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三国志コミュの三国志で一番無能な君主と言えば?

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劉禅が暗愚として筆頭に上がりそうですが
呉の虐殺ラスト皇帝 孫酷やその大先輩 菫卓
その菫卓からバカ呼ばわりされた 霊帝
偽帝 袁術もその迷惑かけた地域、人数、期間のどれもが暗愚に負けないと思います。
勝ったらダメですが。

貴方の心に残る無能君主は誰ですか?
出来れば理由付きでお教え下さい。

コメント(42)

何進かな。全ての英雄豪傑たちの上に立っていたわけで。
ベタだけどエン術かな(携帯だとエンの漢字出て来ないwww)。

玉璽を得て皇帝になったかと思えばしばらくして曹操、孫策を中心とする討伐軍に破れ、最期には悪政を敷いていたことで領民にすら見限られ、吐血して死去。あれ程の転落人生も珍しいのでは?
>ふじちゃり君様
いえ、あれは殺されても仕方ない。っていう無能君主のモデルだと思いますよ。
ゲームなら弱小4君主で一番有利ですよね。
>ボーシム様
確かに、彼は全ての可能性を手に入れてたのに全く使いこなせないまま死んでますね。
袁紹が参謀ではダメですねw
>オキム様
ハチミツ偽帝の転落っぷりは確かに三国志一酷いですね。言われて初めて気がつきました。
劉禅、孫皓もこんな末路だと溜飲が下がったんですけどね。
>ワンピース≧▽≦ソラ様
劉禅は降伏せずにすむための内政の充実や国力アップの努力とかすれば、能力は無かったけど漢王朝の意志を継いだ男として名は残せたでしょうね…

暴虐な悪政より個人の能力での無能さの方が印象に残る感じですかね…
ご解答下さいまして有難う御座います。
カンプクかな。
確か袁紹にやられちゃうやつ
田豊の君主で、袁紹に領地譲った後、殺されると思って戦わずに負けて自滅した人ですかね?
劉禅と違って統治記録もないですね。
こんばんは。まだ挙がってない、だと劉樟ですかね? ショウの正確な文字が思い出せないけど。
劉璋さんはそれなりに治めてた気がするんですが…
正史では張魯が言うこと聞かないから見せしめに家族を殺して、本当に反乱起こされたり、
演義では劉備が裏切ったら敵だった張魯に助けを求める袁譚並の本末転倒っぷりを見せたり、
臣下が命をかけて諫めても聞かなかったったり、

…思い出すと自滅しかしてないですね。
下手すれば曹操自体蜀に招きそうでしたし…
病欠怪人 さん そうです。
ありがとう。単語登録しときます。
献帝・劉協。
やはり実行力も権力もなかった君主ということで、無能と言えると思う。即位の時点で本来持つべき権力の基盤が無かったのは気の毒過ぎるが。
同じく劉協ですね。

力がないのは分かりますけれど、ないならないで曹操の心証を悪化させる事ばかりしなければ良いのに…。

大陸で民族が違うから無理かもですが、あの辺りで血が絶えていなければ、日本の天皇家みたいなの(権威で担がれる存在)が生まれたかも…。


それと、董卓が死んだ直後と李カク、郭シが揉めてた時に、洛陽を懐かしむよりする事があったはず。 これもまあ、董承くらいしか臣下がいなくては(他は文官)無理でしょうか。。。
〉きょんた様&まひ姉様
献帝は曹操に保護された196年で16歳。
もう少し成長していたら足利義昭みたいに密書連発して曹操包囲網が作れたかも…
せめて王允というか呂布を使いこなせたら一勢力にはなれたかも。

ちなみに同じような境遇に魏のラストエンペラー曹奐さんがいますが、能力以前に存在を覚えてない可哀想な方なので、彼も忘れずにダメ出しして上げて下さいw
ご解答有難う御座いました。
> ボーシムさん
ゲームならともかく、正史では何進は君主とは言えないでしょう。十常侍らや袁紹、曹操はあくまで同僚や部下で配下とは呼べませんし。
公孫淵も上位の無能君主かな。

魏&呉の両国と同盟を結ぶなど、外交にも引き出ていた太守就任時代。
とは、裏腹に呉の使者を切り、それを魏に差し出す事で官位を得ただけで飽き足らず、燕王を自称し魏からも自立…
結果として司馬懿に打ちのめされ降伏も認められず、一族郎党の斬首と共に遼東公孫氏は滅亡しました

太守就任から10年程度しか生きていないため駄目君主としてのイメージは弱いかもしれませんが、強国二国と同盟を結ぶ外交能力がありながらも君主としての能力、処世術は大変低いものであったのでないかと考えております。

あとは叔父や兄貴から無理やり太守の座を奪い取るエピソードのイメージかな・・・まるでジャイアンにしか見えないw
>ルパン4世様
即席の反乱軍党首と言う解釈で、見てました…
個人的に劉禅とかの有名人よりコイツの方がひどくね?的な見方とか見たいのでそこらへんは厳密でなくてもいいかなー…と
>無糖様
最後まで全う出来たら、あの孫権も手玉にとったしたたかな男と呼ばれたんでしょうが…
余り注目してなかった人物ですがやったことをを見ると、きれいなジャイアンならぬ愚かな孫権って感じがしますね。

そいつに殺された叔父に興味が出てきました。有難う御座います。
>穀潰様
コメントありがとうございます。自分の書き込みにコメントを頂けるのがこれほど嬉しい事とは…。
あー上記の簡略化した書き方で少し誤解を招いてしまったので、公孫恭(叔父)について少し補足を。

遼東郡の太守であった公孫康が死去したとき、その息子である公孫晃(兄)や公孫淵(弟)が幼少だったため、その後継者として遼東太守の地位を公孫恭(叔父)が世襲します。
公孫恭はあくまで太守は先君の長男である公孫晃に譲ろうと寵愛しておりました。が、公孫晃が官位を貰うために都に出仕している間に、成人した公孫淵に太守の座を無理やり奪われてしまいます。

司馬懿の燕征伐まで城内に幽閉されておりましたが、一族の斬首の際に以前の太守時代の魏に忠実であった功により司馬懿に許され釈放されたとの記述もあります。

あーつまり太守の座を奪われただけで生きてるよといいたかっただけです。
説明不足で間違った知識を押しつけて大変申し訳ない。
> 穀潰さん
ちょっと違和感があったので口を挟んでしまいました。ご不快になられたのでしたら、申し訳ありません。
>ルパン四世さん>穀潰さん
あくまで君主という意味は対外的に国家の主権を表し、国内統治の重要な部分(少なくとも行政権)を掌握し、国家や政府の象徴的存在であるとされる。
これによれば、確かに何進は大将軍でありながら別に行政権を持ってなかったので明確な君主ではありませんが、黄巾の討伐軍総大将や大将軍として帝以上の権力を持ち合わせた彼も曹操の魏王就任前と同じく君主と言える立場でもあるのではないでしょうか?って事で君主解釈は人それぞれでいいかと、私は両方とも正しいと思います。

ついでに何進についての駄目出し
異母妹何氏が宮中に入り、皇后に立てられた事で本人に大した功も戦経験もないままコネだけで漢の大将軍についた後漢末期の宮中の腐敗を代表する将軍。
一応功を上げるなら黄巾の乱勃発後に大将軍就任し洛陽を守備し、密偵の馬元義を捕らえる功績。少帝の即位に尽力。袁紹による諸侯を呼び出す檄文。
最後は同じ何氏同士での対立、宦官との権力争いで殺気だってる宮中にのこのこ現れ、宦官に率いられた兵たちによって殺害。

結論から言うと…肉屋に将軍なんてやらすもんじゃなかった。
部下に後の名将を含む袁紹、曹操、盧植、陳琳、王匡、橋瑁、鮑信、張楊、張遼達にがいたのにも関わらず、部下の忠告を無視し、宦官の手の中で踊らされた残念な人、君主としてはかなり低い能力ではないのかと思います。
> 無糖さん
個人的には曹操や袁紹のように、漢王朝の中でも実質的に組織の中でまごうことなきトップにいた人物と違い、何進は十常侍など同程度の権力を有していた存在が複数いたことから主君とは呼べないかなと思ってしまいました。しかも組織に所属した者達が何進に忠誠を捧げていたわけでもありませんし。


とはいえ細かいこと言って興を削いだのはちょっとまずかったですね、以後気をつけます(苦笑)
> 南溟道人@21世紀天皇さん

そもそも彼の過剰なまでの売官が乱世を招く決定的な要因の1つであることを考えると、ある意味最も暗愚な君主だったと言えるかもしれませんね。
>霊帝

資料が完全ではない、との前提ですけれど。

売位売官で得たお金、霊帝の懐ではなく、国庫に入っていたとする説もあります。
> 南溟道人@21世紀天皇さん
当時の漢王朝の財政は相当厳しい状態だったのですから、当初はそれだけが目的ではなかったかもしれないですね。

とはいえ官位を買うのに使った莫大な金を取り戻すために三公〜下級役人に至るまで賄賂が横行し、その結果として民衆の疲弊と困窮、ひいては黄巾の乱を発端とした群雄割拠を招いたことを考えると情状酌量の余地は全くないと思います。
そもそも「霊帝」などという諱(いみな)自体がダメダメさを表しているなんて話を聞いたことがあるんですが…。
暗愚の筆頭は間違いなく劉禅でしょうが、無能と言えば曹カン(魏の最終皇帝)でしょうかわーい(嬉しい顔)

史実によると皇帝なのにも拘わらず、司馬イ(一族だったかも知れないです)が来ると、平伏していたそうですからむふっ
>ルパン4世様、南溟道人様、まひ姉様
霊帝の先代の垣帝が
かん官に養子を持つ事を許可したため
今まで一代限りの権力を持つ事しか執着しなかったのに蓄財をするようになったため
経済が停滞し、財政難になった説もあるそうです。
というかこの男が跋扈将軍と呼ばれた豪族退治でかん官の世話になったため権力増大させたらしく
党錮の禁も容認してます。
つまり霊帝暗君化の原因はコイツのせい。
とかいう妄説を思いついたのですが如何でしょうか?
>無糖様
個人的にはダメな方向で余り評価されてない指導者とか、上に立つ人間のどうした行為が皆嫌いなのか(例 劉備達、思い入れのある英雄が人生をかけて築いた王国を何の抵抗もせず明け渡した>降伏した君主でコイツだけは許せない)
とかを見たいので、厳密な線引きはしなくて良いんじゃないかと思います。
もしかしたら誰も気付いてない大物が見つかるかもしれませんし。

なお、何進肉屋は袁紹が従っていることから地方豪族だったのではないか?という説もあるそうです。
だから、庶民出の無能ではなく「ただの無能」だったかもしれないんですよ!
……あー、やっぱり実績なしの1日署長みたいな人間が本当に責任者になるとダメですね。
病欠怪人様>
霊帝について後漢書を調べたけど特に意味は書いてませんでしたが
Wikiで無道の帝に贈られる最悪の称号と紹介されてますね。

あと、かん官が宮殿並みの贅沢な建物を内緒で建ていて、ある日霊帝が高台に乗って町を見ようとした時「貴人は高い所に登るものではありません」と言って自分たちが贅沢をしている事を隠し通した逸話から
秦の2代目は趙高から馬を鹿と教えられ、それを信じるほどの馬鹿だったが、霊帝はそれに並ぶと評価されてました。漢王朝の中ではワーストワンだったと言うことでしょうか?
無能という名称は、アグレッシブに悪政を行うよりも、対処すべき事態になにもせずにいることを指す方がしっくりくるみたいですね。
統治期間が長く減点が多く名君としてのエピソードが無い君主ほどこれに当てはまる気がします。
あとは知名度に依存する形で。

なお、陶謙は正史だと皇帝自称の賊と協力しその上まえを強奪したり使者の呂範を幽閉したり、無道の人と呼ばれており、余計な騒動を持ち込んで良民10万を死なせ、立派た無能だと思うのですが如何でしょう?

>南溟道人様
帝位禅定したのは献帝だけど、その大元の原因は先代が作った事を考えるとやりきれないですな。
> 穀潰さん

>桓帝無能論

『有能でない』とするならば、桓帝もそれに当てはまる事でしょうね。

ただし、桓帝が即位した時には既に梁冀は皇帝を毒殺できるまでの権勢を振るっており、宦官と組むぐらいしか選択肢はなかったように思います。

平凡な皇帝が限られた選択肢の中から事を成し、結果ある程度成功を収めたのですから、有能ではなくとも『よくやった』という感じを持っています。


それと、党錮の禁は1次2次とあり、桓帝存命中に行われた1次では死罪は課せられず、公職追放などが主流だったはず。 どちらかと言えば、桓帝時代は宦官も節度を守っていましたが、皇帝の死により肥大、横暴となったのではないでしょうか?


最後に、宦官だってピンキリ。 紙を発明したのも宦官だし、曹操の祖父だってそうですよ。
話ぶった切りですが、「韓馥」をあげます。

冀州の牧として参戦した董卓討伐戦が全盛期。
その後、袁紹に睨まれ中原のイイトコを領有してるのに配下領地全部含めて謙譲して降伏。
張邈の元に身を寄せてた時に袁紹からの使者が来て「俺を殺す気だ!」って勘違いして便所で自殺。

これほど情けない君主(厳密には君主じゃない気がするけど)は見たこともありません。
中々袁術さんじゃないっすか?

周りで諸国が睨み合いし合ってる中で、まさかの、まさかの天子僭称してしまいますからね笑

しかももう世の中に存分に名の挙がってる曹操、呂布、孫家達の睨み合いなのに。。
> マユミッキーさん

詐称って言うなら劉備も孫権もそーだからなぁ・・・。
袁術が詐称した時だけで言えば、袁紹=袁術=公孫瓚くらいが中華での派遣争いの中心だったんじゃないかな。
袁家自体は確かに名門であったから、勢力がちゃんとしてれば僭称→そのまま即位もありえたんじゃないかと。まぁ、袁術じゃ・・・。ってのが歴史を見た人ほとんど全ての意見だとは思いますよ。

で、袁術自体は確かに衰退した君主と言えると思うけど、それを言うなら他も山程って気がするんですよね。
拠点も固まらない間に僭称したのは、名門としてはありえねー(盗賊なら山ほどそんな人はいる)と思うけど、一番無能か言われたら「袁紹と同レベル?」って気がします。同族ですし。
派遣争い→覇権争い

なんか職業斡旋を競ってるみたいになってしまった。誤字失礼。

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