渋沢栄一と南湖公園の間には、松平定信を介した深い関係があります。
松平定信と南湖公園
まず、南湖公園は、江戸時代の白河藩主であった松平定信(楽翁と号す)によって築造されました。享和元年(1801年)に完成したこの公園は、「士民共楽(しみんきょうらく)」という理念のもと、身分の差に関わらず誰でも自由に利用できる日本最古の公園と言われています。当時の庭園は一部の特権階級のものでしたが、定信は垣根を設けず、庶民にも開放することで、領民の融和と憩いの場を提供しました。また、築造工事は困窮者の救済事業としての側面も持っていました。
渋沢栄一と松平定信への尊敬
渋沢栄一は、松平定信を生涯にわたり深く尊敬していました。定信が老中として行った「寛政の改革」における「七分積金」制度(非常時に備えて金銭や穀物を蓄える制度)は、後の東京のインフラ整備にも活用され、その運用に渋沢自身も携わっていました。渋沢は、この制度が定信によるものであることを知り、定信の事績をさらに学ぶことで、偉大な政治家として敬愛するようになりました。
特に、定信が困窮者や孤児を保護する福祉施設「養育院」の設立に尽力したことや、その精神に深く共感し、自身も養育院の院長を長く務めました。毎年、定信の命日には「楽翁公記念会」を開催し、定信の功績を称えていたほどです。
渋沢栄一と南湖神社の創建
このような松平定信への深い尊敬の念から、渋沢栄一は南湖神社の創建に大きく貢献しました。
大正5年(1916年)、白河町の有志が、大正天皇の御大典記念として、松平定信を祀る南湖神社を南湖に建立する計画を立て、渋沢栄一を訪ねました。定信を敬愛していた渋沢は、この計画に大いに賛同し、「楽翁公奉祀表徳会」の総裁を引き受けます。
そして、渋沢は、神社の建立に向けて多額の寄付を行うとともに、設立認可への政治的援助、さらには著名な画家による日本画の奉納や、南湖神社の標柱の揮毫(きごう)など、さまざまな形で支援を行いました。その結果、大正11年(1922年)に南湖神社が創建されました。渋沢栄一自身も、鎮座祭に参列しています。
まとめ
* 松平定信が南湖公園を造って庶民に開放した事業に、渋沢栄一が直接的に協賛したわけではありません。 南湖公園は定信が築造したものです。
* しかし、渋沢栄一は、松平定信の理念(特に社会福祉に関する考え方)に深く共感し、尊敬していました。
* その尊敬の念から、定信を祀る南湖神社の創建に、渋沢栄一が中心となって多大な援助と尽力をしました。
つまり、南湖公園は松平定信の功績であり、南湖神社は渋沢栄一が松平定信への敬意を表すために創建に貢献したものです。この二つの存在は、松平定信という偉人を介して、渋沢栄一と深く繋がっていると言えます。
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