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2020年06月01日11:54

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「シマハタの光と陰・第14章」を書いて

この通り、今回は教育に集中して書いた。内、「深沢哲男先生」のモデルの人とは、1977年に2回お会いして、顔も、声もはっきりと覚えている。温厚で、心が深そうな方だった。ただし、名前は忘れた。心が深そうな名前にしたいと思い、そのような名前を付けさせていただいたわけである。


  本名で書いた人は二人。花田春兆氏と野口栄一氏である。花田氏は身障運動と俳句関係で大活躍された方であり、一種の公人なので、世間的通称名の通り、書いた。実際の名は「政国」、春兆は俳句名だが、本人もその名で通したわけだし。野口氏は僕と一番親しくなれた人。彼が天国に行くまで文通も続けた。島田の事を明確に今も覚えているのも、小説に書けるのも、彼のお陰だと僕は思い、感謝も常にしているわけである。

  他の男女3人の身障園児もそれぞれモデルがある。

  字を覚えた感動、知らなかった事を知る感動を再現させたかった。群馬県出身の野口君には何が感動にふさわしい事か、考えて書いた。リンゴやお米のでき方は元々よく知っているはずだが、海のない群馬県ならば、海の魚の獲れ方はよく知らなかったのではないかと思い、それにしたわけである。「学ぶ・知る感動」は記録に残っていないが、大変大事なことである。

  今はまだ初期。前向きに皆頑張っていた時である。でも、前に書いた「聖書の愛を母性愛と混同」など、元々おかしな点もあった。更には、欧米の施設の状況も、小林園長も本当は知らなかった。欧米では、本当は人種差別が絡み、黒人やロマ、中東系の人達が低賃金で使われている事を。その矛盾が、後年出て、色々と狂ってくるわけである。秦野幸雄のモデルの人物は、1979年、ルポ・ライターに「今は島田の心がない」と訴えていたわけだし。狂った果て、歴史から抹殺。本当は日本で初めての障碍児施設なのに、次に作られた「ねむの木学園」が日本で初めての障碍児施設にされている。先日、帰天された宮城真理子さんの追悼報道にも、「ねむの木は、日本初めての障碍児施設」と紹介されていました。歴史は変えられるわけです。(初期島田は内部もかなり心が通じ合い、同時に世間にも浸透し、国会答弁にもなるなど、社会を変えている。心通じるもの=社会を変えるものではないかと、今の僕は気が付きつつある)。


  因みに、今回の章は本当は4月に合わせて書く予定でしたが、コロナで僕も気が散り、書けなかったです。関係ありますね。もっとも、4月に公開しても、世界の人達がコロナに注目していたから、余り読まれなかったと推察しています。今が正解。今後も、仮に章が完成しても、コロナ流行の時は公開を遅らせることにしました。








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