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2020年11月25日06:07

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50年の孤独と憂国

昨日は昼食にこれを食べてみた。

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買い弁して買ったこれはレンチンして食べるミートラザニアである。税別548円もしたが見た目が旨そうだったのでこれを選んだ。
500Wで4分チンしてあつあつを食べた。ラザニアの下にはマッシュポテトが敷いてあり食べ応えはそこそこあったものの上にかかっているミートソースの味が単なるトマト味のみの単調なものであったので大しておいしくなかった。残念!

ラザニアを食べたのは実に久しぶりであり僕が27歳の時以来なので27年ぶりだ。人生の半分ぶりである。実に。
長年ラザニアを口にしなかったのには浅いわけがあり嫌な思い出があるからだ。
先妻と行った新婚旅行でおアメリカマイアミあたりの途上のレストランで名物のシーフードラザニアを昼食に食べたことがあった。大味で量ばかり多くて閉口してしまい、これだからアメリカはイヤだったんだと思わされたものだった。僕は国内九州を旅行したかったのであったが、先妻の希望を聞き入れてのことであった。

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このあたりからして夫婦関係はすでに気まずかったのであった。そも成田発では航空機の整備不良による故障で機内に半日待たされた挙句結局機は離陸することなく僕らは深夜に飛行機を降ろされてしまい空港近くのホテルに逗留させられたのであった。あそこからしてすでにミソがついていたりした。まあうまくいかない時というのはそんなものだったと後で思い知らされたものだった。成田とラザニア。いまもちょっと苦い味です(-_-;)。

昨日の日記では三島由紀夫のNHKスペシャルを見損ねたとしたが、昨夜BSPで「アナザーストーリー選」を放送していたので録画を先刻観た。あの市谷駐屯地での人質立てこもりの末の割腹自決事件の全容であった。

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いまだに自殺の要因についてあれこれ語られており謎だとされていた。だが僕はこれ観てだいたいこうなんじゃなかろうかという思いを得た。

三島は21歳で終戦を迎えて玉音放送の瞬間の木々が陽光に照らされる美しさを虚しく思ったとしていたのに対し、あれこの人なんで出兵しなかったのかと思ったら、どうやら徴兵検査で肺病の疾患がみつかり、念願の出陣を果たせなかったらしい。
そうした上で迎えた終戦であり、どうも本人は自分だけ生き永らえたことに対する慚愧の念があったようだ。三島がもし出兵していたら派遣先のフィリピンの軍隊は全滅していたそうなので、つまり三島は自身の死に場所を得られず永らえてしまったという前提があるのであった。

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そして戦後20年。日本は経済成長を遂げ、自身の執筆した本は人気を得て売れた。なれど彼の心は満たされなかった。どうも日本はその20年でかたちばかりは変わったものの中身は戦前のまま進歩がないのを不満に思っており、これは憂国であった。
なので左傾化を声高にする若い人々の風潮に檄を入れるためにあの「楯の会」を作ってユニフォームまであつらえて心身ともに武装しようとしていた。

そうこうしているさなかではボディービルで肉体改造もしており、徴兵検査での屈辱を取り払おうとしていたのかもしれないと思わされた。

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僕が浪人生の時の英語の講師の先生がぽつりと言ったことを覚えている。三島の自決の原因は自身が築き上げた美しい肉体が老化することすなわち老いさらばえることに耐えられなくて自殺を選んだのではないか、というのであった。三島はナルシストであったろうからそれも考えられるかもしれないと僕も思ったりした。

そうこうするうちに70年11月25日つまりは今日からちょうど50年前の今日を迎える。市谷駐屯地での人質立てこもりだ。自衛隊の総監を人質にしていたことを不勉強な僕は今朝初めて知った。どえらいことをしたものだなあとちと呆れた。

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彼の自死直近のことばである。死んで後までも自身を認めてもらいたかったのであろうか。ちょっと哀れに思った。
以下は自身の最期において見届け人を懇意にしていたサンデー毎日の雑誌記者に宛てて手紙にしていた。その抜粋である。

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「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる」とある。これ見てああ三島さんもまた明晰な頭脳を持ちながらも使い方を誤っているなあと嘆かされた。
どデカい排気量のビッグバイクを持っていたってそれの運転を誤って電柱に激突死してしまえばそれまでだ。たとえ排気量50cc未満の原付バイクであってもそれでもって得意先に注文受けた野菜や契約の朝刊を届ける方がはるかに有意義ではなかろうか。

憂国の思いのなか、敬愛する先輩小説家の川端康成先生がノーベル賞を受賞して喜ぶ三島がこちら。

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日本文学が世界に認められたことが嬉しかったとあった。だが本心は自身が受賞したかったのではないかと語る人が番組中の関係者にいたが、三島の再来と言われる作家の平野啓一郎先生も番組に呼ばれており語っていた。三島はたとえ賞を受賞していても市ヶ谷での決起を実行していたであろう、と。なぜか僕も同感に思った。

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「自分は文学で日本に貢献できていたであろうか」。こんな思いを抱えていたのだ。この人、きっと永遠に満たされることのないナルシストではなかろうかとここでも彼を哀れに思った。

やはり考えすぎはよくない。憂国の精神は立派であり、僕は愛国心はほぼ皆無ながら憂国の憂いはやはりある。心配なのだこの国が。特に現在の政権が特に非道いしね(-_-;)。三島さんはあまりに心配しすぎて自身を置き去りにしちゃったんだろうねきっと。

とまあ僕なりの三島論を展開したところで、本物を名乗るあるいはコアな三島ファンからすれば僕の言うことこそお前寝言言うな!と叱責されること請け合いだ。たしかに三島さんは僕が思うよりもっともっと繊細であったろう。

戦後50年。肉体死せども精神は死せずであろうか。今日は三島没後50年の日である。せめて合掌を。

今朝の朝刊がこちら。

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あらら。安倍さんとうとういまわの際となったか認めちゃったのね。これからどうなることやら。ちょっと楽しみです。けけけけけけけけけ。品がねえなあ僕(-_-;)。
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