跡に新たに二重の堀と五層の天守閣を備えた近世城郭を築き、松ヶ島城と命名した。
 天正10(1582)年の本能寺の変の後、信雄が織田姓に復して尾張国清州城に本拠を移すと、その家老である津川義冬が、松ヶ島城を預けられたが、天正12(1584)年に羽柴秀吉の流した風聞を信じた信雄は義冬を誅殺、代わって滝川雄利(カツトシ)が松ヶ島城主となり、直後に勃発した小牧長久手の合戦において雄利は秀吉軍の攻撃を凌いで城を死守した。同年末、信雄と和睦した秀吉は南伊勢を信雄から没収して蒲生氏郷(ガモウウジサト)が120000石で松ヶ島城に入部した。
 しかし城下が手狭だったため、氏郷は天正16(1588)年に松坂城を築いて城下町を移転させ、城下の町人は全て松坂城下へ強制連行、参宮街道も松坂経由に変更され、松ヶ島城と城下町は廃されて辺鄙な漁村に落ちぶれてしまった。
 江戸時代の松ヶ島村は紀州藩領となり、検地帳には、城之内・城之外・南の丸・日の丸など城郭に関する地名や、殿町・西町・横町・新町・長町・紙屋町・材木町・樋ノ町・魚町・梅屋町・鍛冶屋町・北市場・西市場・船屋敷・蔵屋敷等の城下町時代の地名などが記録されている。
 明治4(1871)年に度会(ワタライ)県、明治9(1876)年に三重県に編入され、明治22年(1889)年に三渡村・松崎浦と合併して一志松ヶ崎村となり、昭和42(1967)年に松阪市に編入された。
 現在、城跡は三重県指定史跡となり、幅約20m、高さ約2mの台地だけが残って、地中からは金箔付の瓦片や茶碗片が出土している。なお、埋め立てによって海岸は1?程先に遠のいている。
 松阪市愛宕町の真言宗愛宕山龍泉寺の三門〔三重県指定文化財〕は松ヶ島城搦手(カラメテ)門を移築したものと伝えられている。

*龍泉寺
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62830846&comm_id=159736

コメント(2)

畑の中にポツンと城跡が残っていました。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

城下町 更新情報

城下町のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング