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メンタリング・コミュニティコミュのキーワード?:“暗黙知”

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8回目です。 
※今回も少し長めで、ちょっと難しめかもしれません。
※でも、やや山場に差し掛かってきた感じがしますので、お付き合い下さい。

暗黙知理論の提唱者、マイケル・ポラニーは、人の知識の特性について、次にように語っています。

「自動車を運転する技能を、自動車に関する理論の徹底的な習得で置き換えることはできない。」

この言葉の中の、「自動車に関する理論」を形式知と言い、「自動車を運転する技能」を暗黙知と言います。

つまり、形式知とは、言語によって概念化され体系化されている知識領域=ナレッジのことです。
これに対して、言語によって体系化されていない、または言語表現することが難しい、ないしは言語表現することの価値が低いナレッジを、暗黙知と言います。

このように言うと、いかにも概念的にはっきりしているようですが、マイケル・ポラニーの著作を読んでも、暗黙知にはいくつかの「タイプ」があり、極めて謎めいているという印象を受けてしまいます。

例えば、人の顔。
私達が友人をその人と見分けることができる知識、これは暗黙知に属すると考えられます。
この顔に類するタイプの暗黙知は、「理解する前に知っている」という性質のものです。
というもの、私達は友人の顔を理解するとき、目がその友人のものであるかどうかを確かめ、次に耳を、そして鼻を……というように、顔の成り立ちを概念的に整理した上で、その人の顔であると見分けるわけではありません。
あくまで、その全体的な「印象」を「知っている」ことによって、瞬時に認識しています。

次は、「訓練等を通じて、だんだんと身に付く」というタイプの暗黙知です。
上の自動車の技能もこれに当たりますが、技能一般がこのような性質の暗黙知といえます。
例えば、私達が自動車の運転の練習を始めるとき、たしかに初めのうちは、「ハンドルは両手でしっかりとにぎって操作する」、「アクセルとブレーキは、同じ右足で操作する」、「右左折時にはウインカーを出す」というように、形式知の習得を積み重ねていきます。
ところが、その積み重ねを継続し繰り返すうちに、いつの間にか形式知を意識しなくても、自動車の運転ができるようになります。
これを一般に、「形式知の暗黙知化」と表現します。

ただ、同じにように技能の習得をする場合でも、「形式知の暗黙知化」ではなく、「暗黙知のままでの習得」ということもあります。
例えば、職人が道具の使い方を憶える場合がそれにあたります。
かんなの使い方を習得する場合、本に書いてある方法を学習した後に練習を積んで覚えるわけではなく、師匠や先輩の技を見よう見まねでやってみる中から習得していきます。

赤ん坊が言葉を覚えるプロセスも含めて、暗黙知の習得には、むしろこのパターンの方が遥かに多いように思われます。

ただ、暗黙知には不思議な性質があり、それが瞬時に崩壊する、ということが起こりえます。
どういうケースかというと、暗黙知の運動に形式知が何らかの事情で介入するケースです。

ふたたび、顔の例。
全体の印象としては友人の顔と分かっていたのに、たまたまその目だけに注目してしばらく見つめてしまったため、全体の印象が急速に衰弱してしまう、ということが起こります。

さらには、楽器を演奏する技能の例。
例えばピアノで、ショパンの幻想即興曲を習得している人が、いつものように意識しなければ自然に弾けるのに、たまたま右手の動きに視線を奪われたために、左右の手の連携が崩れてしまう、ということが起こります。

顔の例も、ピアノの例も、暗黙知の運動に、それを形式的ないしは要素的に分解して認知しようとする、形式知的な作用が介入した結果と言えなくもありません。

以上の事情は、技能取得における、「暗黙知のままでの習得」の優位性を示唆しているとは言えないでしょうか?

ここまで書いてきた暗黙知の性質、そして、暗黙知と形式知の関連を考える中で、では、人をどう育てるべきかとの思いに至った方、「エグゼクティブ・メンバー」です!

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