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2021年01月10日00:14

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1月10日が忌日である人々

1671年(寛文11年)、徳川家康の十男、徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)が70歳で死去。紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となりました。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたります。父・家康の晩年、頼宣を最後まで手元に置き自ら薫陶を与えて育てました。まだ幼いにもかかわらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落水しても家康は放置した、と伝わっています。由井正雪関連の疑惑が出た際、幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があればただちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書前に正雪との関係を詰問しましたが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らしました。
1709年(宝永6年)、徳川政権、第5代将軍の徳川綱吉が成人麻疹により死去、享年64。誕生日が1月8日なので、そちらの稿で詳説しています。治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられ、後半は「生類憐みの令」を出して、後世、犬将軍と呼ばれました。しかしみの悪政も、戦国の荒ぶれた世相を一変させたとの肯定的な評価もあります。
1833年、フランスの数学者、アドリアン=マリ・ルジャンドルがパリにて80歳で死去。統計学、数論、代数学、解析学で様々な功績を残しました。中でも整数論や楕円積分に大きく貢献したとして名高いです。著作に『幾何学原理』があります。彼の業績は素晴らしかったのですが、後世の学者たちのフォローするところになり、あまり目立ったものになっていなくなっているのは残念です。
1862年、兵器製造家のサミュエル・コルトが通風、炎症性リューマチ、動脈炎の併合症にかかって47歳で死亡。名前から連想されるように、回転式連発銃を開発し、コルト特許武器製造会社(現在はコルト製造会社)を創設し、リボルバー拳銃を普及させたことで広く知られています。
1922年、佐賀藩士、明治になってからは政治家、教育者の大隈重信は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めましたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していき、早稲田の私邸にて85歳で死去しました。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表されました。参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員などを歴任。大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となりました。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設しました。しかし早稲田の創立に協力した人の後裔から私が直接聞いたところでは、「大隈はおいしいところを一人で持って行ってしまった」とのこと。明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされています。
1947年、作家の織田作之助が結核による大量の喀血を起こし、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院。一進一退しつつも病状は徐々に悪化し、33歳でに死去。終戦後、太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作(おださく)」の愛称で親しまれました。北新地の人気芸者で陽気なしっかり者の女と、安化粧問屋の若旦那で優柔不断な妻子持ちの男が駆け落ちし、次々と商売を試みては失敗し、喧嘩しながらも別れずに一緒に生きてゆく内縁夫婦の転変の短篇小説『夫婦善哉』で作家としての地位を確立しました。
1967年、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長、ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal)がカルカッタの自邸にて82歳で死去。ベンガル人。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られます。東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与しました。東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれます。
2016年、、イングランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優、デヴィッド・ボウイが18か月の闘病の末、肝癌により死去したことが公式Facebookにて公表されました。グラムロックの先駆者として台頭し、ポピュラー音楽の分野で世界的名声を得ました。1996年『ロックの殿堂』入り。『グラミー賞』5回受賞(19回ノミネート)。NME誌選出『史上最も影響力のあるアーティスト』など。ボウイの初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちて来た男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらしました。この作品での演技が評価されて、第4回サターン賞の主演男優賞を受賞しました。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演しています。以降の役者としての経歴は散発的なものでした。1983年には大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演。また1984年には『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではピラトを演じています。

本日の忌日もこれきり〜ぃ!
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