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2021年01月02日00:32

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01月02日の日記

今日の出来事:1352年−薩埵山の戦い、1479年−享徳の乱:境根原合戦、1586年−徳川家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔、1869年−箱館戊辰戦争:松前藩降伏、1870年:奇兵隊脱退騒動、1876年−三菱系企業で日本初のボーナス支給、1966年−テレビ初の怪獣SF「ウルトラQ」放送開始

今日は、薩埵山の戦いです。薩埵山の戦いは、南北朝時代に駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)で、足利尊氏の軍勢と弟・足利直義の軍勢で行われた合戦です。「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂しました。足利直義派の上杉能憲が、高師直・師泰兄弟を謀殺後も対立は止まりませんでした。1351年に足利直義は、桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至りました。足利尊氏は南朝と和睦し、後村上天皇から「足利直義・足利直冬追討令」を得ました。そして、足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進しました。足利直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進し、両軍は東海道の難所・駿河国の薩埵峠で合戦となりました。足利尊氏は3000の兵力で、由比の薩埵山に布陣しました。これに対して鎌倉に逃れていた足利直義は10000の兵を率いて、三島の伊豆国府に本陣を置いて対峙しました。足利尊氏は宇都宮氏綱などの関東諸氏と合流する予定でしたが、足利直義軍は山麓を包囲して合流を妨害しました。足利尊氏軍は山上から応戦しました。さらに足利直義は桃井直常に命じて、宇都宮氏綱を討たせるため10000の兵を上野に派遣しました。1352年1月2日、宇都宮氏綱は3000の兵で巧みに戦って桃井直常が敗北しました。その後、軍勢を数万に増やして箱根竹ノ下に到着しました。足利直義軍は潰走し、相模国の早河尻で決戦しましたが敗北しました。足利直義は降伏し、足利尊氏は鎌倉に入りました。この後、足利直義は大蔵浄妙寺の延福寺に幽閉され、3月24日に急死しました。この日は高師直の1周忌で、足利尊氏による毒殺と言われています。

次に、享徳の乱:境根原合戦です。1454年、古河公方・足利成氏と山内上杉家、扇谷上杉家、室町幕府、堀越公方・足利政知の対立により、「享徳の乱」が起こりました。1455年、下総・千葉氏でも内紛が勃発しました。第14代千葉介の胤直・胤宣父子は、一族の馬加城主・馬加康胤と重臣の小弓城主・原胤房らに居城・亥鼻城を急襲されて陥落しました。千葉胤直は志摩城で自刃、胤宣は多古城で自刃し、名族・千葉氏の宗家は滅亡しました。千葉胤直の弟・胤賢は、2人の息子・実胤と自胤を連れて脱出し、小堤城に入りました。しかし、小堤城も陥落して千葉胤賢も自刃しました。2人の息子は八幡荘に逃れました。翌1456年、千葉実胤・自胤の兄弟は、東常縁の援軍を得て国府台城に立て籠もりましたが、簗田持助に敗れて武蔵石浜城、武蔵赤塚城に逃れて扇谷上杉家重臣・太田道灌に庇護されました。20年後の1476年、長尾景春は山内上杉家の家宰職の後嗣を巡って上杉顕定に背いて鉢形城で挙兵し、「長尾景春の乱」が起こりました。長尾景春は翌1477年、五十子陣の上杉氏本陣を襲撃して落城し、山内・上杉顕定、扇谷・上杉定正は上野に逃れました。扇谷上杉家の家宰・太田道灌は、長尾景春に帰順を呼びかけましたが拒否しました。「用土原の戦い」が行われて、太田道灌ら上杉軍は長尾景春を破りました。長尾景春は敗れて鉢形城に立て籠もりました。上杉氏は鉢形城を包囲し、降伏勧告を行いました。長尾景春は不利を挽回しようと、古河公方・足利成氏に支援を要請しました。足利成氏は、結城氏、宇都宮氏、那須氏、佐々木氏、横瀬氏などの関東各地の土豪を引き連れて上野の滝まで進軍しました。上杉顕定、上杉定正らは、鉢形城の包囲を解いて上野の防衛を固めました。1478年、上杉氏と足利成氏の間で和議が結ばれ、長尾景春は鉢形城に帰還しました。しかし、千葉孝胤は停戦に従わず、長尾景春と結んで上杉氏に対抗しました。これを討伐するため、太田道灌と千葉自胤は国府台城に着陣しました。こうして両者の戦闘は避けられない事態となり、「境根原合戦」となりました。1479年1月2日、太田道灌の進軍に対して、千葉孝胤が境根原に進軍しました。このため、太田道灌が馳せ向かうと丸一日合戦となりました。この結果、千葉孝胤が打ち負けて撤退しました。そして、千葉孝胤の重臣一族・木内氏、原氏や匝瑳勘解由、野嶋入道、今泉入道、津布良左京亮妙幸などが討死しました。千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城しました。太田道灌は、甥・資忠を千葉自胤に付けて臼井城を攻撃しました。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、1479年8月2日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て激戦となり、落城しました。しかし、千葉孝胤らの決死の逆襲を受けて太田資忠が討死、千葉自胤も撤退しました。千葉孝胤も混乱に紛れて逃走しました。現在も臼井城の土塁の上に、太田資忠の墓が残されています。この後、千葉自胤は再び下総への侵攻しようとしましたが、下総で千葉孝胤を支持する勢力が多くいたため、侵攻をあきらめました。これにより、下総での一連の戦が終結し、千葉孝胤の子孫が千葉宗家を継承する事になりました。

その次に、徳川家康の重臣・石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔です。石川数正は、徳川家康が「松平竹千代」と名乗っていた今川義元の人質時代から家康の近侍として仕えました。1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれ、松平元康(家康)が独立すると、石川数正は今川氏真と交渉し、今川氏の人質であった家康の嫡男・松平信康と、駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻しました。1561年、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍しました。1562年、織田信長と交渉を行ない、「清洲同盟」を成立させました。1563年、「三河一向一揆」が起こると、父・康正は家康を裏切りましたが、石川数正は浄土宗に改宗して家康に尽くしました。このため戦後、家康から家老に任じられ、酒井忠次と並んで重用されるようになりました。家康の子・松平信康が元服すると後見人となりました。1569年には家康の命令で、叔父・石川家成に代わって西三河の旗頭となりました。その後、1570年の「姉川の戦い」、1572年の「三方ヶ原の戦い」、1575年の「長篠の戦い」など、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げました。1579年に松平信康が切腹すると、岡崎城代となりました。1582年に織田信長が死去し、信長の重臣・羽柴秀吉が台頭すると、石川数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当し、1584年の「小牧・長久手の戦い」に参加しました。しかし、1586年1月2日に突如として家康のもとから出奔し、秀吉のもとへ逃亡しました。理由は謎で、「家康と不仲になった」、「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」等、諸説がありますが、はっきりとした理由は分かっていません。石川数正は徳川家の軍事的機密を知り尽くしていたため、徳川にとって大きな衝撃でした。これがきっかけで以後、徳川軍は三河以来の軍制を武田流に改める事になりました。この改革に尽力したのが、織田・徳川連合軍によって武田家が滅亡した時に、家康が信長の「武田の残党狩り」から匿った武田遺臣達でした。石川数正はその後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えました。1590年の「小田原征伐」で後北条氏が滅亡すると、家康は関東に移封となりました。石川数正は、秀吉より信濃松本10万石に加増移封されました。石川数正は松本に権威と実戦に備えた雄大な「松本城」の築城と、街道につないで流通機構のルートを掌握するための「城下町の建設」、「天守閣の造営」など政治基盤の整備に尽力しました。1593年に死去、享年61でした。家督は長男・康長が継ぎましたが遺領10万石のうち、康長は8万石、次男・康勝が1万5000石、3男の康次が5000石を分割相続する事となりました。

その次の次に、箱館戊辰戦争:松前藩降伏です。松前藩は各地での敗戦の結果、松前藩主・松前徳弘一行は江差のさらに北にある熊石まで後退しました。現状では旧幕府軍に勝てる見込みは無いため、松前徳弘とその一行は本州に船で逃れる事になりました。それまで松前藩士は乙部を死守して、藩主一行が本州へ渡るまで持ちこたえる事を決めました。松前徳弘一行は本州へ渡るための船を捜しましたが、海が荒れており船のほとんどが陸に揚げられていたため、見つけられませんでした。そして、やっと見つけたのが「長栄丸」という小型船でした。1869年1月1日夜、船に転覆防止用の空の酒樽をくくり付けて熊石を出航しました。しかし、荒れた海の航海は厳しく、途中で松前徳弘の娘(5才)が死亡しました。4日に何とか津軽に到着し、弘前藩領の薬王院に逃れましたがここで喀血して倒れ、11日の夕方に25歳で死亡しました。跡を3歳の長男・修広が継ぎ、松前藩14代目藩主となりました。藩主が脱出したのを見届けた松前藩の残兵、約450人は旧幕府軍に降伏しました。降伏した松前藩兵のほとんどが、藩主を追って津軽に渡る事を希望したため、旧幕府軍は希望どおりに船で彼等を津軽へと送りました。こうして、旧幕府軍は鷲の木上陸から約1ヵ月で蝦夷地の平定を達成しました。しかし、この時に薩摩・長州を中心とする新政府軍は、青森に集結し始めました。春を待って蝦夷を攻略するための準備を進めていました。

最後に、奇兵隊脱退騒動です。奇兵隊は「下関戦争」の後、高杉晋作の発案によって組織された長州藩の戦闘部隊です。「教法寺事件」の責めを負い、高杉晋作は総督を更迭されました。その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が総督職を継ぎました。しかし、河上弥市は脱藩して「生野の変」に加わりました。三代目総督は赤根武人、軍監は山県有朋が務めました。「八月十八日の政変」、「池田屋事件」、「禁門の変」、「第一次長州征伐」と戦いました。高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、赤根武人は反対して高杉晋作と対立しました。そして、高杉晋作による「功山寺挙兵」が成功すると藩内での立場を失い、出奔しました(後に捕えられて処刑)。赤根武人が出奔した後は山県有朋が実権を握って四代目総督となり、大村益次郎が長州藩の軍政改革を行いました。「第二次長州征伐(四境戦争)」を戦い、「戊辰戦争」では新政府軍の主力部隊となりました。「戊辰戦争」では、山県有朋に従って「北越戦争」、「会津戦争」を戦いました。大楽源太郎は、高杉晋作らと協力して尊王攘夷運動を推進しました。1864年、冷泉為恭を暗殺し、「禁門の変」では書記として参陣しました。高杉晋作の「功山寺挙兵」に呼応して「忠憤隊」を組織しました。私塾「敬神堂」を開設し、多くの門人を育てました(後の内閣総理大臣・寺内正毅もその一人)。「大村益次郎暗殺事件」では、犯人の神代直人、団紳二郎らが門下生であったため首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられました。明治維新後、「奇兵隊」は鎮台の設立に伴って廃止されました。しかし、これに不満を持った隊士の一部が「脱退騒動」を起こして山口藩庁を包囲しました。大楽源太郎に率いられた「奇兵隊」などによる「脱隊騒動」で、門下生の多くが参加しました。大楽源太郎は山口より脱走し、豊後姫島に潜伏した後、豊後鶴崎で河上彦斎と語らって「二卿事件」を起こしました。愛宕通旭は、明治政府の参与を免ぜられて京都に引き籠っていました。家臣・比喜多源二・安木劉太郎らは、新政府を倒して明治天皇を京都へ連れ帰り、攘夷を断行するべきであると進言しました。古賀十郎とその友人である秋田藩の中村恕助は、比喜多源二によって仲間に招き入れられると、天皇と主だった公卿が東京にいる以上、東京で事を起こさなければ意味がないと説きました。これに同意した愛宕通旭は京都を発ち、東京に入りました。愛宕通旭の主従は、古賀・中村に誘われた秋田・久留米藩士や土佐の堀内誠之進らと謀議を重ね、秋田藩内の同志に呼びかけて日光を占領し、東京に火を放って天皇を京都に連れ出す作戦を練りました。一方、同じころ京都に滞在していた外山光輔も、家臣・高田修とともに同じような計画を企てていました。高田修は、青蓮院門跡家臣・三宅瓦全や菊亭家家臣・矢田期穏清斎父子、美作国庄屋・立石公久らと密談を進めました。立石公久は、久留米藩領内に匿われている大楽源太郎と連絡を取っていました。東京で愛宕通旭が同じような計画を立てている事を知った外山光輔は、使者を送って協力を結びました。愛宕通旭の計画に加わっていた久留米藩士らも大楽源太郎と連絡を取り合っていた事から、愛宕通旭、外山光輔、久留米藩、大楽源太郎による三角同盟が形成される事となりました。ところが、賀陽宮朝彦親王を取り込もうとしたところで発生した「広沢真臣暗殺事件」を捜査中の政府側に情報が漏れ、山県有朋が中心となって摘発に乗り出しました。まず、外山光輔が捕縛され、東京の久留米藩藩邸が政府に押収されて藩知事・有馬頼咸が幽閉されました。政府の命令を受けた熊本藩兵が、久留米城を接収して藩幹部を拘束しました。大楽源太郎は直前に逃亡しました。その後、愛宕通旭が捕縛されました。この「二卿事件」は、最終的には339名が逮捕される「安政の大獄」以来の大獄となりました。愛宕通旭と外山光輔は切腹となりました。大楽源太郎は久留米の「応変隊」を頼り、同志を糾合して再起を図りました。しかし、木戸孝允により「奇兵隊」は武力鎮圧され、佐々木祥一郎ら130人あまりが処刑されました。大楽源太郎は、新政府からの追求を受けた応変隊士の川島澄之助、吉田足穂、大田茂、松村雄之進、柳瀬三郎の五人によって、弟・山県源吾と共に斬殺されました。こうして、「四境戦争」や「戊辰戦争」で活躍した「奇兵隊」は、その役目を終えると悲劇的な結末を向かえました。

今日の誕生日:徳川義直、伊丹万作、柳家小さん(5代目)、山崎豊子、天本英世、池田大作、海部俊樹(第77、78代内閣総理大臣)、森村誠一、立川談志、津川雅彦、古谷一行、伊吹吾郎、岡本信人、佐藤直子、小坂明子、浦沢直樹、斉藤仁、正田耕三、速水けんたろう、加藤晴子(あみん)、竹野内豊、中嶋美智代、さとう珠緒、村上知子(森三中)、杉枝真結(元Happiness、元E−girls)、樋口新葉、沢田タケシ

今日の記念日:正月(初夢、書き初め、仕事始め(初荷、初売り、初商、農初め、初舟、山初め))

今日の「今日訓」:本日は、「初夢」です。2日の夜から3日の朝にかけて見る夢を「初夢」と言います。その夢で一年の良し悪しを占った昔は、よい夢を見るために枕の下に宝船の絵を敷いて寝る人が多く、商人が絵を売り歩きました。めでたい夢と言われる「一富士、二鷹、三茄子」は徳川家康の出身地である駿河の名物から来ています。
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