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2020年08月07日00:08

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8月7日の日記

今日の出来事:1576年−第一次木津川口の戦い、1821年−伊能忠敬によって作られた史上初の日本地図「大日本沿海輿地全図」が江戸幕府に献上される、1868年−北越戊辰戦争:十二潟の戦い、1877年−西南戦争:美々津の戦い、1945年−豊川海軍工廠が空襲され、女子挺身隊員・国民学校児童ら2667人が死亡、2002年−東京・神奈川県境の多摩川でアゴヒゲアザラシを発見、多摩川に因んでタマちゃんと名付けられる

今日は、石山合戦:第一次木津川口の戦いです。本願寺顕如は、将軍・足利義昭と与して三たび挙兵しました。信長は、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲しました。本願寺軍は逆に1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻め入りました。この時に包囲軍の主将であった塙直政が戦死しました。この敗報を聞いた織田信長は、3000の兵を連れて天王寺を包囲している15000の本願寺軍に攻めかかりました。包囲を突破して砦に入ると、すぐに明智光秀をはじめとする砦内の7000の兵と合流し、討って出ました。そのため、籠城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は敗走し、石山本願寺に退却しました(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城を、住吉の浜手に要害を設け、塙直政の後任の司令官に佐久間信盛を任命して本願寺を完全包囲下に置きました。本願寺は、毛利輝元に救援を要請しました。毛利輝元は、直属の水軍・児玉就英、小早川水軍の乃美宗勝、村上水軍の村上元吉らに命じて船800艘が兵糧・弾薬を積載して大坂に送り込みました。これに対し信長は、九鬼嘉隆を総大将に和泉綾井城主・沼間清成、和泉大津城主・真鍋七五三兵衛、和泉淡輪城主・淡輪徹斎など和泉の国衆に命じて毛利水軍を迎え撃たせました。両軍は大阪湾木津川河口で激突しました。毛利水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は多くの船を焼かれ、壊滅的な打撃を受けました。ここで真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介らが討死しました。この敗戦に激怒した信長は、九鬼嘉隆に対して燃えない船を造るように命じました。この時に九鬼嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄を貼った「鉄甲船」の建造でした。鉄甲船の建造には莫大な資金が必要でしたが、信長がこの案に理解を示したおかげで伊勢浦の大船と呼ばれた「鉄甲船」が完成する事になります。この鉄甲船は、「第二次木津川口の戦い」でその威力を見せつける事になるのです。

次に、伊能忠敬が史上初の日本地図「大日本沿海輿地全図」を完成です。伊能忠敬は、千葉県山武郡九十九里町に生まれ、18歳の時に下総国香取郡佐原村の伊能家に婿養子に入りました。以来、しばらくは商人として活動しました。50歳の時に家督を長男・景敬に譲って隠居し、江戸に出ました。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めました。寝る間を惜しんで、天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」というあだ名で呼ばれていました。その際、天体観測を利用して地球の大きさを仮定しましたが、師匠である高橋至時に基準とする距離が短か過ぎて不正確である、江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと一笑に付されました。この事が、伊能忠敬が測量の旅に出るきっかけになりました。56歳の時に、第1次測量を開始しました。これは測量家としての腕を見込まれた事のほか、伊能忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとした事が、幕府にとっても有益だと判断されました。幕府は、伊能忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされています。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方で行われました。宗谷付近については当時、伊能忠敬がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われました。ただし、伊能忠敬の測量が極めて高度なものであった事から、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていきました。また、この際に地図投影に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸深川から野辺地に至る路線の測量により、緯度1度に相当する子午線弧長がおよそ28里2分(110.7km程度)に相当すること、またそれを元に地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測しました。この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差で、伊能忠敬の測量が正確だったと言えます。こうして作られたのが「大日本沿海輿地全図」であり、大変精度の高い日本地図として評価されました。完成したのは伊能忠敬没後の1821年でした(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図組三人頭」の墓が並んでいます)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓があります。伊能忠敬は、足かけ17年かけて全国を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにしました。また、日本で初めて金星の子午線経過を観測した人物でもあります。

その次に、北越戊辰戦争:十二潟の戦いです。今まで風見鶏をしていた新発田藩が、遂に米沢藩の圧力に屈して軍勢を列藩同盟軍に差し出す事になりました。新発田藩の溝口半左衛門が率いる7個小隊は、米沢藩大隊長の横山与一に伴われて見附に到着しました。米沢藩兵の指揮を取る仮参謀・斉藤篤信の指揮下に入りました。斉藤篤信は、米沢藩兵と新発田藩兵を率いて十二潟村に攻撃を開始しました。十二潟村は長州藩奇兵隊八番隊(隊長・三好六郎)と加賀藩兵1個中隊(隊長・蓑輪知太夫)が守っていました。新発田藩兵と米沢藩兵は十二潟村対岸の大口村を占拠して、ここから十二潟村に攻撃を開始しました。米沢藩兵の目を気にした新発田藩兵は猛攻を繰り返し、佐藤八右衛門以下の多くの死傷者を出しました。夕方に、列藩同盟軍は撤退しました。

その次の次に、西南戦争:美々津の戦いです。8月2日に高鍋を突破されて敗退した薩摩軍は、美々津に集結して戦闘態勢を整えました。本営を延岡に置いて、山蔭から美々津海岸まで兵を配置しました。この時に、桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡と順次北方に陣を構えて諸軍を指揮しました。別働第2旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた「宮崎徴募隊」の背後を攻撃しました。薩摩軍は渡川、鬼神野から退くと、8月6日に山蔭の守備を固めました。西郷隆盛はこの日、各隊長宛に教書を出して奮起を促しました。8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退しました。政府軍は、そのまま薩摩軍を追撃し、富高新町に突入しました。薩摩軍はこれを抑えきれず、美々津から撤退して門川に向かいました。この日、池上四郎は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移しました。

最後に、豊川海軍工廠空襲です。豊川海軍工廠は、愛知県豊川市にあった日本の海軍工廠です。機銃、弾丸の製造を行っていました。東海地区では勿論、当時は東洋随一の規模となっていました。8月7日10時30分、サイパン、テニアン、グアムから飛来したB−29爆撃機124機の爆撃を受け、30分間に500ポンド(250kg)爆弾3256発(約800トン)が投下されて、工廠は壊滅しました。この空襲により、合計2667名が犠牲となりました。勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒からも多数の犠牲者が出ました(男193名、女259名、計452名)。工廠は再建される事なく、そのまま終戦を迎えると廃止されました。戦後の跡地は警察予備隊豊川駐屯地(現・陸上自衛隊豊川駐屯地)、国鉄分工場(現・日本車輌製造豊川製作所)、千代田光学(現・コニカミノルタ瑞穂サイト)、豊川市役所、名古屋大学空電研究所(現・太陽地球環境研究所)、熊谷組豊川工場(現・テクノス株式会社)などになりました。豊川稲荷公園内には空襲の犠牲者に対する供養塔があり、その他市内外の各地に数十の慰霊碑が建てられました。毎年8月7日には慰霊祭が行われています。また毎年、夏には桜ヶ丘ミュージアムで豊川海軍工廠展が開催されています。

今日の誕生日:伊藤忠兵衛、ウルリッヒ・サルコウ、豊田貞次郎、司馬遼太郎、藤田元司、アベベ・ビキラ、増岡弘、、マサ斎藤、桑名正博、内田春菊、大和武士、ジミー・ウェールズ、千葉美加、呉建豪(F4)、梶原雄太(キングコング)、巻誠一郎、朝赤龍太郎、五十嵐隼士、平田璃香子(元SKE48)、野比のび太、花輪和彦

今日の記念日:立秋、月遅れ七夕、鼻の日、バナナの日、東京ばな奈の日、花やしきの日、パートナーの日、自分史の日、オクラの日、花火人の日、?(ハテナ)の日、はなまるうどんの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ、「立秋」です。初めて秋の気配が現れてくる頃とされています。「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」から「立秋」となりました。この日から立冬の前日までが秋となります。翌日からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられています。また、翌日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出す事になります。この日に至っても梅雨が明けない場合は「梅雨明け」の発表はされなくなります。「月遅れ七夕」です。北日本や九州などでは月遅れのこの日に行われます。オクラの切り口が星形をしている事から「月遅れ七夕」のこの日に、オクラを食べると願いがより叶う事から「オクラの日」、旧の七夕の日とされる「は(8)な(7)」の語呂合わせで「鼻の日」 、「花やしきの日」、「バ(8)ナナ(7)」の語呂合わせで「バナナの日」、「東京ばな奈の日」、「パー(8)トナー(7)」の語呂合わせで「パートナーの日」 8月は「終戦記念日」、「広島」と「長崎」の原爆忌など、日本にとって時代を超えて記憶を語り継いでいかなくてはならない日があり、お盆は自分のルーツを思い、祖先に語りかける時季で「は(8)な(7)」で「話し」の語呂合わせで「自分史の日」、「は(8)な(7)び(日)の語呂合わせで「花火人の日」、「ハ(8)テナ(7)」の語呂合わせで「?(ハテナ)の日」、「は(8)な(7)」の語呂合わせで「はなまるうどんの日」となりました。
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