「それぞれの出来事が、いろんな細かいことの結果としてできあがって、
それがまたいくつか重なって、
その結果として今の状況になるということは
『ひとことで言って』に絶対にならない。
『ひとりでにこうなっちゃったこと』が集まっている、世界は。
すべてはこちらの『ものの見方』だと言ってもいい」
〜養老孟司(NHK BS「まいにち養老先生、ときどき〜2024」より)
よく言われる喩え話。
コップに半分残った水を見て「もう半分しか残っていない」と嘆くか、
それとも「まだ半分も残っている」と希望を持つか。
全く同じ状況であっても、見方が変われば、自分をとりまく世界をどう捉えるかの認識が変わる。
世界をどのようにとらえるか?それが変われば、自分も変わる。
以前、あるマイミクさんから、私の考え方は「認知行動療法の王道」とのコメントを頂いたことがある。
彼は寒い雨の中、夜道に迷い「なんでこんな目に会わなくてはならないのだろう」と、とても悲しい気分になったそうだ。
その気持ちはよく分かる。
ただ、それに対する私のコメントには「たまたま寒い雨の日に道を間違えたと、それだけのこと。それで悲しい気分に陥る必要はないと思いますよ」と返した。
私自身は、認知心理学や臨床心理学等を学んだことはないのだが、社会人として、あるいは家内から見れば夫としての長年の経験の中から自然と身につけていった思考パターンが、どうやら認知行動療法と同じ方向にあるらしい。
確かにマイミクさんに起こったことは、決して良くない出来事だ。
自分でもそうなったら、きっと気が滅入るだろう。
それでも「道を間違えたのが,たまたま寒い雨の夜だった」と思うか、それとも「何で自分だけこんなひどい目にあわなければならないのだろう」と思うかで、同じ出来事でも世界は全く変わってくると思う。
意識して、あるいは無理して「ポジティブになろう,元気になろう」と自分を奮い立たせたりすること。
または「頑張ること」「努力すること」。
私にはこれはできない。
「頭では分かっていても…」と、頭と心が違う方を向いているような感じがする。頭に心がついていかない。
見方・考え方を変えてみる方が、ムリなくできるし、自分自身もストンと腑に落ち納得できると思うのだ。
頭と心とが、整合性をとって同じ方向を向く感じ。
見方が変われば、自分も変わる。
世界をどう見るか。その「見方」を「味方」に付けて。
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