平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧といわれた覚鑁が高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。
その後覚鑁一門は高野山を下りて本拠地は高野山から根来に移った。
根来寺の創建である。
室町時代末期の最盛期には坊舎450を数え一大宗教都市を形成。
寺領72万石を数え、1万余の根来衆とよばれる僧兵軍団を擁した。
信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいては徳川方に通じ、留守であった秀吉方の岸和田城を襲ったほか、南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の紀州攻めを招くこととなった。
そうして一大勢力を誇った根来寺は滅んだわけだが、その後御三家の紀州入りで復興。
これがまあ根来寺の簡単な歴史でもある。
先日ここに行ってきた。
寺域は高野山のそれによく似ている。
入り口には大門。
それに続く道のあたりは堂塔があったと思われる平坦な土地。
そしてさらに進むと光明殿(高野山の金剛峯寺に当たる)。
さらにその奥には大塔エリア。
ここは高野山では伽藍に当たる。
そしてさらにその奥には奥の院もある。
秀吉の焼き撃ちですべて焼き尽くされてしまったが
一部焼け残った堂塔もある。
大塔(国宝)は木造の多宝塔では最大。
焼け残った堂塔の一つであり秀吉の紀州攻めの時の火縄銃の弾痕がいまものこされている。
そしてまた根来塗は漆器の元祖とも言われており海南市に黒江塗として居間に引き継がれている。
ここを訪れると
秀吉に攻められて全滅した悲しみを思い浮かぶ。
今も歌い繋がれてきた根来の子守歌の一節。
「ねんねねごろのかくばんやまでよ〜
東照寺来いようの鳩が鳴くよ〜」
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