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2020年07月22日22:01

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さくらんとしんぼる



消費社会のもの全てを同一の地平に引きずりおろしながらも、自らは唯一無二の存在になろうとしている蜷川実花と松本人志である。椹木野依が怒りまくるでぇ。『さくらん』。華やかな吉原とカラフル金魚が泳ぐ大きな鉢、それらが東京を表しているかのような世界。手練手管しながらも、日暮はその世界で生きるには正直すぎる。彼女はさらなる自由を求めている。前半はなんとなく花登筺的な不憫な展開、健気な主人公が表される。木村佳乃と永瀬正敏のシークエンスの中盤、そこに表される絵は蜷川実花流ナンゴールディン的my tribe、そこから始まる主人公の力強い姿が東京人としての蜷川の共感、働いていく。されど、そのままエナジェティックに突き進むではなく、女性らしい不安定さは『ヘルタースケルター』の後半同様に表されていく。思えば、蜷川実花のテクストにおいて、『人間失格 太宰治と3人の女たち』の男性である主人公においても、祭りのシーンの沢山の風車が音立てて一斉に回る契機からの後半において同じような不安定さを表していた。咲くことを諦めた桜、しかし咲かない桜はない。華やかな東京の外にある心を鮮やかにさせてくれる桜、素の姿を見せるふたり。あれはささやかなひとときを表しているのかと思ったけれど、かけおちだったのね。完結を表しているのか。土屋の、しっかり見る大人の眼と揺れ動く瞳の子供らしさの使い分けが上手かった。『しんぼる』。広角レンズの走ってくるクルマがエスタブリッシュされる。苦行、実践、未来が表される。ドキュメンタリータッチというかシネマヴェリテというか、現実感を表す映像、そこにギャグ的にCGがなされる。現実感あるところで起こる、その現実性というイメージがコンセプト。バカな精神とバカな身体の二元論。苦行を重ねる精神と成就そしてプロセスにおける過酷な身体性、それはなにごとかを成し遂げた者のみが理解できるコメディであるかのような風情を見せる。仏教のぶっとび無常観とキリスト教的猛者ファミリー観(そこにはマスク-仮面劇によってギリシャの古来からの供儀性も表される)がエンタメを創作できる。男のシンボルの推移がおちんちんに表され、人生それは失敗と上手くいくことの繰り返し、主人公はハイに昇っていく。デカチンを押しに行く未来に向かう。



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