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2022年01月02日12:16

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本棚450『海坂藩に吹く風』湯川豊(文藝春秋)

 藤沢周平の多くの小説の舞台となる海坂藩。そこで描かれるのは穏やかな世界ばかりではなく、血なまぐさい政治や剣も描かれるが、藤沢の透明感のある文章にかかると、端正さ、清雅さが基調となる。

 本書は、時代小説や市井小説、歴史小説、伝記小説など藤沢周平の作品の素晴らしさを余すところなく伝えてくれる。著者が心震わされた文章が随所に引用されていて、物語の世界に惹き込まれる。
 傑出した青春小説と言われる『蝉しぐれ』。「蛇に噛まれた少女の指。夜祭りの見物。そして江戸に行く前の夜、ふくが文四郎の家をたずねて行って、会えなかったこと。」二十年の時を経て、文四郎とふくが対面し回想する場面ほど、「時」の美しさと切なさを感じさせる小説はない。『蝉しぐれ』の映画の中の、「忘れようと、忘れ果てようとしてもー忘れられるものではございません。」という台詞が想い起された。
 作品を彩る海坂の食も魅力に溢れている。春の筍の孟宗汁やこごみの味噌和え、夏の真桑瓜、秋のカレイの塩焼きや風呂吹き大根、冬のハタハタの湯上げに鱈のどんがら汁。四季にわたり口福を満たす食べ物ばかりだが、それらは物語の単なる添え物ではなく、巡りゆく季節、容赦なく過ぎ去る時を示し、人生の哀感も感じさせる。
 
 著者は、藤沢周平の文章は、人間について何かを換気する力をもち、人間の深くにまで届く想像力を内側に秘めていると言う。それは藤沢周平の経歴に由来する部分も大きいように思えた。若い頃に肺結核にかかり死を近くに感じ、出産のあと間もなく妻を亡くした藤沢が小説を書こうとした原動力には初めは冥さがあった。「ふつうが一番」が藤沢の口癖だったというように、次第につつましい日常の幸せが作品に現れてくる。人生の不条理や冥さと、ささやかな温もりを兼ね備えることで、多くの読者に共感をもたらす普遍性が生れてきたのであろう。

 著者が最も好きな短編の一つという『鱗雲』という作品を読んでみたくなった。
「雪江がようやく床の上に起き上がれるようになって、理久が死んだ妹のために作った浴衣を着て座り、瓜を食べている。そこに、新三郎が家に戻って来て、母が剥いてきた瓜を一緒に食べる。束の間ではあるが、日常の安らぎがそこに現れる。平凡な情景ではあるが、藤沢周平はいつくしむように、それを描く。めったに見せなくなった母理久の笑顔が、雪江が出発した後の哀しみを物語る。···美しい旋律を聴くような思いで、私はこういう文章を読む。そして一時ではあっても、文学にこれ以上の何を望むのか、と思うのである。」
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