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2021年09月02日05:17

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石原莞爾の二度の結婚


英雄色を好むという諺の示すとおり、昔から英雄、豪傑には酒や女に関するロマンスとスキャンダルが非常に多いです。ところが、石原莞爾はアルコールが大嫌い、そのうえ女性に関する問題はまるで見られません。石原莞爾が女性に対し、いかに関心が薄かったかは、最初の結婚がそれを明瞭 に物語っています。

大正七年、彼が陸大三年生に在学中、郷里山形県鶴岡市の両親が、息子に相談なしで市内の一女性を嫁に決めてしまいました。女性の両親がしっかりしているので、その娘だからいい女性に決まっている、というのが石原莞爾の両親の見解でした。

しかし、当の石原は、その女性と一面識もなく、したがって人柄のよしあしもまったく知りませんでした。その年の夏、仙台工兵大隊の学習勤務を終わって帰校する時、鶴岡にまわり、同地でその女性と結婚式をあげたが、なぜか新婦を同伴せず、単身帰京した。

その後まもなく、石原莞爾は実父から結婚解消と離婚手続きに関する通知があったので、学校当局にそのむね上申した。校長の次席である田村守衛少将から理由を訪ねられた石原は、結婚、離婚の経緯を説明し、両親を信頼しているので、その決定に異存なし、と答えました。当時は将校が結婚するには、陸海軍大臣の認可を必要としました。

学校当局は憲兵により花嫁候補の身元を調査し、その結果は参謀本部をへて大臣に送られ、大臣認印による許可がおりたのです。石原莞爾もこのような手続きの後、結婚したわけですが、離婚に際しても煩墳な手続きが必要でありました。

学校では前例のない事件だけに重視し、学生を一堂に集めたうえ、田村少将から、「学生某は結婚という一生に一度の重大問題を、親まかせにし、本人が何ら関心を示さなかったため、結婚後、まもなく離婚するという事件が発生した。この原因は、結婚を軽々しく取り扱ったためである。あまりにも無頓着すぎたのではないか」と注意をうけた。

ほとんどの学生が誰を指しているかわからなかったが、石原莞爾は並んでいた親友の横山臣平に、「あれは俺のことだ」と苦笑したそうです。いかにも彼らしい受けとめ方でした。そして大正八年八月、教育総監部勤務で大尉のとき、同郷の先輩佐伯正悌大佐の仲介で、陸大教官五味為吉中佐夫人の令妹国分「てい」と見合いを行なう事となった。

「てい」は東京牛込の成女高女卒の才媛で、しかも色白、当時もてはやされていた 瓜実顔の楚々とした美人である。さすがの石原莞爾も一目惚れし、その場で両者からオーケーのサインが出ました。石原莞爾はそれからというもの、妻の立場を理解して、細事にこだわらず、立派な夫を目指して努力し、よき家庭をつくったのです。

てい夫人がとくに意を用いたのは、孝養奉仕です。それこそ家庭円満の第一義であるとさとり、夫の父母に孝養を尽くしました。彼女はみずから進んでマッサージ術を習得し、若いときから按摩が好きだった夫の肩を毎夜のようにもんでいました。

そのうえ他家の老人の慰安にも心を配り、努力を惜しみませんでした。彼女は、内助の勤めを果たすため、一般社交には、慰霊祭、軍旗祭以外の婦人会行事への出席を断わっていました。子供に恵まれなかった二人は、子供の分まで愛し合っていた、と言います。

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