mixiユーザー(id:65260562)

2022年08月08日22:12

71 view

邪馬台国は東北にあったという考え方は無いの?

7世紀の終わりから8世紀にかけての遠征で朝廷が東北を下すまで、東北には東北独自の文化があったわけですよね。
縄文時代まで遡れば、海を使った交易の痕跡も残っているわけです。
では、縄文時代が終わり、紀元前4000年頃から、朝廷に平定される8世紀初頭までの東北って?

東北平定後の1124年に中尊寺の金色堂が建立されたわけですが、この情報が当時交易のあった朱(中国)にもたらされ、ジパングを求めて東の果ての中国に来たマルコポーロに伝わったとの説もあるわけです。

1124年当時に独自の経路で中国と交易をおこなっていたのなら、それ以前から行われていても不思議ではないわけですよね?
それは一体、何時まで遡れるのでしょうかね?

宮城県栗原市・入の沢遺跡から銅鏡が4枚、それも住居跡から発見されたそうです。
銅鏡は、重要な埋葬品で、住居跡から見つかる事は無いそうです。
この銅鏡は、中国製の銅鏡を模した日本製だそうで、古墳時代の物だとか。
因みにこの遺跡は、密度の濃い約50軒の住居からなっており、外的対しての防御を施した遺跡だそうです。
防御をしなければならないという事は、当然敵が居たわけです。
特定されていないだけで、当然、その敵の遺跡もあって然るべきなんですよね。
銅鏡の残されていた家屋は、焼失していたそうで、重要な物=銅鏡が持ち出される事無く残されていた事から、家事などではなく、襲撃=外敵によって滅ぼされたのではないかと言われているわけです。

さて、入の沢遺跡は、誰によって滅ぼされたのでしょうかね?
当時、国産品とはいえ、重要な銅鏡を持つような集落ですから、それなりに力があった集落なんだと思いますよ?
それを滅ぼす事が出来るのは、それ以上に力のある存在ですよね。

因みに邪馬台国は、朝鮮半島西側中央部から、1200kmの場所にあり、不弥(ふみ)まで、1,070kmで、その南に位置すると書かれているそうです。
この不弥が分かれば、凡その場所が分かるわけですが、この不弥を福岡県宇美として彼是議論が展開しています。

朝鮮半島の西から、日本海側は対馬海流が流れており、その流れは津軽海峡を越え、太平洋側に至ります。
であれば、日本の日本海側に船を着ける事は容易で、また、津軽海峡を越え太平洋に至るのであれば、東北全般、割と何処までも行けてしまえるわけです。
太平洋側に出てしまえば、今度は親潮があるわけですからね。

仮に八戸を港だとして、そこが「不弥」とするならば、そこから南へ130km行ったところに、盛岡があります。
盛岡は、旧石器時代の遺跡から残されており、少し?南下すると、古墳時代のものと思われる、最北の前方後円墳が作られています。(奥州)

という事は、3世紀前後には、そこを統治するそれなりの方が居て、それなりの規模の集落があったわけですよね。
入の沢遺跡は、盛岡から100km程南で、130kmは、その時代において交易の為に移動できる距離なのであれば、進軍するための移動も出来たわけですから、粗々ですが辻褄は合うわけです。
後は、朝鮮半島の中西部、帯方郡から八戸までの距離になるわけですが、明らかに突き抜けてしまう九州と比べれば、遥かに近似値の1,200kmに対する約1,300kmという現実的な誤差になるわけです。

因みに、青森の遺跡からは、漆塗りの女性用の櫛が見つかっています。
わりとざっくりですが、東北の文化圏には、女性が櫛を使う=身だしなみに気を配る文化が縄文時代にあった事を意味します。
また、巫女を模した埴輪(古墳時代)も発見されており、青森から盛岡を経て石巻に至る経路では、遮光土偶と呼ばれる独特な土偶が出土していて、それは女性をかたどったモノと言われているわけです。
いわば、女性を祭る文化があったと推測する事も出来るわけですよね。

であれば、女性を主(あるじ)として頂点に置く文化があっても不思議ではないわけですよね。

外に出て働く男は比較的死にやすく、東北などの気候が厳しい土地においては、その傾向が顕著だった事は、想像に難くないわけです。
であれば、神託が下る巫女=女性を頂点に抱き、政権の長期化を図る文化が根付くのも、然程特殊な事でも無い様に思うんですけどね?

まぁ、所詮は素人の戯言ですが、一旦は、邪馬台国東北説=盛岡=邪馬台国という妄想を述べておきます。

邪馬台国のその後は?という話ですが、8世紀初頭に朝廷の権力が東北に及んだ際に完全に滅亡したのでしょうが、その手前の6世紀から7世紀にかけて、寒冷期があったそうですから、そこでほぼ衰退しきったのではありませんかね?
これも推測ですが、入の沢遺跡を盛岡の邪馬台国が滅ぼしたとするならば、さらに南下してもおかしくはありませんよね。
何故ならば、朝起きたら、近年8千年で一番寒かったという話しではないでしょうから、徐々に寒くなっていっていたはずなんですよね。
作物は採れなくなれば、少しでも採れる南を目指すのは道理なわけですから。
加えて、4世紀から6世紀にかけ、朝鮮半島はきな臭い状況になっていて、統一王朝を樹立する戦乱時代にあったわけですよね。
であれば、日本と交易するのに、リスクのある陸路を取るよりも、大陸から直接船で乗り付けた方が合理的なわけですよ。
大陸からなら、黒潮に乗った方が遥かに楽なわけですから、そういった情報も邪馬台国にもたらされていた可能性はあるわけですよね。
かくして、盛岡で栄えた邪馬台国は、自然環境の変化、中国側の事情により、南下し、太平洋側を目指す事になったのではありませんかね?
その末裔が、蝦夷として朝廷と闘い、滅ぼされ、歴史上から消されてしまったと。

ネットで拾える情報を繋ぎ合わせただけですから、実際のところ、どうなの?という話は残りますが、距離を間違えた、方角を間違えた、だから、熊本だ近畿だと言うよりは、辻褄が合うように思えませんかね?

約1万5千年まで遡れる縄文時代があって、その時代から、女性が身だしなみに気を使える文化があったとみられる三内丸山遺跡があり、女性を模したと思われる特殊な土偶=遮光土偶が出土されている場所が、東北なわけです。
盛岡から南には、北上川に沿って、北上盆地という広大な平野部が広がっていて、そこから南方の一関に掛けて、数多くの遺跡が発見されているわけです。
そこから、山を越えて海に至った石巻でも、遮光土偶が発見されているので、北上盆地の文化と石巻の文化は少なくとも交流があり、遮光土偶が女性を崇める偶像であるとするならば、盛岡以南石巻までの細長い文化圏が成立するわけですよね。

とまぁ、色々と考えると、盛岡=邪馬台国 ありなのかも知れませんよ?w




■文化的な断絶から見る邪馬台国と大和朝廷の関係
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=112&from=diary&id=7065489

歴史には謎がつきもの。
史料や証言から「その時なにがあったのか」に思いを巡らせるのが歴史の醍醐味の一つだが、古代となると史料は限られ、想像は難しい。

江戸時代から論争になっている「邪馬台国の場所」はその最たるもの。日本最古の書物とされる「古事記」でさえ書かれたのは8世紀であり、邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。

『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は当時のことを知るための唯一の手がかりである「魏志倭人伝」を紐解いて、邪馬台国の場所と日本のルーツについての新説を提唱する。今回は「邪馬台国は大和にあった」とする自説の着想について、著者の藤田洋一さんが語るインタビューの後編だ。

藤田洋一さんインタビュー前編を読む

■現在の日本人のルーツは「南朝鮮」にあり

――第2部の大和朝廷の成り立ちについては「フィクション」とされています。このフィクションを作り上げたプロセスについて教えていただければと思います。

藤田:きっかけは韓国ドラマの「朱蒙」を見て、のちに百済を建国した朱蒙の一族の旗が「3本足の烏」であることに気づいたこと。そして大和朝廷にも「3本足の烏」の旗があったこと。大和朝廷と百済が親密な関係にあったようだと考えられることが私のフィクションの原点です。




もう一つは「魏志倭人伝」に「狗奴国」という国が出てくるのですが、この狗奴国が邪馬台国と争っていたんです。それで卑弥呼の邪馬台国は魏に援軍を求めたのですが、断られたということが書かれている。ただ、その結末がどうなったかは書かれていないんです。その空白への想像力も創作のきっかけになりました。

――藤田さんはこの戦いの結末はどうなったと考えていますか?

藤田:私は狗奴国が勝った可能性が高いと考えています。というのも、卑弥呼の娘のトヨについて書かれたあと100年間ほど、中国の歴史書に倭が出てこなくなるんですよ。そしてその空白の間に色々なことが変わりました。邪馬台国の人々は刺青をしていましたが、大和朝廷が成立するとその習慣はなくなりました。あとはお墓ですよね。卑弥呼の時代の埋葬は穴を掘って埋めるだけでしたが、大和朝廷になると古墳ができます。そこには大きな文化の変化があった。

――邪馬台国的な文化が消えて別の文化に置き換わった。

藤田:中国の歴史書に出てこなくなることと、文化が一変したことを考えると、統治者が変わった可能性があるんじゃないかと考えています。

また「古事記」には神話がたくさん書かれているのですが、卑弥呼は出てこないんですよ。もし邪馬台国と大和朝廷に何らかの連続性があるのであれば、「古事記」に卑弥呼のことが書かれていてもおかしくないのですが、一切出てこない。それを考えると邪馬台国と大和朝廷は、場所が同じだけで政治的な連続性はないのではないでしょうか。

そう考えると邪馬台国は滅ぼされたと考えられます。邪馬台国と狗奴国の争いがどうなったかは今となっては知りようがありませんが、おそらく狗奴国が勝ち、邪馬台国に取って代わった。その後に大和朝廷ができたのではないかと思います。




――「タケルの遠征」のところがリアリティがありました。行軍のたどった道のりなどはある程度資料などから裏付けられているところがあるのでしょうか。

藤田:南朝鮮にいた人々(本の中では「ネオモンゴロイド」と呼んでいます)が大和にたどり着くのは簡単ではありません。色々な経過をたどって大和周辺まで来たのでしょう。堺周辺には古墳がたくさんありますし、出雲と吉備が戦ったという記録もあります。

しかし行軍のたどった道のりなどはどこにも資料などはありませんから、想像で書くしかありませんでした。ただ小説内には書きませんでしたが神武東征(神武が東に行った)と言う話が古事記に書かれていて、「八咫烏が神武天皇を大和へ導いた」という話は私が書いたタケルが南朝鮮から堺に移動して最後は大和に行った話と符合すると思っています。

――最後に、読者の方々にメッセージをお願いできればと思います。

藤田:私の文章では、先ほどお話ししたネオモンゴロイドが大和朝廷を作ったとしています。現在の日本人の主だった人々はこのネオモンゴロイドの子孫なのです。このネオモンゴロイドについての研究が遅れているので、今後はこれらの人々について解明される日が近い将来くるだろうと考えています。

実際もし、私の話が本当で、ネオモンゴロイドが大和朝廷を作ったとすると、その周りにいた家臣や一族は当然ネオモンゴロイドですし、それ以降の歴史に出てくる人もその流れを汲んでいるはずです。これは今のところ私が唱えているだけの説ですが、将来学者たちが深く研究してくれることを願っています。

(新刊JP編集部)

藤田洋一さんインタビュー前編を読む
新刊JP

元記事はこちら
部下の本音を聞き出す「心理的安全性」の作り方
過酷すぎる権力闘争!平安宮廷社会を生き抜く貴族のノウハウ
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する