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2021年09月18日00:00

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黒部紀行31 愛本橋

 8月20日金曜日は、愛本のウラジロガシ林を経て、黒部川扇状地の扇頂部にある愛本橋を訪れました。中近世の黒部川扇状地は洪水を繰り返す荒れ地で、黒部四十八瀬と呼ばれて北陸道の難所となっていました。
 https://www.google.com/maps/@36.8604247,137.553379,18z
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 寛文元(1661)年に初めてお国入りした第5代加賀藩主前田綱紀は黒部四十八瀬渡渉の危険さを身を以て体験したため、安全な交通路を確保するため、黒部川扇状地の扇頂部へ愛本橋を架ける事を決めました。国元の重臣達は、領地防衛の要害地に橋を架ける事に反対しましたが、綱紀は「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず」と主張して押し切ったのです。
 こうして寛文2(1662)年に架橋工事が始まりましたが、両岸は岩山で、上流部を除けば最も川幅が狭い地点なので、洪水時には大量の土石と水が集中、普通に橋脚を立てても一年も持たずに流されてしまうのは確実であるため、甲斐国の猿橋を参考にして、川の両岸から大木を突き出す刎橋(ハネバシ)と呼ばれる形式で架橋される事となり、翌寛文3(1663)年に橋長33間(61.42m)・幅10尺(3.62m)の構造を持つ巨大な刎橋が竣工、愛本橋と命名されたのです。
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 延宝6(1678)年からは加賀藩支藩の富山藩が橋番人を置く様になりました。こうして、従来の入膳(ニュウゼン)宿経由の北陸道は下街道、愛本橋経由ルートは上街道と呼ばれる事となり、上街道沿いには浦山宿と舟見宿が新設されました。そして、下街道・上街道の分岐点となった三日市宿には馬匹19匹が常備されて加賀藩と支藩大聖寺藩の本陣が設けられ、物資の集散地としても栄える事となります。
 三日市宿―浦山宿―愛本橋―舟見宿―泊宿ルートの上街道は、三日市宿―入膳宿―泊宿経由の下街道よりも約6km遠回りでしたが、安全確実なルートだったため、利用者が多く、浦山宿には馬匹25匹が常備され、やはり加賀藩・大聖寺藩の本陣が設けられる事となったのです。
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 以後、江戸時代を通じて文久2(1862)年の最後の架け替えまで八回の架け替えが行われましたが、洪水で流出する事はありませんでした。
 江戸時代の愛本橋は、周防国の錦帯橋・甲斐国の猿橋と並んで日本三奇橋の一つに数えられ、北陸道の名物となっていたため、池大雅(イケノタイガ;1723〜76)・十返舎一九(ジッペンシャイック;1765〜1831)等の文人墨客がその奇観を記しています。
 嘉永元(1848)年秋には、『日本外史』の著者頼山陽(ライサンヨウ;1781〜1832)の息子の儒学者頼三樹三郎(ライミキサブロウ;1825〜59)が蝦夷地紀行の帰途に訪れ、以下の様な漢詩を詠んでいます。
 双竜吐気結成虹
 百丈飛橋迥架空
 一任奔流雷霆急
 征驂御穏半天風
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 双竜(ソウリュウ)気を吐き、結んで虹と成り
 百丈の飛橋(ヒキョウ)、迥(ハルカ)に空に架す
 一任(サモアラバアレ)、奔流雷霆(ホンリュウライテイ)急に
 征驂(セイサン)穏(オダ)やかに御(ギョ)す、半天の風
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 維新後、明治24(1891)年に木造アーチ橋に架け代えられ、大正9(1920)年には鋼鉄製トラス橋に生まれ変わりました。
 また、昭和7(1932)年には橋の下流に愛本堰堤が設けられ、昭和9(1934)年7月の大洪水の際には下流が甚大な被害を受けたにも関わらず、愛本堰堤は想定外の流量に耐え抜いて堤防決壊を防いだため、地元住民が感謝のため昭和14(1939)年に天照大神(アマテラスオオミカミ)・水波能売命(ミズハメノミコト)・軻遇突智命(カグツチノミコト)を祭る黒部川神社を創建しました。
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 この神社は黒部川を挟んで右岸に本殿、左岸に鳥居が立ち、黒部川の本流を境内とする特異な構造になっています。
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 一方、鋼鉄製トラス橋の愛本橋の方は昭和44(1969)年8月11日の豪雨のため流失してしまったため、昭和45(1970)年に従来の位置より50m下流にニールセンローゼ橋形式で架橋する工事が開始され、翌年、全長130m・幅9.3m・最大支間長128.4mの現在の橋が完成したのです。
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 愛本橋から望む黒部川上流です。
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 愛本橋から望む黒部川下流です。
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 愛本橋から300mm望遠レンズで撮影した黒部川河口方面です
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《続く》
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