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2022年07月07日13:30

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みろくの夜明け前-26 自分とは一つの意識では無く、多数の意識の集合体。人は霊止なので、多くの霊の思い(意識)下にある

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 大本教から【人は霊(ヒ)止(ト)】だという画期的な教えが出されました。これは仏教にもキリスト教にもイスラム教にも書かれていない教えです。無論そこには【人をヒト】と読む日本語が存在しなければ、【霊止(ヒト)】とはを出せるような教えではないのです。

 仏教では【真我(しんが)】を説きます。その真我とは【本当の自分】のことだと解説されています。それで意味が解る人がどれだけあるのでしょうか?。今生きている肉体たる自分を見つめて、その肉体の自分以外に真の我たる【真我】の自分が存在している?。だとすれば、今の世に生きている自分とは何だ?。となります。


仏教で説く【真我(本当の自分)】とは、何の意味?


 この真我とは仏教の元の教えであるバラモン(ヴェーダ)で語られる【アートマン】のことで、自分の意識の最も深い内側にある自分の意識の根源を真我と呼ぶのです。仏教ではこの真我を逆に否定して【無我】を説いたなのです。しかしそれだけでは誰も意味は解らないなのです。真我と無我は【相反する】からです。


真我と無我は相反し、どちらが正しいかの論争になる


 この答えが解るのが、大本教が出した【人は霊止】の言葉なのです。


 日本の仏教はお釈迦様の本来の悟りである小乗の教えと、ヒンズー教の諸天諸仏の存在が大乗仏教として一緒に入っていますので、【真我と無我】の相反する教えでは理解が困難となります。バラモン教の後継であるヒンズー教は、輪廻の主体となるものを【アートマン(真我)】としたなのです。だとすれば【無我】だと【輪廻転生】は生じないとなるのです。


無我ならば、輪廻転生は起こりえない


 確かに【真我】を否定するのであれば究極は【無我】であり、無我には【喜怒哀楽】は生じないとなります。そうなりますと輪廻転生を起こす【種】そのものが無くなるのです。人は無我に成ればモウ二度とこの世に出て来ないは論理としては正しいのです。


人に我がある限り、喜怒哀楽から逃げることは不可能


人は喜怒哀楽があるから霊止となり、生きるを知る


 大本教神諭にはウシトラ金神国常立尊の言葉として、人は過度の我があってはならない。されど我が無いなどもあってはならないと、まるで禅問答のようなことが書かれています。普通ならば神ならばどちらかに決めよ!。と言いたいところです。しかし神に【喜怒哀楽】が無ければ、創造神は宇宙すら創らなかったかも知れないなのです。


人は誰しも作る(農作物の生育等)ことに喜びを得る


 大本教から魂論として【一霊四魂】と【五情】の存在が説かれましたが、それは非常に重大な内容だったのです。無我だと【五情】すら発生しないからです。情が無くて、生きていて嬉しいですかとなります。


神も人も【情】で動く。そこに大本教は【五情】を説いた


 私は宇宙創生の初発の霊的映像を見させられて、それは仏教で説かれる【無から有が生じた】であり、日本神話でも語られる【混沌(カオス)】から生じたと解りました。

 私はそこに仏教の【無】から【有】で【無に戻る】ではなく、逆にこの宇宙を創造した【意識】体たる神。創造神と呼ばれる神の存在。その創造神の息吹が【言葉】であると知ったのです。そしてその言葉とは驚くことに【日本語】なのです。宇宙人と称している者達が出すキンキンした音などは、とても【神の言葉】などでは無いなのです。単に音に過ぎないなのです。


聖書の神は言葉と共にあったの言葉とは日本語か?


国常立尊には、国に常に立つ御言(みこと)もある


 確かに霊的世界にはスピリチュアルで語られる様な金属音を出す乗り物に乗る霊人達の存在も見られますが、彼等は宇宙を創造したような存在ではなく、単に霊人達に過ぎないなのです。こうした問題は次元界で語られることであり、彼等は三次元世界に住む私達人間よりは一次元界位は高い存在かも知れませんが、彼等は創造神など呼ばれる神たる世界の存在では無いと知ることも大切なのです。


人の肉体には一つの魂が在り、その魂を自分と言う


 大本教神諭に【一つの魂に一つの肉体が授けてある。】とありますが、通常一人の肉体には一つの【魂】が宿っています。そうした魂があることは世界のどの宗教にも説かれてはいますが、キリスト教やイスラム教には魂が【輪廻転生】を起こしているなど書いてもいないでしょう。

 しかし例外とされることもあり、それは一つの肉体に複数の魂が【共有】しているがあることです。こうした場合は【多重人格】を引き起こしますが、それらはその魂の過去世における【神罰】として出ていると見受けられます。


 スピリチュアル標榜だと気付くことはあまりないのですが、多くの人がその魂の過去世の行いから、今の肉体に【神罰】を受けているは多いのです。何で自分はこの世でこんな目に遭わなければならないのか?。そうした愚痴が出る内容に、過去世からの自分の罪の解消があまた見られるのです。


多くの人に、今生で過去世で積んだ罪の解消が見られる


この世は魂の修業場で、各自の業(カルマ)を修める修行


 しかしながらそうしたことを書いているのは仏教だけで、曹洞宗の【修証義】には【三時(過去・現在・未来)】の三時に関わって、過去世の自己の罪の祓いの為に人はこの世に出て来ると記しています。


 私は伏見稲荷講で豊受姫のお世話になっている時、豊受姫から【カルマ】の解消に関して聞いたことがあります。人の過去世からカルマの糸は、糸が絡みに絡みあっていてスッキリと解きほぐすことは神霊でも簡単ではない。うかつにそのカルマの糸を間違えて切断してしまうと、その魂の後々の修復が難しくなるです。

 だがそうしたことを世に出ておられる神霊達は、人に告げているのか?。ほとんど告げていないなのです。


人はどこかの人生で自らが苦しむで業(カルマ)を解消


人のカルマは、神霊に頼んだからで簡単に解消しない


 自分は苦しい。それは自分が過去にそうなる原因の種を蒔いたなのです。旧約聖書における自分が蒔いた種の果実は自分で刈り取りなさいなのです。ただその種を蒔いたことを自分が思い出せないことから愚痴るのです。で、苦しいからと自殺すれば、よりその罪が重くなるなのです。悪循環に入ってしまうなのです。


自分に起きる不幸はカルマが消えて行く様と知るが楽


 キリスト教やイスラム教にも【魂】の存在は説かれていますが、魂とは如何なる存在かの説明はほとんどなされていません。為にイエス一人が主の御子だと言う馬鹿げた教義になったと言えます。またイスラム教の様にアラーの神と讃えていればよいではないのです。神によって生かされている自分を知るが先決だと言えるのです。

 大本教から出された【人は霊(ヒ)止(ト)】であると出された教えは、私は画期的な教えだと言います。それはお釈迦様やイエスやムハンマドの教えでは理解出来る内容ではないからです。


 私は霊的世界に関わって、一部の霊能力者から【貴方は救世主様ですか?。】とか、【貴方の前世はイエスですか?。】などと問われました。私は子供の頃は旧約聖書の神と称する声が臨んでいたのですが、その声は私に【私はそなたにはこの神の力を最後の最後の時でないと与えない。】と告げられています。と言ってその内容を信じているではないのです。それは本当なのか嘘なのかを探っているだけです。

 そもそもその最後の最後の時の力とは、どういう意味かさえ解りませんが、仮にその最後の最後の時に私に神の力が与えられても、それでは人々が思う【救世主】の立場にはなりません。何故ならば人の目には見えない神や霊の世界を説くには【奇跡の力】が必要で、教えを広めるにはそれなりの奇跡力が要ります。そうでないと神の言葉が世に通らないからです。そうした神力や霊力を何も持たずに霊界とか神を説けば、世間からバカにされるのがオチなのです。


言葉の仕組みだけで神を理解出来る人は非常に少ない


 そんな何の神力も持たない私に対して、貴方は救世主ですか?。そうした質問をされる霊能者にその理由を聞いたところ、貴方の背後には空前の背後霊団が見られます。その背後にこれほどの大神霊団を従えている様な人は、イエスとか救世主と呼ばれる方しか考えられません。私の様に霊能者をしている者はそれなりの数の背後霊達を従えていますが、貴方には桁も桁違いの大背後霊団が従っているからです。そうしたことを言われるなのです。

 確かに私の背後には単なる大背後霊団では無く霊界の神軍すら存在し、これまても黒龍神群団とチャンバラを演じています。それらの背後霊団とは現世御利益とか病気治しの存在ではありません。最後の最後に起きるとされる【神界最終戦争】に従事する為であろうと思われる軍事的組織の霊団が見られるなのです。


旧約聖書の神は万軍の主と呼ばれるが愛の神ではない


 私の神霊界修業の世話をしてくれた豊受姫の御代であった師匠は、霊媒者たる信徒さんと竹生島を訪れた時、仏か神の方かは解りませんがどちらかの管長がその師匠を見て、その霊媒者の方に貴方と一緒の女の人はいったい誰ですかと尋ねられたので、その方はすっとぼけてどうしたのですかと逆に尋ねたところ、あの女性には一万五千体もの霊が憑いている。この地は多くの霊能者が訪ねて来られるが、一万五千体もの霊を従えている人を初めて見たと言われたと、その方は言います。


 私はテレビの初期の時代にテレビで活動された霊能者に霊査を受け、その方から【貴方には桁外れの数の神霊達が従っていますがその数があまりにも多く。貴方は自分の正守護神と統一に入らなければ、貴方に憑いている多くの神霊達の思惑に貴方自身が惑わされたり動かされますよ。】と忠告されました。

 私自身、何かしらの霊から貴方の背後には少なくとも数千体の神霊が存在していますと告げられ、それらの神霊が私の正守護神の完全指揮下に入っていないことも聞いています。その神霊達が自分の思惑で肉体の私を動かそうとしているも知っています。それが解っていても現実には如何ともしがたいがあるのです。


 この世の人は霊(霊界での肉体)・力(魂・意識)・体(この世の肉体)の三位一体で構成されています。魂や意識が【力】という意味は、もしも人の内にある魂が意識の総体で無ければ何の行動にも結びつかないからです。

 人の肉体から魂が抜けると【腑抜け】と呼ばれる状態になります。その時、我れに帰るという言葉がありますが、魂が肉体に帰らないと人として活動はほとんど出来ないのです。仮に人として肉体が生きていても【植物化】と言われたりします。


腑抜けとは、自分の魂(心)はそこ(肉体)に在らず


 人はこの世での肉体の命の終えると、霊界の肉体たる幽体となって、その魂と一緒に霊界へと旅立ちます。その時に霊と魂は別の存在だと解るのです。人は輪廻転生でまたもや人としてこの世に生まれ出て来る時は、その霊界の肉体たる服も脱ぎ捨て、次の世の霊界の服となる肉体と同じ形の衣装になるです。が、その魂の本体の姿は変わらないなのです。その魂の本来の姿をした存在が【正守護神】とも言えます。

 日本の新神道系では自分の正守護神の姿が男性ならば衣冠束帯。女性ならば十二単衣の姫姿などをしていると説かれるなのです。もしも自分の霊的姿として衣冠束帯とか十二単衣の姫姿の自分が出て来ると、それは自分の正守護神の可能性があるなのです。それは自分が霊界に帰り、神社の神霊として赴任する等になるとそうした霊姿をすることにもなるなのです。

 その霊と魂で【霊魂】です。そして自分が次元界を上げて行くと、その魂の中に神たる自分が存在して来るなのです。この神たる自分が【真我】で、肉体の自分とは違うと解ります。その姿すらそれまでとは一変するなのです。


輪廻転生でもその変わらない自分の姿こそ【真の我】


真我に辿り着けば、肉体の自分とは仮宿の存在と解る


 この世でもあの世でも自分を統括している命の本体は【魂】と呼びますが、人はこの世に生きていると多くの霊に【憑依】されていることも知られています。その人に憑依している霊もそれぞれが【意識】を持っており、人はその憑依した霊の意識や思惑に振り回されたり、自己の魂がその憑依霊の意識に【犯されて】犯罪に走る。そのことがあまり世に理解されていないなのです。それから守護する為に神は各自の守護神(霊)を就けておられるなのです。

フォト


人は霊止(ひと)であり、肉体に懸かる多数霊の総合意識


悪しき憑依霊を浄霊すると、その人は真我に変わって行く


 そこには人(ヒト)は【霊(ヒ)止(ト)】の教えが必要であったのです。だが残念ながらそれを知るには、大本教と呼ばれる宗教が起きるまで、人類には解らなかったがあるのです。


 人はその人にまったく霊感が無い場合は無理でしょうが、突然に誰かの顔が見えて来るがあります。スピリチュアルでも言う【他人の念が自分に飛んで来た。】です。その【念】とは何か?。です。


念はその人の【今の心】で、その人の意識が他人に飛ぶ


 霊感が強い人だと、あの人は自分に念を飛ばして来たとなります。その多くは自分に対する【憎しみ】であり。人は誰かを憎むと【心が増す】で、それが【念力】となって霊的にその人を攻撃に入るのです。こうした念も【霊】と呼ばれます。


人は無我で無い限り有我で、無念(無我)残念(有我)


すなわち魂以外の有我が【思念(死ねん)】として地を這う


 人は大本教神諭にある一つの肉体には一つの魂(自分)と一体の守護神(霊)が付随しています。その守護神(霊)とは日本の新神道系では【副守護神】格と呼ばれる存在になります。その他にも多くの霊が憑依しているのです。基本的に言えば人に霊が憑依していないというのはあり得ないのです。スピリチュアルで自分に霊感があると誇らしげに言う方で、その人に霊が見えない等の発言はその人は本当の霊能者と言えないなのです。

 新日本神道系で説かれる【正守護神】とは、その副守護神より高次元界の霊で自分自身の魂で神上がりをしている存在の自分の魂と合一状態の時に出て来る存在です。この世にいる自分の魂がその霊的段位まで到達していないと、それは解らない存在と言えます。

 それらはスピリチュアル標榜で言うハイヤーセルフとは違っています。ハイヤーセルフ的存在の霊とは、守護している霊でも俗に背後霊や指導霊や信仰霊と呼ばれている類いの霊達のことで、魂世界における自分の魂とは仲間であったり友であったりしても、必ずしも自分の魂そのものを指しているのではないのです。

 スピリチュアルで言うハイヤーセルフ霊は言うなれば【憑依霊】的な存在なのです。スピリチュアルは大金になるで、この世の目的は魂磨きよりも金儲けだと導いてくれる霊は本当に高級霊(ハイヤーセルフ)なのか?。そこに疑いを持たないといけないなのです。


スピリチュアル系では、この世に出て来る意味を説かない


 スピリチュアルの言葉を多言する人達と霊能者と呼ばれている人達の背後に居る霊の数とは、圧倒的にスピリチュアル標榜者はその数が少ないなのです。それはいざという霊的戦いの中においては霊界での力が発揮出来ない。相手の攻撃の前に撃沈するなのです。

 テレビ番組のオーラの泉の中で霊能者江原啓之さんが相談者の俳優宇梶剛士さんの背後に居た数十体の背後霊に攻撃されて伸びてしまい、急遽師匠格の美輪明宏さんが九字を切って江原啓之さんを助けるがありましたが、江原啓之さんの背後には軍事的な防御霊団が存在していないなのです。


自分の背後霊団が大きければ、その守護力も強い


 スピリチュアルでも人は変われますと説きますが、その人が悪しき行為をするもその人に憑依している霊に悪しき霊が多いと、その人の行為行動は悪しき霊達の意識の行動になります。で、そうした霊をその肉体から剥がす。除霊する等をして行くと、その人の性格が変わるのです。より真我(その人の本心)に向かうなのです。

 私は霊界修業の過程で、2番目の師匠で言霊師の元に毎日通い。その神前で祝詞を上げていました。するとその神前の階下の部屋ではその言霊師の師匠が霊媒者を通じて、私に懸かっている霊のサニワ(審神)をしていました。それは私が特異な体質者で無数の霊を肉体に入れている霊止(ヒト)であり、今その肉体を通じて祝詞を上げている霊が何者かを調べていたなのです。

 その時に霊媒を勤めていた方は、霊媒者として日々私に別の霊が付随しているを見ておられました。だが私からすると、自分は自分で有り。日々の自分が違っているとは思わないなのです。


人は誰しも【意識】と呼ばれる物に動かされている


その意識は誰が発しているか?。そこまでは考えない


 スピリチュアルでも【人は変われる】と言います。それは人は【霊止】であり、幾つもの意識によって動かされているからです。そうした人の背後にあって悪しき意識を持つ霊を排除していけば、当然にその人は変われます。

 例えばゴミ屋敷の住人を見ますと、そうした汚れた場所を好む霊に憑依されているがあります。その憑依霊を排除すれば、その人はゴミ屋敷を好みません。だがその霊を排除をしなければ、そのゴミ屋敷をいくら掃除して綺麗にしても、またもやそこはゴミ屋敷化します。


人は霊止であると理解するは、非常に重大なこと


 霊が人に憑依するのは、人の肉体は【霊の浄化機関】であり、その憑依した人の肉体によってその霊が浄化されて救われるがあります。霊が救いを求めて、他人を助けてくれる様な心優しい人には憑依することは語られて来ました。自分を助けてくれそうもない人にいくら憑依しても何の助けもしてくれないからです。

 しかし【意識】は類は類を呼ぶで、自分が悪しき意識を持つとそうした霊を自分に呼び込むことにもなるのです。どちらかというとそのケースが多いので、類は類を呼ぶ【引き寄せの原理】ばかりが説かれて、人は霊止(ヒト)の概念があまり説かれていなかったとなります。


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