今週公開された中川龍太郎監督『やがて海へと届く』(やが海)という映画作品。
その演出や特有の間の取り方には賛否あるように見受けられるが、
少なくとも自分は、今年の邦画で最上位に位置づけられるべき作品と感じた。
しかし映画というのは知られてナンボなところがある一方で、
ネタバレをせずにその映画の良さを伝えるのは難しい。
ではどうやればよいか、を考え、タイトルの方法を思いついた。
まず挙げたいのが、松居大悟監督の『ちょっと思い出しただけ』(ちょい思)。
この作品との共通点は、大切な人と過ごした時間、そして喪失した時間、の2つがあることだ。
人間という者は浅ましいもので、好きな人間にはいつまでも側にいて欲しいと願う一方、
嫌いな、都合の悪い人間には、一刻も早く自分の世界から退場願いたいと望んでいる。
しかしその愛憎以前に、今自分が生きている世界は自分だけのものではない、
そんな単純なことにすら気付かないフリをして日々を送っている。
大切な人を失って、ついに自分は自分以外によっても形作られていたことに向き合わされる。
『恋は雨上がりのように』の中で「未練じゃなく執着」という核心を突くセリフがあるが、
ちょい思でも、やが海でも、この"執着"というキーワードを感じさせるシーンがある。
その執着がありながら、すみれが何を考え、真奈と離れる選択を取ったのか。
そのことを言葉ではなく、たたずまいから感じ取るのは、この作品の醍醐味であろう。
そしてもう1作は藤井道人監督による『余命10年』(余命)。
この作品との共通点は、ビデオカメラをキーアイテムとして用いていることだ。
余命では突きつけられた終わりを前に、撮っていた記録を消去していくのだが、
やが海で遺されてしまったのは、終わりが突然だったことを示唆しており、2つは対照的だ。
ここにも未練と執着が現れていると言えるが、もう一つ別のミーニングがあって、
それは撮る側と撮られる側の存在を明確にすることで、
「私たちには、世界の片側しか見えてないと思うんだよね。」この言葉を印象づけるのだ。
――深く、深く フカク、フカク
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」この意味するところは決して言葉遊びではなく、
他者を知り、他者の知る自分を知る、知って欲しい、知りたい、そういうすみれの呼びかけだったのだ。
(そう捉えると、余命における茉莉も、ビデオカメラを通して自分自身に向き合っていた、と受け止められる)
そしてまた、この「私"たち"」が、物語において強烈な意味を持っていることに気がつかされる。
いくら居心地が良くとも、活力を失った世界の行方は穏やかな死に他ならない。
――振り返らないよう 足を止めないよう
そう呼びかける言葉は、余命にも通底するものがあるし、
やが海においても、2つの意味を持ち、さらには普遍的な呼びかけとしても成立させているのだ。
「真奈は自分が思っているより、強いよ」
この言葉は、あこがれが一方的ではなかったこと、すみれの奥底にまつろわぬ心があったこと、そのしるしを遺したのだ。
この作品を原作未読の状態で鑑賞すると、いや既読ですら、なかなか面食らうことは間違いない。
しかし、上で述べたことを踏まえてもらえば、きっと届くべきものが届いてくるはずだ。
思えば自分の過去、大切な人と向き合うことに必死で、沢山傷つき傷つけたことがあった。
幼さと言ってしまえばにべもないが、あの時同じ方向を向けていたら。
(余韻を残しつつおわり たぶん加筆修正もおわり)
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