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2020年08月23日16:02

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開戦前年に起きた陸軍機の墜落、80年前の記憶をたどる

 下記は、2020.8.23 付の 産経ニュース の記事です。

                記

 先の戦争が始まる前年の昭和15年、現在の京都府京田辺市に1機の陸軍機が墜落、搭乗していた宝蔵寺久雄・陸軍中将=死亡後少将から1階級特進、当時(50)=ら6人の軍人・軍属が殉職する事故があった。当時は大きく報道されたが、80年がたった今では地元の人でも知る人は少なくなった。事故を調査し、郷土誌にまとめた2人の郷土史家は「地域の歴史を書き残し、後世に伝えていければ」と話している。(井上裕貴)

悪条件重なり…

 郷土史家の古川章さん(83)と北村武弘さん(67)がまとめた郷土誌「やましろ」の記事によると、墜落事故があったのは昭和15年2月25日。中国・満州にあった白城子陸軍飛行学校の校長だった宝蔵寺中将ら6人が東京での会議に出席するため、陸軍機で埼玉県の所沢飛行場に向かっていた。

 だが、兵庫・明石上空を通過後に消息を絶ち、同日午後1時48分ごろ、旧大住村(現京田辺市)松井地区付近で空中分解し、水田に墜落した。エンジンの不調のほか、天候不順や翼の結氷などの悪条件も重なったのが原因とみられている。

 陸軍の将官が殉職するという極めて大きな事故に、当時の新聞は「宝蔵寺中将ら六名、壮烈なる殉職を遂ぐ」「無気味な爆音、突如空中分解」との見出しで大きく報じた。

 しかし、80年が経過し、事故を知る人は地元でもほとんどいないという。2人は「このままでは事故が忘れ去られてしまう。身近にも戦争に関わる大事件があったことを若い世代に伝えねば」と事故の詳細を記事にまとめようと決心。墜落現場近くの家を1軒ずつ回り、目撃者の証言を得た。

 その結果、「キュル、キュルという異常な轟音(ごうおん)とともに、機首が北方に向かっていった」「小雨が降る中、事故現場に憲兵隊が規制線を張り、兵士4人が担架で遺体を運び出していた」といった事故前後の状況が明らかになった。

 また、現場では子供への土産物とみられるおもちゃが見つかったことや、京都市伏見区で行われた殉職者の通夜に東条英機・陸軍航空総監(後の首相)の供花があったことなども調査で判明した。

中将の長男とも交流

 殉職した宝蔵寺中将は明治22(1889)年、佐賀県生まれ。ノモンハン事件などで武功を立て、軍人としての才覚を発揮した一方、「天舟子」の俳号で詩人としても活動していた。満州でも航空機での不時着を経験したが、その際の克明なメモを書き残すほど冷静で几帳面(きちょうめん)な性格で、晩年は大戦への憂慮を口にしていたという。

 「やましろ」には宝蔵寺中将の長男で平成11年に78歳で亡くなった忠さんと2人の交流も描いている。戦後、しばしば墜落現場に慰霊に訪れていた忠さんは、当時、田辺町(現京田辺市)の職員だった古川さんと親交があったからだ。古川さん自身も沖縄戦で父親を亡くしており、忠さんに共感できる部分があったという。北村さんも忠さんの長野県の自宅を訪れ、聞き取り調査を行った。「忠さんはいつも『事故で松井の人々には迷惑をかけた』と話していた」と振り返る。

 現在、墜落現場の水田の近くには、戦後まもなく地元有志が建てた質素な石の慰霊碑があるのみだが、毎年命日には供養に訪れる人がいるという。古川さんは「誰かが故人を思い出す限りその人は生き続ける。書き残すことが殉職者の弔いにもなれば」と話す。

 2人は地元有志とともに地域の図書館で戦争展示を開き、平和について考える活動を行っている。今後はその中で事故について紹介し、若い世代に伝えていくつもりだ。北村さんは「こんなのどかな町でも大きな被害の出る事故があったことを忘れてはいけない。『平和だからといって傲慢になってはいけない』と警鐘を鳴らさなくては」と話している。

 https://www.sankei.com/premium/news/200823/prm2008230003-n1.html
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