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2021年06月18日17:05

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壁を見つめていた人、その4の1

 その男は常に虚空を見つめていた。確かに出版を志すような者は明るく社交的であるということはないのである。何しろ、子供の頃から一人で本を読んでいるのが好きだったようなタイプが出版を志すのだから。それは分かっているのだが、その男ほど暗いのは、その中でも珍しかった。
 頭が良く、特に日本語に対する造詣が深く、校閲はもちろん、時代考証にも役立った。あの頃は、まだ、SМ小説の中に時代物があった時代だったのだ。
 筆者も時代小説や時代劇に興味がなかったわけではないが、しかし、襷で女を縛るなどと書かれてあっても、それがどのぐらいの長さの紐なのかは分からなかった。帯で縛ると書かれたら、あの太い帯でどうやって、と、そんなことを思ってしまった。そうしたとき、その男に尋ねれば、たいていのことは解決したのである。今はインターネットで検索すればいいことだが、何しろ、あの頃には、インターネットどころか、会社にはパソコンもなく、巨大なワープロがある程度だったのだ。
 デブ、と、そう呼ぶには可哀想だが、いかにも運動が苦手そうな太り方で、背は低くもないが高くもなく、顔は精悍さを逆さにして付けたような顔だった。ようするに女にはとてもモテそうにないタイプだったのだ。
 もっとも、女にモテないという意味ならこちらも負けていない。それがゆえに、エロ出版社で仕事をしていたぐらいなのだから。エロ雑誌を作れば撮影で女の裸が見られる、もしかしたら触れる、幸運が訪れてセックスさえ出来る可能性があると考えていたのだ。そして、それは何も筆者にかぎったことではないのだった。エロ出版社に来るような男はたいていが、そうした目的だったのに違いない。
 ところが、その男は違っていた。撮影に誘っても来ないのだ。それどころか飲みに誘ってさえ、その男はそれを断った。そのくせ、徹夜で仕事などしていると、夜中にこっそりと缶ビールを買って来て一人で飲んだりはしていた。やはり虚空を見つめながら。
 小さな出版社だったので、人件費はバカにならないはずだった。
 そこの社長と酒を飲んだときに、筆者は、どうしてあの男を雇っているのかと尋ねたことがあった。筆者のような雑誌請負で来ている流れの編集者ではなく、その男は社長も含めて五人しかいない社員の一人だったのだ。残りの内の二人は営業の男、そして、一人は経理の女で、こちらは社長の愛人との噂があった。真相は分からなかったし、そちらは尋ねるわけにもいかなかった。
 社長は、筆者の問いに、こう答えた。
「あれは甥っ子なんだよ。昔からあんな感じなんだけど、あれでも、東大を出ているんだよ。ただ、普通の会社じゃ、あれは通用しないよな。それで、もしかして、私のところに置いておいたら思いもしない企画とか出すかもしれないって思ったんだよ。まあ、それはなさそうなんだけどね。でも、それでも、何かやるんじゃないかってね。何しろ、頭は抜群に良いわけだからね」
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