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2022年05月07日18:35

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本棚485『アジアのなかの琉球王国』高良倉吉(吉川弘文館)

 
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「綾なす水押しぬきてぃ 走い出たる那覇港 綾なす水押しぬきてぃ 思いや果てぃねん旅心」

 那覇の港を出て中国へと渡る琉球王国の進貢船を歌う、りんけんバンドの『ふなやれ』の曲は、「綾なす水」という美しい詞と雄大な調べがいつまでも耳に残る。

 本書は琉球王国史の中から、中世の海外貿易史に焦点を当てている。中国の帝国を中心として、周辺の国々が進貢を行う「冊封体制」に琉球王国も組み込まれていった。遥かな海を越えて中国大陸に着いた後も、福州から北京までは往復六千キロメートルにのぼる長途の旅。過酷な冬の旅で命を落とした琉球人も多かったというが、この壮大な交流は約五百年間も続いた。

 琉球の貿易ルートは広範で、大量に仕入れた中国商品を日本や朝鮮、東南アジアまで運ぶ中継貿易の国際ネットワークを築き上げた。その発展の要因として、中国政府の優遇策や中国人パワーの活用、世界屈指の性能の貿易船の確保などが挙げられる。更に、中国が琉球を優遇した背景として、モンゴルの残存勢力に対抗するために琉球の馬が必要だったことも言及されている。

 16世紀に入ると、ポルトガル勢力の展開や、明帝国の国力の衰退、海禁政策の無実化による中国商人の伸長などにより、国家主導型の貿易から民間貿易の世界に大きく変容し、琉球の中継貿易は打撃を受ける。東南アジアルートや朝鮮ルートは失うものの、中国と日本の仲介の役割は依然として保ち続ける。1609年の薩摩の侵攻によって、琉球王国は日本の一部に組み込まれるが、その後、明を滅ぼした清と薩摩、幕府との間でバランスを取りながら命脈を保っていく。

 『アジアのなかの琉球王国』というタイトルの通り、当時の十分ではない航海技術の中で遥か東南アジアまで交易を行う琉球という国のダイナミズムが感じられた。海を、相手と隔てる壁と捉えるか、それとも、あらゆるものを繋ぐ可能性を持つ回廊として捉えるか、琉球の人びとにとって後者だったに違いない。
 この3月に初めて慶良間諸島の阿嘉島にフェリーで行ったが、那覇の港を出た進貢船も、慶良間諸島や久米島を通って中国大陸に渡ったという話を読んで、当時の人びとと同じ琉球の風を感じられた気がした。
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