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2022年07月10日11:55

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母介助日記7月10日(日)朝分(母、ソケイ部骨折、入院の五日後)

母介助日記7月10日(日)朝分(母、ソケイ部骨折、入院の五日後)

昨夜の寝付きは一時半(寝られないと思って自前の中国古代物DVDを見出したがすぐに眠ってしまった、思い込み先行が分かる)、四時半にトイレ起きするがアイスノン枕を代えてすぐ寝れた。

リアルな訳の分からないスペクタクルな夢をみている途中でピンポン音、目覚めて時計を見ると八時ちょうど。外を覗くと誰もいない。日曜早朝から雨戸が閉まっている家への宗教の勧誘もないだろうし、無配慮なご近所さんもいないから、幻聴か。これは、以前から思い出したように、寝ている朝の同じ時間帯に何回かあることだ。
起きる気はなかったが、ピンポン音を聴いて体温が上がり、この際、寝起きの血圧を測るかと八時半、血圧測定144/81、体温36.5度、酸素飽和度98。朝一の血圧が140台まで下がったのは良し。
九時、簡単な朝食を用意しNHK日曜美術館(こういう番組が心地よく感じる)を見ながらとる。
朝食後十時、仏壇セット、血圧測定132/80、体温36.9度、酸素飽和度97。降圧剤と整腸剤。血圧上昇なく安心して二階仕事部屋で、昨日公開した新旧ブログの書き換えた過去記事の最期を加筆修正*し、十一時半。

今日は涼しい曇天なので先ず、家庭ゴミをまとめ、外の物置内外に仮置きしているものと、これからまとめる屋内のものを、ゴミ出ししてしまう。



スクナヒコナが去った後の「国造り」の終盤、三輪山にオオモノヌシが祭られた。
私個人的には、それは、

三輪山地方は、「テュルク族」の開拓した産鉄地帯であり
「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」の本拠地だった
「神武東征」で「テュルク族」を下した「濊(わい)人」もそこを本拠地とした
島根半島東部の産鉄地帯に産鉄民として定住していた「出雲族」を転住させた
スクナヒコナが去った後の「国造り」譚の終盤の、
 オオモノヌシを三輪山に祀る神話語りはこの入植を正当化するものだった
「テュルク族」は下ったとは言え最大の軍事勢力であり、その「くに」ぐにはそれぞれの産鉄拠点を持ったから、
 武器製造などを禁止し、これを中央政権から監視監督する必要があった
 その役目を協力的な「出雲族」一派(外戚勢力として取り込む)に担わせた

と考える。

一方、

重要なことは、

この三輪山の麓が、その名が「テュルク族」の最後の砦を守った兄磯城・弟磯城に因む「磯城(しき)の地」だった

ということである。

つまり、
初期ヤマト王権樹立の当初段階から
血統的に異なる由来の「出雲系」と「大和系」の二大外戚勢力は
本拠地という空間的には重なっていた
と言える。

三輪山の麓「磯城の地」には、

記紀では第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇などの宮が営まれた地と言われる纒向遺跡や
倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が埋葬されているとされる(一説には卑弥呼の墓とも言われている)箸墓古墳が存在する。
この地域が狭い意味での「ヤマト(三輪山の麓の意味)」と呼ばれ、
やがて勢力が確立するにつれ奈良全体を「大和」と呼ぶようになり、
やがて日本の呼称となっていった

という説もある。  

大和系の外戚勢力は、
必ずしも「テュルク族」の末裔ではなく、
磯城縣主を首領として「磯城の地」を本拠地に大和地方の都造営などに力を発揮した政治主導の勢力。
(旧建設省に影響力を持った建設族のような立ち位置)

出雲系の外戚勢力は、
必ずしも「出雲族」の末裔ではなく、
そもそも国内交易ネットワークの譲渡で立場を得た延長で保身して
もと「テュルク族」の「くに」ぐにの産鉄地帯の監視監督
宗像地方で「安曇氏」と協働する同盟「出雲族」本流と連携しての前方後円墳の全国展開
天皇への初物朝貢を建前として通行特権を持った「贄人」化した「安曇氏」と連携しての国内外交易
などに力を発揮した経済主導の勢力。
(旧通算省に影響力を持った通産族のような立ち位置)

そのような対峙勢力を構成するようになっていったのではなかろうか。
記紀において外戚の系譜が不確定であるのはそのためではないか。
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