mixiユーザー(id:21587781)

2022年01月21日07:10

58 view

ペリーの来航

18世紀の終わりにイギリスで蒸気機関が発明されると、工場で機械をつかった生産ができるようになり、製鉄や機械、造船などの工業が発達しました。このような技術の進歩によって社会の仕組みが大きく変わったことを産業革命とよびます。

産業革命は、19世紀になるとフランスやドイツ、アメリカにも広がりました。世界経済の中心であったイギリスは、清から茶、絹を輸入していましたが、支払う銀が不足すると、工業製品を支配地のインドに売り、インドで生産されたアヘン(麻薬の一種)を清(中国)に密輸させ、清からは代金の銀をインド経由で本国のイギリスへ送らせる三角貿易をおこないました。清は銀の不足とアヘン中毒患者の増加に苦しみ、アヘンの売買を禁止しました。

これを不服としたイギリスは1840年、清を攻撃して(アヘン戦争)勝利しました。そして、清にとって不平等南京条約をむすぶことで、イギリスが有利に貿易をおこなえるようにしました。インドでは、イギリスの支配に不満が高まりインド大反乱がおこりましたが、イギリスにしずめられて植民地となりました。

アメリカは、19世紀半ばに大西洋から太平洋まで領土を広げ、清や日本との貿易を望むようになりました。とくに灯油の原料となる鯨の油をもとめて、日本近海に進出しており、捕鯨船の水や食料などを補給するために、日本の港を利用することを考えていました。

欧米の国々がアジアに進出するなか、アメリカは日本の港の利用を必要として、開国をもとめる大統領の国書を東インド艦隊司令長官ペリーにもたせ、日本に派遣しました。そして1853年、ペリーは4隻の軍艦をひきいて浦賀(神奈川県)に来航し、国書を江戸幕府にさし出しました。

幕府は、大名らの意見をまとめるとともに、アメリカの軍艦から国を守るために江戸沿岸に砲台(台場)をきずきました。幕府は大国の清がイギリスにまけたことなども考え合わせ、翌年、ふたたび来航したペリーと日米和親条約をむすび、下田(静岡県)、函館(当時は箱館、北海道)の2つの港をひらきました。そして、ペリーが初来日してから1か月後、ロシアと日露和親条約をむすびました。

8 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2022年01月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記

もっと見る