アテネの悲劇作家ソフォクレスの『オイディプス王』と『アンティゴネー』。
どちらも主人公の英雄的な努力が数奇な運命によって思いがけない結末を生む。
しかも、主人公が何を「する」かではなくて何者で「ある」か(アイデンティティ)というところに問題の根源がある。
どんなに英雄的な努力をしようと、主人公たちの挑戦は最後は打ち砕かれる定めにあるというところが悲劇の悲劇たる所以である。
ここで愛国的な青年クニオ君を想像してみよう。
彼は日本人としての自分に誇りを持っている。
国を敬い、天皇陛下を敬愛している。
日本人の心を理解するために『万葉集』や『古事記』を精読している。
国旗を見たり国歌を聴いたりすると、心の底から愛国心が湧き出てくる。
日本人に生まれてよかったなと思うし、日本男児として恥ずかしくない生き方をしようと日々努力している。
ある日、両親がクニオ君を呼んで驚くべき事実を明かす。
実はクニオ君は本当の子ではなく、中国から養子としてもらわれて来たというのだ。
当然、クニオ君は愕然とする。
いままで自分のやって来た行為というのは実は皆「偽り」であったのだ。
自分が心の底から感じていた愛国心というのまで「偽り」の感情だったのだ。
こんなものが悲劇のプロットなわけであるが、そこに込められている教訓は次のようなものである。
第一に、我々の行為の意味というのは我々が何者であるかという理解にかかっている。日章旗を敬う行為は日本人だから愛国的な行為なのだ。
第二に、この自己理解が変わると、過去の行為の意味までがガラッと変わってしまう。「中国人」が日章旗を敬うのは愛国的ではない。むしろ「売国的」である。
第三に、この自己理解というものは往々にして運命によって定められていてくつがえすことができない。人が何に生まれつくかは選択できないのである。
生まれついた「本当の自分」ではないものになろうと努力しても、最後はこの運命の前に無惨に打ち砕かれる。
こんな悲劇に我々が感情移入するのは、多分我々が実生活乗り越えられない壁(「運命」)を感じているからだろう。
でも、現代社会ではこうした壁というのがある程度壊されて、アイデンティティというのが流動化している。
帰化を通じて国籍も変えられるし、性転換を通じて性別も変えられる。
本当の親じゃない人の子供にもなれるし、親が百姓でも子供はビジネスマンになれる。
痩せっぽちの人は筋トレを通じて逞しくなれるし、不細工な人は整形して美しくなれる。
生まれついてのアイデンティティに縛られることの少ない現代では悲劇は少ないはずであるが、そうでもなかったりする。
第一に、現代社会では、自分が何者であろうという問いに対する答えが周りから与えらないので、自分で決めなければならない。
そのためには、日々の行動を通じてそれを実現しなければならない。
自分は「学者」だと一人で言い張っても、周りの人がそう認めてくれなければ「学者」にはなれない。
そのためには、日々勉強して大学を受験して、知識や教養を高め、それらしい職業について、それを他人に認めてもらう必要がある。
「...である」というアイデンティティは「...をする」ことによってしか作られないのである。
でも、当然こうした努力が身を結ばないこともある。むしろ、自分の「夢」をそのまま実現できる人の方が少ない。
第二に、アイデンティティは他人との関係によってしか作れない。
自分が自己に抱くイメージが他人に受け入れられるとは限らない。
俺は「やさしい男」だからもっと女にもててもいいはずだと思っていても、周りがそう思ってくれなければ独り善がりにしかならない。
ここに行き違いが生じる余地が生まれる。
第三に、流動化したとは言え、クニオ君の場合のように、まだまだ生まれによって決められてしまうアイデンティティがある。
国籍は日本人のクニオ君であるが、「民族」としては日本人にはなれない。
性転換で「女」なった人も、「性転換した男」としてしか見なされない。
同性愛者が子供を養子にしても「保護者」であり「親」としては認められない。
民族とか性別とか家族のあり方に関する不寛容というのは、必ずしも前近代の名残ではない。
多分、近代における「本当の自分」というのが不確定で、他人にそれを認めてもらうには努力を要するという事実からの逃避でもある。
「日本人は美しい民族」とか
「男が恥ずかしくて便座に座って小便なんかできるか」
というのは、逆に言うと大した努力無しになれる「日本人」とか「男」というアイデンティティを美化して、それに当てはまらない人々に対する安っぽい優越感に浸っているだけとも言える。
こうやって考えると、悲劇の原因というのは、与えられたものにしろ自分で選んだものにしろ、他人との関係を無視して独り善がりのアイデンティティにしがみつくことによって生じるのだという気もする。
アイデンティティがあらかじめ決められたものでないという議論でよく引き合いに出されるのが性生活。
セックスにおいては、「男」だから、「女」だから、「日本人」なんていう既存のアイデンティティというのは邪魔である。
はじめからセックスを知っている人はいないから、自分の性的な嗜好というのはベッドの上で互いを刺激しながら「発見」もしくは「開発」してくものである。
「ああ、私にこんな面があったんだな」と驚いたりするのが性生活の楽しみでもある。
寝室の外の生活においても、人生の道のりで出会う他人との関係を通じて自己の知らないアイデンティティを「発見」、「開発」していくことにもっとオープンになれば、自分が何者かということから生じる悲劇も喜劇に変わるのではないかな。
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