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2021年05月22日16:12

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実録小説・シマハタの光と陰・第20章・職員百花百様

  我々から見てアリは一様に見えるが、人間は違う。シマハタの職員たちも個性も、過去も、福祉への考え方も、園児たちへの関わり方も一人一人異なる。今回はその様子を述べる。


  最重度の心身障碍児室は部長は医学知識もあるしっかりした人が歴代なっているが、職員は若手が多く、十代の人たちも珍しくない。先輩職員や林田博士の話を聞いて、シマハタのことを覚えるわけである。

  そのほかの室の職員も若い者が多い。林田博士が自ら募集した秋田県出身の人が多いにしろ、その他もいろいろいる。小さい時から地域や学校で何らかの差別やいじめられたことを経験された人たちもいる。そのような人は弱い立場の者の気持ちに敏感になるせいか、身障児や精神薄弱児のことも、自分の事のように、真剣に世話をする。




  1971年5月。長髪でひげも長い、大柄な男が「職員にさせて下さい」と飛び込んできた。大学の社会学部中退。何分、5年前に一流大学にストレートで入り、中学時代から考えていた貧富の差や日米安保の矛盾を解決するため、全学連の運動に飛び込み、いつも仲間と徹夜で議論を交わしていた。しかし、2年前からその大学も学生運動は下火になり、仲間も就職や結婚でお金やマイホームに目が向くようになり、縁も切れた。一人では社会変革運動は難しく、挫折感を持った。下宿していた下町のアパートも値上げされ、仲間と会うこともなくなったため、まだ家賃の安い多摩地区に引っ越して、散歩していたら、たまたま「シマハタ」の文字が目に入り、看護婦みたいな人が車いすを押して散歩しているのを見たので、見学させてもらい、企業労働者とも違う、子供たちと世話をする人たちもいる事を知り、感銘を受け、まずは「彼らの中に入り込み、一緒に生きようではないか。人生も長いし、じわじわと社会変革できるかも知れない」と思うようになり、職員になる事を決意したわけである。

   職員などの集会の自己紹介で

   「初めまして。私は木村真之介です。侍みたいな名前ですが、少し前までは全学連していました。とは言え、ゲバ棒もって暴れたわけではないですよ」

   一同は笑った。

   「全学連でしていたことは、例えば、山谷の日雇い労働者の生活保障とか、在日韓国人などの人権確立。この職員の中にもいますね。もちろん、日米安保とかも。日本の底辺の人たちのことを『これで良いのか』と真剣に論じていたわけです。でも、議論だけでは社会は変わらない。一部の者が反権力を掲げ、あのようにゲバ棒持って戦いましたが、労働者たちからも非難されるなど、動けば動くほど、状況は悪くなりました。また、卒業や結婚を契機に大体は運動を止めていったわけです。...」。

  「林田博士に学生時代の経歴を話したら、『君はまだ聖書は読んでいないそうだが、気持ちはイエス・キリストみたいだ。素晴らしい』と言われ、直ちに採用されました。深く感謝しています。どうか、よろしくお願いします」


で自己紹介を終えた。見習い期間の後に勤務の室が決められるわけである。




バレーボールをしていた土井文子。高校卒業して社会人になっても続けたが、右腕の骨折で挫折。子供好きである事もあり、入院中、他の病室に行き、患者児童に話し掛け、病気で好きなことができない子供もたくさんいることを医者に話すと、脳性まひや精神薄弱を持つ子供も世界にはたくさんいること、及び、シマハタ療育園や養護学校のことも教えられ、興味を持ち、退院後にシマハタに見学。精神薄弱室の園児たちが笑っている姿に何故かひきつけられ、たびたび通うようになり、また、医者から「バレーボールはムリ」と宣告されたこともあり、なおさらシマハタが好きになる。職員になることを決意し、林田博士との面接で採用され、見習い期間の後、精神薄弱児室に決まる。その部長は

 「この室の園児たちは歩けるけれど、だからむずかしいの。考える力は弱いでしょ。だから、目を離すとどこかに行っちゃうの。一年前も金吾君が行方不明になり、一キロくらい離れた所で、自転車販売の豆腐屋さんが変に思い、連れ戻してくれた事もあったわ。大変だった。でも、あなたならばうまくやれる。バレーボールはボールと相手選手たちの動きを観察して行なうものだけど、それはここの介護にも言える。バレーボールの経験も生きる。あなたは、大好きなバレーボールを続けられるのよ。まさに『サインはV』ね。」

と文子に話した。その通り、文子は精神薄弱児たちの見守りを一生懸命こなしている。




あと、終戦直後の東京・下町で母子家庭で育ってきた中根雄太郎。在日韓国人女性の金花姫。両親が沖縄の比嘉美波。ご先祖様が差別されてきた人も。秋田県の農村で育ち、ぜいたくには無縁で、小さい時から田植えや草取りなどをしてきた男女も多くいた。

  その中、母親が農作業で骨折し、歩けなくなったため、介護経験のある女性も少し前から職員になった。小野雪子である。名の通り、色白の肌も持ち、世話好きでやさしい。

  「お母様の介護経験があるの。お母様は4年前に亡くなったけれどね。その経験を生かせないかと思い、ここに来たわけよね」

と言った。その経験から、身障室勤務に決められた。

身障室の仕事は起床介助、朝食、昼食、おやつ、夕食、就寝の時は目が回るように忙しいが、その他は時々出るトイレ介護だけで、ゆとりがある時も多い。ゆとりの時は職員たちは準備室で休んだり、本を読む人もいれば、園児たちに話しかけたり、一緒にテレビを見たり、遊ぶ事もある。特に、話し掛けると喜ぶ園児には積極的に話す職員もいる。  

   「あのう、タイプに葉書をはさんで下さい」と秦野幸雄は小野雪子に頼む。そうして、一時間が過ぎ、宛名もタイプライターで打つ。雪子は

   「お母様に手紙を書いたの? とても良いことね。やさしいのね」と声を掛けた。幸男は脳性まひ特有の顔の緊張が興奮で強くなったが、うれしさは雪子にも伝わった。声を掛けてよかったとも思った。ただし、その「興奮」の意味するものは雪子には知る由もなかった。




  そのほかに、静岡県のヘドロたれ流しの製紙会社に勤め、公害に嫌気をさし、止めてシマハタに来た人。結婚生活の現実に失望し、離婚した女性。お金万能の社会に疑問を持った元銀行員。十代で妊娠中絶した過去を持つ女性。アルコール中毒の経験を持つ男性...、過去は様々だが、今は「何かを求めている」人たちばかりである。まさに、「百花斉放」そのものだ。


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