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2020年12月15日08:52

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勉強会講話より「84人の成就者たち」第一回(7)



【本文】

 彼は米の脱穀をする仕事をしたので、「ディンカパ」という名前で知られました。

 ディンカパは詩句の中で、このように歌っています。

 
 かつて聖典ヴェーダを朗読したわたしディンカパは、米をつき、瞑想を行なう。
 わたしは臼の中で米をよくつき、手で集めて山にした。
 わたしはグルの教示によって米をついた。黒い米をついた。
 わたしは本初の善によって罪をついた。ヴァジュラの智慧の杵によって。
 わたしは空なる法性としての臼の空洞の中で、月と太陽のように光り輝いた。
 絶えず捨てることと取ることとを無差別としてつき、
 フーム字で分別をかき混ぜることにより、
 大楽のバターが生じ、
 非二元性の風味を味わう。



 はい。これはこの人が酒屋で、主にまあ米の脱穀あるいは米をつく作業を担当してたんでしょうね。インドの酒の種類はもちろんわたしはよく知らないけど、日本酒みたいに米から作る酒もあったのかもしれないね。で、その自分がしてた仕事にちょっとこう引っ掛けるような感じで、悟りの境地を表わした歌だね。
 まあこういう歌っていうのは、そうですね、あまり論理的に分析するものではなくて、なんていうかな、フィーリング的に感じなきゃいけないわけだけども、まあちょっとだけ表面的な分析をすると、「グルの教示によって米をついた。黒い米をついた。 」――これはつまり、黒い米っていうのは自分が持ってるけがれですね。もしくは悪業。それをグルの教えっていう杵っていうかな、グルの教えによって、それを日々ガンガンガンガンと打ち砕いていきましたと。

 「本初の善によって罪をついた。ヴァジュラの智慧の杵によって。 」
 はい。本初の善っていうのはつまり、本性的な、人間誰でもが持ってる悟りの境地みたいなのがあるわけだけど、それによって、自分が積んでしまったさまざまなけがれを浄化していきましたと。

 「捨てることと取ることとを無差別としてつき、」
 はい。これはつまり、例えばわれわれは常に二元性の中にいます。例えば「好きです」「嫌いです」。「苦しい」「楽しい」。さっきのね、まさに分別の話だけども。「良い」「悪い」――この二元性の中でわれわれは苦しんでいる。で、この人もそのルーイーパと同じように、まあおそらくその十二年をかけて、すべての無差別性、つまりいいも悪いもない、好きも嫌いもない、苦も楽もないっていうふうに、徹底的に壊していったんでしょうね。

 「フーム字で分別をかき混ぜることにより」――これは深い瞑想のやり方を表わしています。チャクラサンヴァラであるとか、いろんな瞑想法において、こういったフーム字とかオーム字とかいろいろ使って、自分の心をこう変えていく観想があるわけですね。その観想ですね――によって、「大楽のバターが生じ、 非二元性の風味を味わう。」
 はい。この辺もさらっと書かれてるわけだけど、この種のその密教修行、もしくはクンダリニーヨーガとかあるいはバクティヨーガとかもそうなんだけど、その悟りの一つの特徴は、まあよく楽空無差別っていうんだけど、ものすごい至福感つまり素晴らしい至福の境地を味わいながら空の悟りを得るんだね。つまりその何もないただボーッとした「あ、すべては空だ、何も感じません」ではなくて、強烈な至福のもとに空の悟りを得るっていう一つの特徴があります。だからそれがここで表現されていることですね。
 「非二元性の風味を味わう」と。つまり「一切は空だ、何もない、寂静です」ではなくて、なんていうか――まあ表現できないわけだけど、空なんだけどすごい気持ちいいと。
 これはちょっとわたしの経験をまた言うとね、これも前に話したことあるけど、あるとき、放棄、つまりいろんな執着を捨てていくっていうことを自分の課題として特にやっていたことがあったんだね。で、それまでは、なんていうかな、修行のタイプとして、あまりそういう放棄とか捨てるっていうことが、ちょっと自分は苦手だと思っていた。例えば何か執着があったとして、でも逆にその執着を利用して頑張るとかね、なんかそういう方が好きだったわけだけど、そうじゃなくて、もう放棄すると。一切の執着を断つっていうようなことを、まあ実際の生活でもそうだし精神的にも心の中でも、あらゆるものへの執着をどんどん切っていくようなことを特に力を入れてやっていたことがあった。で、それはもちろん最初は大変なんだけど、だんだんだんだん時間をかけてやっていくとね、だんだん自分の中からいろんな執着が消えていくのが分かった。で、その先にあるのは何かというと、最初わたしがイメージしてたのは、つまりいろんな執着がなくなったときに現われるのは、もうほんとに澄んだ、止まった寂静の世界だと思ってたんです。しかしわたしの中から一つ二つ三つと大きな執着が切れていったときに現われたのは、至福の境地だったんです(笑)。とても面白いんだけどね。とらわれとかを外していったときに、非常に、なんていうかな、純粋な至福が現われた。何かをして気持ちいいとかそういう世界ではなくて、純粋な至福。で、これに到達する道っていうかな、それを特に特徴的に現わしていくのが、クンダリニーヨーガであり、まああるいはバクティヨーガだね。バクティヨーガでは有名なのはラーマクリシュナとかまさにそうだけど、もう強烈な歓喜のサマーディに入ってしまう。それは一種のまあ無分別の状態に入っていくわけだけど、でもそれはもうものすごい至福なわけだね。それは何かをして至福っていうんじゃなくて、何もしてない純粋なる至福があるんだね。その修行を強調してるのがこの密教的修行の一つの特徴だね。





【本文】

 なぜディンカパを酒売り女に売る必要があったのでしょうか。
 「ブラーフマナ」という大きな分別を持つ彼に、酒売りを体験させることによって、階級のおごりを断ち切るために、彼を酒売り女に売ったのである、といわれます。

 師ディンカパの伝記、終わり。



 はい。まあこれは書いてあるとおりですね。もちろんこれがほんとに、なんていうかな、それだけが狙いだったのかは分かんない。そうなのかもしれないし、もっと多くの狙いがあったのかもしれないね。まあでも一応ここで書かれてるのは、ブラーフマナ――さっき言った、インドでは最も尊敬される階級に自分はいるっていうそのプライドね、これを打ち砕くために――酒売りっていうのはね、インドではもともとは低い階級に属します。つまりもともとインドって酒を嫌うから。いつも言うけど、インドでは、ドラッグよりもマリファナとかよりも酒の方が悪なんだね。観念としてね。ヒンドゥー教徒っていうのは酒を飲むことはもうご法度だと。あるいはもちろん仏教徒も酒は絶対駄目だと。だから宗教心のない人たちが酒を飲む。でもマリファナは、なんか普通に問題ないっていうか、つまり普通の日本人とか欧米人たちがタバコを吸うみたいなくらいの感覚でしかとらえられていない。だからその辺は観念の違いなんだけど。で、その酒売りっていうのはとても低い身分のものっていうかな――っていう観念があった。よって、自分は高貴な者だっていうプライドを持ってるこの人の、そのプライドを打ち砕くために、あえてその低い仕事に就かせて、で、そこでタダ働きをさせるっていうことをやったんだっていうふうにここに書いています。もちろん、ほんとはそれだけじゃないかもしれません。それはまあ、ルーイーパしか分かんないね。われわれでそれを推測することはできない。
 はい、ここまでで何か質問ありますか?――今日は変わった勉強会だね(笑)。はい。じゃあ次いきましょうかね。


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