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ありがとう出版舎コミュの天の岩戸の物語

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 「天(あまの)岩戸(いわと)の物語をしてください。」

「須佐之男(すさのおの)命(みこと)はこの世が割れんばかりに泣いています。ひげが胸にとどく大人になっても赤子のように泣くとは何事だと父神である伊邪那(いざな)岐(ぎの)命(みこと)が叱ります。すると、須佐之男(すさのおの)命(みこと)は、私は母神が恋しいのです、死んだ母のいる根の国に会いに行きたいと泣いているのです、と答えます。地底の暗い根の国なぞへ行きたいと願う息子に父神は修行の意味を込めて旅立ちをゆるします。そして、高天原(たかまがはら)の姉神 天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)のところへ暇(いとま)ごいに行くように命じます。

 天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)は須佐之男(すさのおの)命(みこと)が高天原(たかまがはら)を乗っ取るつもりであろうと怪しみ、弓を携えて待ちます。

―海を統(す)べるそなたが高天原(たかまがはら)に何用じゃ。

―姉神よ。私は邪心をもってまいったのではありません。父神の怒りに触れ、母のいる根の国へ行く暇ごいに来たのです。

―ならば、その証をみせよ。

―それはたやすいことです。お互いに子を生もうではありませんか。生まれた子が心の証をたてましょう。

 二人の神は天安(あめのやす)河(のかわ)をはさんで向かい合います。

 天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)は須佐之男(すさのおの)命(みこと)の十(と)拳(つか)剣(つるぎ)を取って三つに折り、天の真(ま)名井(ない)という井戸で洗ってかみくだきますと、はく息とともに三人の女神が生まれます。

 こんどは、須佐之男(すさのおの)命(みこと)が天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)の玉飾りをかみくだいて息をはくと、五人の男神が生まれます。

―私の剣からは心優しい女神が生まれましたぞ。これで私の心の証はたったでしょう。
 
 月日はたちます。

―須佐之男(すさのおの)命(みこと)さまのふるまいは目にあまります。田畑は踏み荒らすし、馬は追い回すし。

―天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)さまはかばっていらっしゃるけど困ったものです。

―機織女どもめ、私の悪口を言っておったな。こうしてくれる。

―うわっ。馬の生皮をはいで、機織機に投げ込むなんて。

  天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)はたまりかねて 天(あまの)岩戸(いわと)の中に隠れてしまいます。

 日の神である天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)がかくれたので天も地も闇に閉ざされます。そうすると、闇から生まれた悪神どもがこれ幸いと活動を開始します。

―はやく手を打たねばひどい事になる。神々を安河原(やすのかわら)に集めよう。

 天上の安河原(やすのかわら)に集まった八百万(やおよろず)の神々は天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)に天(あまの)岩戸(いわと)から出ていただく方法を相談します。

―最も賢く思慮深い思(おもい)金(かねの)神(かみ)、あなたに何か良い考えはないですか。

―常世(とこよ)の国の長鳴(ながなき)鳥(どり)を集めよ。安河(やすかわ)の河上より硬い岩を運べ。岩を鉄床にして鏡を作るのじゃ。それから八尺(やさか)の勾玉(まがたま)を作れ。
見事な鏡と八尺(やさか)の勾玉(まがたま)ができます。

―さて、用意ができたら、こんどは天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)の出番だ。さあ踊れ、踊れ。

  天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)は神がかりして踊り狂います。

 皆は美酒を醸し飲み、大声で笑い、長鳴(ながなき)鳥(どり)は血を吐くほど鳴きます。

―これ、天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)。闇の中で、なぜ楽しそうに踊っているのですか。他の者も、何をそんなに笑っているのですか。

―あなたさまよりもっと貴い神様がお出ましになったのです。ここから覗いてみてください。

  八尺(やさか)の勾玉(まがたま)を飾り付けた鏡をさしだします。
 そこにはひかり輝くお方が見えるではありませんか。
 
 うっとり見とれている間に手力男(てぢからおの)神(かみ)がむんずと天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)を天(あまの)岩戸(いわと)の中からひきだします。そして、二度と天(あまの)岩戸(いわと)に戻れぬように注連縄(しめなわ)で封印します。
 こうして再びこの世に光が戻り、神々もようやく安心します。
 須佐之男(すさのおの)命(みこと)はもう一度出直す約束をして、ひげを切り、手足の爪をはいで下界へと旅立ちます。」

「この物語が伝えようとするのはなんでしょうか。」

「須佐之男(すさのおの)命(みこと)が泣き叫んでいたのは死んだ母に会いたいと言っていたのでした。人間は誰でも自分はどこから来たのかを知りたがります。そうした時に自分を生んでくれた母親に思い当たるのは自然の成り行きです。

  須佐之男(すさのおの)命(みこと)も自分探しに思いを向けたのです。そしたら母のいる根の国へ行くことを思いつきました。

 それを知った父神伊邪那(いざな)岐(ぎの)命(みこと)は、根の国へ行っても得られるものはないことを知っていたので、まず、高天原(たかまがはら)の姉神 天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)のところへ暇(いとま)ごいに行くよう命じます。そこで天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)の天(あまの)岩戸(いわと)隠れ芝居をみせるためです。

 須佐之男(すさのおの)命(みこと)は自分を高天原(たかまがはら)に留めおいて、なかなか根の国へ旅立たせてくれない天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)に苛立って、乱暴狼藉をはたらきます。それを見た天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)はこの時とばかりに天(あまの)岩戸(いわと)へかくれます。神々は大あわてで、鏡と八尺(やさか)の勾玉(まがたま)などを用意します。舞台は整いました。天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)は肌もあらわに狂ったごとく踊ります。他の神々は大声で笑い、長鳴(ながなき)鳥(どり)は血を吐くほど鳴きます。頃合いを見計らって天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)が顔をのぞかせます。その時、待っていましたとばかり、八尺(やさか)の勾玉(まがたま)を飾り付けた鏡をさしだします。鏡に映った自分の姿を見た天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)はその美しさにうっとりするのです。

 その様子のすべてを、目を皿にして須佐之男(すさのおの)命(みこと)が見ています。

  須佐之男(すさのおの)命(みこと)は思います。

―天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)は鏡に映った自分の姿を見て、自分の素晴らしさを発見し、自覚したのだ。それに岩戸を閉じていた時は無明の世界で、悪神どもが跳梁跋扈していたのに、岩戸を開いた瞬間に闇は消え、光り輝く荘厳世界になったではないか。これは俺様に自分探しの旅は根の国などという遠いところまで行く必要はなく、自らの中にある迷いという岩戸を開いて、光り輝く神の子としての自覚を持てという諭しなのだな。 」

「天(あまの)岩戸(いわと)は迷いの心の象徴ですか。」

「仏教ではこれを無明といい、キリスト教では原罪といっています。光り輝く自分の本体を天(あまの)岩戸(いわと)に封じ込める原罪を犯し、いたずらに無明世界で、光は何処と捜し歩く姿は、今となっては滑稽としか言いようがありません。しかし、これもいたしかたのないことでした。花が咲くのも、種を蒔いて水をやり、月日が経たねばならぬように、古事記の昔から言い伝えて来たとしても、その時が来なければ真に誠は伝わらないのです。」

「神社には鏡を祀ってありますがこの物語と関係がありますか。」

「もちろんです。人々は鏡に映った自分に手を合わせるのです。ですから神社に祀ってある神々は誰あろうあなた自身なのです。神道では人を霊止(ひと)とし、いかなる人にも神は宿りたもうといいます。仏教では一切衆生悉有仏性といい、キリスト教では神は汝らの内にありとおしえます。それなのに神と仏性を岩戸の中に押し込めて、鏡に映してみることもなく、もはや忘れさったかのごとく、無明世界に狎れきって、生きていくのに汲々としているのです。」

「八尺(やさか)の勾玉(まがたま)はどんな意味があるのですか。」

「八尺(やさか)の勾玉(まがたま)とは、多くの勾玉を長い緒で貫き、連ねたもので、その見事さが、それを身に着けている人の高貴さを表わすものでした。鏡に映った天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)を実際よりさらに高貴な神とするためのものだったのです。このことは神でさえ、創意工夫し、知恵を働かすことによって、さらなる完成に至るという諭しでもあるのです。」

「須佐之男(すさのおの)命(みこと)はもう一度出直す約束をして、ひげを切り、手足の爪をはいで下界へと旅立ちますが、ひげを切り、手足の爪をはぐというのにはどんな意味がありますか。」

「この物語の最初のところで、ひげが胸にとどく大人になっても赤子のように泣くとは何事だと父神である伊邪那(いざな)岐(ぎの)命(みこと)が叱りました。ここから分かることは、ひげは大人のしるしだということです。ですから、ひげを切るということは赤子に戻るということです。素っ裸の玉のような赤子になるということです。手足の爪をはぐというのも、生まれたばかりの何の罪もない、それゆえに爪を磨いで、罪を犯したがゆえの恐怖と争う必要もない嬰児(みどりご)のごとくなった証なのです。また、爪は外のものに向かって使うものです。ですから、手足の爪をはぎとったということは、もう外のものとは争わず、自らの内部の神性と向き合って生きていくのだとの覚悟の表れなのです。」

「われわれはこの物語に倣って、心の岩戸を開き、本来の、神仏とおなじ光り輝く自己を鏡に映して見る必要がありますね。」

「そうです。心の岩戸を開いて神と同じ自己を自覚するだけで、今までの無明から来る迷いは、日の出と同時に掻き消える闇夜のようになくなるのです。」


コメント(1)

天岩戸

    心の扉

        馬鹿の壁


☆☆☆

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