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万葉集コミュの一日一首(和歌ランダム拾いあげ勝手解釈)

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瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ  崇徳院

瀬の流れが速いので
岩にせき止められて
急流のように
 <上句は下句の序>
別れても最後には
会いたいと思う。
<」水が分かれるのと、二人が別れるのと掛ける>

自分の恋心を読んだ歌。叙景ではなく叙情である。
今は別れてもまた逢おう、というその決意がメイン。
「別れても」は急流が岩にぶつかって分かれるという表現で比喩。

「に」は原因を示す格助詞。「の」はたとえの格助詞。

「・・・を・・・み」は「・・が・・・なので」の意。

早み=早まる(自・四)の連用形。川の流れが速くなって。

せかるる=堰く(せき止められる)(他・四)の未然形「せか」に受身助動詞の「る」(受身の助動詞連体形)が接続。
「る」は「滝川の」に接続するためには連体形にする必要があるので「るる」、くっついて「せかるる」。

「われ」は下二動「わる」の連用形、わかれる意。

逢はむ=逢ふ(自・四)の未然形「あは」に推量助動詞の「む」が接続。この場合は一般的な推量ではなく、決意表明。逢おう、と言う意味に。気魄の一首。

「岩」・「滝川」に託された思いを偲ぶ。



崇徳院 すとくのいん(すとくいん) 元永二〜長寛二(1119-1164) 諱:顕仁
(平安時代四の人。主に金葉集・詞花集の歌人)

鳥羽天皇の第一皇子(『古事談』は実父を白河法皇と伝える)。母は待賢門院璋子。後白河天皇は同母弟、近衛天皇は異母弟。子に重仁親王・覚恵がいる。

保安四年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、五歳で即位。七十五代天皇。大治五年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。
保延五年(1139)、鳥羽院の室美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、永治元年(1141)、即位させた(近衛天皇)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。
近衛天皇は久寿二年(1155)七月に崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、結局鳥羽第四皇子の雅仁親王が即位(後白河天皇)。皇太子には後白河の皇子が立てられた。翌年の保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。十一日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着した。
崇徳院は讃岐に流され、松山(現坂出市)の配所に移される。八年後の長寛二年(1164)、同地で崩御、白峰に埋葬された。俊成の家集『長秋詠藻』には、崩御前の院が藤原俊成宛に書き遺した長短歌が収められている。安元三年(1177)、崇徳院の諡号が贈られた。

幼時から和歌を好み、忠通・顕広(俊成)らを中心とする歌会・歌合を頻繁に催した。在位中、『堀河百首』に倣った百首歌を召す(崇徳天皇初度百首)。譲位後、二度目の百首歌を召し(『久安百首』)、久安六年(1150)までに完成。仁平初年頃、俊成に命じて同百首を部類に編集させた。また仁平元年(1151)頃、藤原顕輔に命じて第六勅撰和歌集『詞花和歌集』を撰進させた。
詞花集初出。藤原清輔撰の『続詞花集』では最多入集歌人(19首)。勅撰入集計81首。百人一首に歌を採られている。(千人万首)

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